
アメリカ社会では、親しい間柄になると大人同士も名前(First Name)で呼びあうことはよく知られています。家族や友人の間だけでなく、職場でも同僚はもとより上司のこともたいてい名前で呼びますので、「目上には敬語」という習慣に慣れた日本人には、これはちょっとしたショックです。例えばレストランでは、ウェイトレスが「ケイトです。私がこのテーブルを担当します(My Name is Kate. I'm your server.)」なんて明るく自己紹介してくれるし、電話での問い合わせやホテルの予約などで「念のため名前を」と尋ねると、相手は名字ではなく名前を教えてくれます。つまりアメリカでは、名前を教えることにはあまり抵抗がないのです。でも逆に、フルネームで名字までというのは一般的でなく、ですからアメリカ人は名字を聞かれることにはかなりの抵抗感があるようです。このあたり、日本とはまるで逆ではないでしょうか?
さて、では、学校では? 先生はどう呼べばよいのでしょう? 生徒はどう呼ばれているのでしょう?
日本では教師はすべて先生と呼ばれます。でも日本語の「先生」は便利な呼称で、教師だけでなく、医師も、政治家も、弁護士も、税理士も、行政書士も、コンサルタントも、評論家も、作家も、音楽家や画家も、皆が先生と呼ばれています。こうした状況を揶揄して、アジア諸国の繁華街では、日本人の男性を見たら日本語で「先生」か「社長さん」と呼べといわれているくらい。日本人も、時に「先生と呼ばれるほどの・・・」などという皮肉も言いますが、しかし実際、日本では先生と呼ばれるべき人を呼びそこなったら・・・なかなかに大変です。
さて、一方のアメリカですが、アメリカには日本語の「先生」にあたる呼称がありません。もちろん教師にあたるTeacherという語はありますが、これは職業をあらわす言葉で敬称としては使われません。小学校から高校までの義務教育の学校の先生たちは、たいてい女性は一般に Miss、Mrs、あるいは Ms を冠して姓で、男性は Mr. を冠して姓で呼ばれるのが一般的な伝統です。日本でもよく知られている小説「チップス先生さようなら」の原題は "Goodbye, Mr. Chips" ですし、明日ご紹介する絵本「Miss Nelson is Missing」のMiss Nelson(ネルソン先生)も小学校の先生です。
アメリカでは幼稚園の一年間も義務教育であることは既にご紹介しました(ブログ記事:もういくつ寝ると幼稚園)が、幼稚園では、小学校以上と違い、先生の名字ではなくて名前に Miss、Mrs、Ms あるいは Mr. をつけて呼部のが一般的のようです。たとえば Ms. Lori とか Ms. Debbie というふうに。これはプリスクールも同じです。
大学はやや事情が違います。大学になると「~先生」と丁寧に呼ぶときには姓に Prof. (Professor教授)を冠して呼びます。講義を受け持つ教授職は皆 Prof. です。一方、研究職の先生方の場合には Prof. ではなく、Dr. を冠して呼ばれる場合もあります。
でも実は大学では、教授と学生がファーストネームで呼び合うことが珍しくありません。私の勤務していた大学でも、人気のある教授ほど親しみをこめてファーストネームで呼ばれていました。世界的なベストセラー「Tuesday with Morrie(邦訳:モーリー先生との火曜日)」でも、Morrieは著者の大学の恩師。敬愛する先生だからこそファーストネームで呼んでいるのです。
それにしても、教授を名前でよぶなんて! 日本で教育を受けた身にはいささか驚きで、馴染むのに時間がかかりました。ある時、知り合いの教授の講義を聞きに大学院のクラスに行きました。忘れもしない午後最初のクラスでしたが、かたやフランスパンをかじりながら(!)講義する教授に向かって、かたやコーヒーカップを手にした学生が、両足をデスクに載せたまま(!!)、教授のファーストネームで呼び掛けて質問したときには、ナイーブな私は、驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになりました。
でも、考えてみれば、真理の前には何びとも平等。教授も学生もお互いを対等な「学徒」とみなすことは学問進歩のためにきわめて重要なことです。大学で教授と学生がお互いをファーストネームで呼び合っているのは、単にアメリカ人がカジュアルだからというだけではありません。相手を「先生」と呼び、敬語を使わなければならなかったら、なかなか対等な議論などできません。教授と対等だと感じられなかったら、学生が教授に異を唱えたり反対したりするのはなかなか難しいからです。
お互いをファーストネームで呼びあうとコミュニケーションが民主化され、自由な議論が喚起されます。民主的なコミュニケーションができることは、学問進歩にとって、ひいては真理の追及にとって、きわめて大きな意義があるのです。これは私の解釈ではなくアメリカのアカデミアの一般通念。つまり、たかが呼び名、しかし、されど呼び名なのです。こういうことを杓子定規なまでにきちんと実行しているところに、アメリカ人の生真面目さがあります。