1989 第3回現代日本具象彫刻展出品 (千葉県立美術館)
第4回国民文化祭さいたま’89出品
(彫刻プロムナード/埼玉県浦和市)
グループ「乙」展(以後'92まで毎年出品)
ポケットの中の彫刻展/フタバ画廊(東京銀
イタリア、スェーデンに遊学
この年母は銀座のサエグサ画廊で個展をし成功を収めるが、これが
最後の個展となる 。
1990 アートヒル三好ケ丘 ' 90彫刻フェスタ
(審査員奨励賞/愛知県三好市)
初個展 (ギャラリー竹内/名古屋市)
第1回グランフフォルム展 (名古屋文化会館)
2人展(尾崎 慎・金子 久利/ギャラリー21+葉/銀座)
母が後病床につき私は看病の日々が始る。癌は乳癌から肺癌、肝臓、脳まで侵し、死を宣告されるが、最後まで希望を捨てず、看病に当たった。入院中アートヒル三好の入選が決り、母は私に「もうこれで彫刻家としてやって行けるね。」の言葉をくれた。母は最期まで絵筆を置くことをせず、力の入らない手で絵を描き続けた。7月23日母他界58歳という年齢。私が29歳だったので、丁度折り返しの年でも有り、「死」というものを深く受け止めた。母は画家としてもこれからという上昇気流に乗った処で、無念の死だった。
母を亡くし、毎日のように涙が自然と溢れ、彫刻以外の事をしていなかった私は、これからの生活を考えると不安で押し潰されそうになっていた。そんな時母の絵の額縁を入れていた方が独立をして、画廊を開いていて、「ここで個展を企画でやってあげるから準備しなさい。」と言って下さった。22展の作品で始まった個展は初日からDMの作品が売れ、最終日までに11点の作品、合計180万円の作品が売れた。この時画廊オーナーが、「最初からこんなに売れてはいけない!」この言葉は「これに甘んじるな」という戒めの言葉だった。しかし、これが切っ掛けとなり、次々と個展が決まっていった。
第4回国民文化祭さいたま’89出品
(彫刻プロムナード/埼玉県浦和市)
グループ「乙」展(以後'92まで毎年出品)
ポケットの中の彫刻展/フタバ画廊(東京銀
イタリア、スェーデンに遊学
この年母は銀座のサエグサ画廊で個展をし成功を収めるが、これが
最後の個展となる 。
1990 アートヒル三好ケ丘 ' 90彫刻フェスタ
(審査員奨励賞/愛知県三好市)
初個展 (ギャラリー竹内/名古屋市)
第1回グランフフォルム展 (名古屋文化会館)
2人展(尾崎 慎・金子 久利/ギャラリー21+葉/銀座)
母が後病床につき私は看病の日々が始る。癌は乳癌から肺癌、肝臓、脳まで侵し、死を宣告されるが、最後まで希望を捨てず、看病に当たった。入院中アートヒル三好の入選が決り、母は私に「もうこれで彫刻家としてやって行けるね。」の言葉をくれた。母は最期まで絵筆を置くことをせず、力の入らない手で絵を描き続けた。7月23日母他界58歳という年齢。私が29歳だったので、丁度折り返しの年でも有り、「死」というものを深く受け止めた。母は画家としてもこれからという上昇気流に乗った処で、無念の死だった。
母を亡くし、毎日のように涙が自然と溢れ、彫刻以外の事をしていなかった私は、これからの生活を考えると不安で押し潰されそうになっていた。そんな時母の絵の額縁を入れていた方が独立をして、画廊を開いていて、「ここで個展を企画でやってあげるから準備しなさい。」と言って下さった。22展の作品で始まった個展は初日からDMの作品が売れ、最終日までに11点の作品、合計180万円の作品が売れた。この時画廊オーナーが、「最初からこんなに売れてはいけない!」この言葉は「これに甘んじるな」という戒めの言葉だった。しかし、これが切っ掛けとなり、次々と個展が決まっていった。
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