ものずき烏の無味乾燥?文

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定方晟:インド宇宙誌

2005-05-25 | 書籍 の 紹介
 須弥山儀とよばれる変った機械時計が残っている。江戸末期に僧侶であった佐田介石が製作したという。東洋の天文学史に少なからず興味を持っていたわたしは、古代中国の宇宙観と相違する、仏教の宇宙観の異様さに戸惑っていた。「金輪際(こんりんざい)なになに...」などと、日本語にまで用語が残っているのがこの須弥山宇宙観なのである。
定方晟の著作は、講談社現代新書『須弥山と極楽 -仏教の宇宙観-』以来2度目である。この分野の研究者であるからして、やたらと詳しい記述が並ぶが、門外漢であるわたしは平気で読み飛ばす。そんな中で、わたしなりに考える。この本は、仏教の源流であるヒンドゥーの宇宙観まで及ぶ。

...そもそも春分の、それもとりわけ満月の日が聖なるときとされ、種々の祭りに結びつけられるのは世界に広くみられる現象である。ブッダの誕生日はわが国では四月八日とされるが、これももとインドで定められた「春分の満月の日」に由来するものである。ブッダの実際の誕生日は早くからすでに不明であったから、春のこのめでたい日がブッダの誕生日にあてられたのである。キリスト教では復活祭の復活日が「春分後の最初の満月の次の日曜日」と定められている。春の訪れが生誕や復活に結びつけられることは自然のなりゆきであろう。...
p113...ちなみに五元素説はギリシャにもある。五元素の発生する順序はインドでは空、風、火、水、地であるが、ギリシャのエンペドクレスにおいては空、火、地、水、風である。...
p132

 何を得たか、須弥山宇宙観の異様さは変らない。ヒンドゥーの創生神話は、ギリシャ神話と近いようである、多神教なのであるが、その神も堕落する。
ヒンドゥー(=インド)を理解するには『梵我一如』の思想がキーとなるようだ。
。。。『ヴィシュヌ・プラーナ』の右の思想はウパニシャッド以来(前6世紀以降)、インドの伝統となった「梵我一如」の思想を表している。「梵我一如」の思想は汎神論である。われわれが考えているような小さな「自我」は真の自我ではではない。真の自我(アートマン)は宇宙と同一であり、存在すべて(梵、ブラフマン)そのものである。このことを知らないかぎり、人は迷い続け、己に執着し、苦しみをくりかえす。...
p156
 ヒンドゥー教の宇宙観の第二章「タントリズムの宇宙観」を読んでいたら、この宗教儀式は、地下鉄で毒ガスを撒いた犯罪集団が参考にした儀式ではと思ってしまった。性交を宗教儀式に取り入れた真言立川流といった邪教も存在したのだが、ときの幕府の良識により葬られた。毒ガスを撒いた団体は名前を変えて未だに存在している。ヒンドゥー教の一面をカルト教団が取り入れることが可能な、ある意味では危険な著作なのかもしれない。
インド宇宙誌』定方晟 春秋社 1994/05/30 10刷
                               1985/06/30  1刷
 古代人の宇宙観に興味があって、だいぶ前に古書市で購入しておいたものを読んだ。天文学史の宇宙観であればこの書籍は不適当である。著者もこの件については熟知していて、プロローグに
本書は自然科学書コーナーにおかれるような書物ではない。むしろ、宗教書コーナーにおかれるべき書物である。
と断ってある。そのとおりの結果で、わたしの好奇心が踏み外したといえる。
キリスト教で地動説の成立に危機感を持ちガリレオを裁判にかけた事とか、浄土宗の佐田介石が仏教の須弥山宇宙観に固執した事とかの歴史を考えると、宗教の持つ宇宙観が科学の発展によりその都度、改変されていることになる。宗教の本質が宇宙観にあるのでは勿論ないが、異様なものを信ずることが宗教となっている側面があると認めないわけにはいかない。

2005/05/25 ものずき烏

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