ものずき烏の無味乾燥?文

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丸谷才一:鳥の歌

2005-04-27 | 書籍 の 紹介
 前回の『犬だつて散歩する』は軽快なエッセイ集と云う印象が強かったのだか、軽快で読みやすい文章は大事なことを読み飛ばすという、わたしの軽薄さに気付かせてくれた。今回の『鳥の歌』は前回とことなり評論集である。この本は、近所のBで矢沢永一『人間通』、『犬だつて散歩する』と一緒に3冊まとめて三百十五円で入手した。Bの価格設定は従来の古書店と違い、中身ではなく外観と発行日で設定しているので、得した気になるものもある。古書店の持つ書籍の知識が皆無であるのが危うい、でもわたしは、自分の趣向や感性から利用している。

丸谷才一『 鳥の歌 』 福武書店 1987/08/15


Ⅰ 「楠木正成と近代史」

 「太平記」はよんだことがない、将来も読まないと想うのだが、楠木正成は丸谷氏の東洋史の先生であった植村清二『楠木正成』中公文庫で読んでいた。(参考までに植村清二は、だれでも知っている文学賞である直木賞。その直木三十五の実弟である)。
わたしは東北生まれでかつ、戦後の教育をうけているので忠臣の楠木正成は知らない。籠城して城から下肥を煮沸して敵勢にぶっかけたというエピソード程度は父親から聞いたことがある。中国の南北朝時代なら多少、暦法計算の延長で中国史の本を読んでいるのでなんとなく判るつもりでいる。本邦の南北朝に登場し南朝の忠臣で活躍するのが楠木正成である。現在の皇室は北朝の系列であるのに、なぜ皇居前に騎馬姿の正成の銅像が立っているか、さして考えもしなかったが怨霊封じの意味で明治に作られたもののようである。上野の西郷隆盛も西南の役で中央政府と戦ったのに犬を連れた銅像として立っている。この意味を御霊信仰というキーワードで解き明かしているのがこの評論である。

 同時に関西人が自分の祖先は楠木正成のどうのこうのと云う、先祖がつくりあげた法螺話をいまだに受け継いでいるルーツが知れた。関西なのに、なんで豊臣秀吉でなくて正成なのかという意味でである。秀吉の末裔なら嘘がばれるが、正成なら史料も少ないし、正成自体の出自がいい加減だし、庶民の人気も高いしで好都合だったんだね。

Ⅱ 「お軽と勘平のために」「文学の研究とは何か」

 丸谷『忠臣蔵とは何か』の諏訪春雄(學習院:浄瑠璃、歌舞伎)批判に対しての反論。いつになく過激な論調で、「仮名手本忠臣蔵」を諏訪は字面しか読んでいない、時代背景とか想像力が欠けていると丸谷は反論している。さて、この丸谷の反論に諏訪はどう答えたか。諏訪春雄の方はIT化が進んでいてホームページを公開しているから覗いて見よう。(ハッハッハ、自著を読んでくれとの事。どっちも著述業なんだね。)わたしは観客で、横綱と十両の相撲見物みたいな勝負だね。もちろん丸谷が横綱なんだけど、古いVTRをみているような20年近くも前の論争である。丸谷の論調から本を売るための"やらせ"ではないと思うよ。
...定説はやがて改められるためにある。新説によつて刺戟を受け、影響され、補強されたり整へられたりすると言つてもよかろう。そして昔から文藝評論はさういふ形で文学研究に協力することが多かつた。これは、批評家は学界の権威に気がねせず、申し合せなんか無視して、自由に発言できるからに相違ない。もちろん学問の伝統は尊い。しかしそれが過去の学説を墨守するための根拠、在来の研究者の考への足りなさを防衛するための障壁に用ゐられてはならない。いはゆる定説なるものは、ここからさきへ行つてはいけないといふ禁止の信号ではなく、われわれはここまで達した、もつとさきへ進んでくれと促したり励ましたりする合図だとわたしは思つてゐる。
p80
...そのときわたしは、解釈力と想像力と思考力を用ゐた。それが文学研究の大道だからである。言ふまでもないことだが、一般に文学研究には想像力が不可欠だし、文献の乏しさによつて制約されてゐる場合はなほさらだろう。それなのに今の日本では、想像力と仮説とを排撃する風潮が支配的で、しかもそれは、研究者たちの怠慢を正当化する口実に使はれてゐるのである。わたしは、想像力の持ち合せのない学者たちが調べものの専門家であることに自足し(本来ならそれは文学研究の補助学にすぎないだろうに)、さつぱりものを考へようとしてゐない傾向を、われわれの文明のために憂へてゐる。
p111

Ⅲ 「ある裁判小説の読後に」「鴎外の狂詩のことなど」「白い鳥」「茨の冠」「荻生徂徠と徳川綱吉」


...マカロニ・ラテン語とは近代語にラテン語ふうの語尾と格変化を与へたもの、あるいはラテン語と近代語との混淆を言ふ。この奇妙な文学用語はどうやら、例のイタリアの麺が下等な粗粉と卵とチーズとをまぜることに由来するらしい。そしてこの命名にはもちろん、格の低いものへの軽蔑と、それから思ひがけない美味への賞讃がこめられてゐるだろう。...
「鴎外の狂詩のことなど」p146
ふむふむ、マカロニ・ウエスタンと名付けたイタリアの西部劇は、由緒ある命名だったんだ。


 軽快なエッセイ集『犬だつて散歩する』と同時期の、本格的評論集である。たぶん丸谷才一のファンがBに2冊同時に売り払ったものなのであろう。文体は同じなんだけど、とても難解な内容でした。一冊の書籍を評論するのに敷衍されるものが30冊くらいあるのではなかろうか。英文学も含めての読書量の豊富さが、薀蓄として語られる。とてもじゃないが論争で勝てる人物はいない。
 この難解ともいえる評論。わたしの記憶が蘇りました。その昔、若気の至りで岩波講座「文学」を毎月届けてもらって読んでたんです。小説家になってみたいという憧れがあったのかもしれません。その講座「文学」の読書感と同じなんだと想います。評論の技術的なものを確認しました。当時のメモ・ノートがありますので、脳みそと感性のリフレッシュをしてみます。

やはり丸谷才一は10年ごとの書き下ろしの文藝作品だけを楽しもうと思います。

2005/04/27 ものずき烏

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