紙芝居のつづきだよ。
わからなかったら、前々回の記事をもう一度読んでね。
路線図も見当たらず、行き先表示だけをたよりに、自販機で切符を買い、6番の標識の下で待っていると、まもなくバスがきた。6番の前に止まったバスに私がさっさと乗り込むと、後からトランクを引っ張って乗り込んだ息子がこのバスの行き先表示を確かめてなかったからメストレ駅に行くかどうか分からないという始末。そんな事を言っているうちに、バスは出発してしまった。さあ困った。6~7人いる乗客もイタリア人ばっかり。近くのおばさんに英語で聞くとイタリア語で大丈夫といっているようす。でもそのおばさんも降りちゃったから、どこで降りたら良いのか分からない。しかも外はすっかり暗くなってしまった。
その時一番前の座席に座っていた黒髪で小柄な30歳くらいの女の人が我々のほうを向いて「日本の方ですか?」と、きれいな日本語で話しかけてきた。「はい、そうです。そうです。」すがる思いで、ゆれる車内をスーツケースを引っ張って彼女の横に立った。かの女は私の持つ切符を見て、この切符はバス会社が違うから買い直さないといけない。このバスはメストレ駅まで行く。駅まで行ったら運転手さんに声をかけてもらうように頼んであげると言ってくれた。運転手さんから新たな切符を買ってくれたお礼を言って、互いに自己紹介などしているうちに、彼女のおりる停留所がすぎてしまったらしく、ホテルまで送ってくれることになった。
ホテルの受付で、チェックイン作業までスラスラ手続きしてくれる彼女は勤務先から家に 帰るところであるというのでお礼に一緒に食事でもいかがでしょうかというと、今日は 友人がとまりに来るのでだめだけれど、明日なら良いというので、明日夜7時にホテルまで来てもらうことになる。レストランの予約もしておいてくれるという。そんなこんなで、ようやく部屋にたどりつき、タクシーを使うべきだったと反省。でもおかげでイタリヤ人のラウラさんと知り合えて、明日はレストランで食事ができるのだから、結果的によしとしよう。機内食はしっかり食べたおかげでおなかも空いてないからお風呂に入ってもう寝ることにする。
3月24日朝7時起床、疲れたせいかぐっすりと寝たおかげで朝から快調。ダイニングに行くとプラザホテルはさすがに四つ星ホテル、ハムチーズからサラダ果物パンも数種類ずつあり、内容充実。しっかりと食べる。
今日はホテルの目の前の駅メストレ駅から1駅電車に乗ってベニスに向かう。こちらは電車もバスも改札もなく自販機で買った切符に自分で刻印を押すだけ。無賃乗車をしようと思えばできるようで、ルーズな感じ。たった1駅だけれども果たしてベニスはここから右なのか左なのか方角もわからない。息子が壁に貼ってある細かい字の時刻表をにらんで何番線のホームに行けばいいか教えてくれた。切符も買ってくれた。これ以降支払い、進行方向などすべて息子が仕切ってくれて私は言われたとおりに従った。日本ではなんでも親任せで当たり前だった子が、危機感をつのらせて黙っていても母と子の立場を逆転し、すべてをリードしてくれるらしい。これは外国にきてこそだなあと高いお金を払った価値があったと母は一人感激した。
今回の旅行のメインはミラノのサッカー観戦である。たまたま選んだツアーがイタリア3都市8日間というので、息子の希望でベニス、私の希望でフィレンツェを組み入れた。息子はなぜかヴェニスは絶対はずせないと強く言っていたが、私はベニスなんて過去の栄光だけの沈みかけた死んだ街ではないのかしらと思っていた。昔見た「ベニスに死す」というヴィスコンティの映画のせいかもしれない。そんなヴェニスになんの期待も持っていなかった私だがベニス駅を一歩出るとまるでタイムマシンで中世イタリアにきたのかしらとショックをうけた。駅前に拡がる運河に浮かぶゴンドラ、ボート、船、運河の向こうの町並みそこにかかる石作りの太鼓橋、大勢の観光客、一歩一歩足を踏み出すたびに映画の世界に入っていくようだった。この混雑振りも映画「旅情」そのもの。息子に、ここで写真をと りながらキャサリン・ヘップバーンがこの海に落ちたんだよと言ったら、オードリーヘップバーンじゃないのというからそれは「ローマの休日」でしょうと大笑い。
大勢の人波に乗ってリアルト橋の上に行くが行きかう人が多すぎてシャッターを押す間がないくらい。買い物よりも教会よりもこの石畳の街を歩こうという旅だが、地図といっても、魚の形をした島の中に運河が入り組み、細い路地がくねくねとあり北も南も私にはさっぱり判らなかったのでやはり息子の後をついていくだけだった。車も自転車も一台もない街は、右も左も分からず歩く我々に優しくタイムトリップの旅に誘ってくれた。地図を片手に歩いているのだが行き止まりだったり、さっきもここに出てきたよねといいながら、それでもなんで もないまちなかの家々を見飽きることなくぶらぶら散歩がたのしい。
(この魚の形が、ヴェニスのリド島の地図で、ちょうど尻尾のはしから、目玉のところを目指して歩いていました)
そのうち他の観光客にもめったに会わなくなり、地元の人も買い物カートを引いたおばあさんとすれ違ったぐらいでほとんど会わなくなった。あの駅前にいた観光客はどこにいったのかねというと僕たちはわざわざ遠回りをしながらサンマルコ広場を目指しているからだよ。と息子は言うが、私には道に迷っているだけではないのかしらと思える。でも建物は住居ばかりではなく、一階はお店になっているところも多く、両手を広げることもできないくらい幅1メートルもない路地の両側にはきちんときれいな店があり、ガラス細工屋さんや本の装丁屋さん(年代ものの本を重厚な皮で装丁して飾ってある)、絵の額縁を作っているお店もあったり興味がつきない。かとおもうと路地のさきには日本でも見かけるような小さな公園があって幼い子を遊ばせている母親がベンチに腰掛けていた。石作りの街中に大きな木と土の公園は周りを高い住居で囲まれた中庭のような雰囲気である。散歩途中の大きな犬を連れたおじいさんもいる。公園に面して小奇麗なレストランもある。建物の壁の色窓枠の色お店の看板すべての色使いがイタリアだなあと感激する。
こんな何気ない景色の方が心に残る。いわば裏通りを歩いているからしょっちゅう出 くわす小 運河 も観光客を乗せたゴンドラではなく、家の補修のための資材や足場の材木を積んだボートや野菜や瓶詰めの水を満載した生活観あふれるボートが結構行きかっている。運河の水はお天気がくもりのせいか濃い緑だがごみなぞ浮いてはなくにおいもまったくしない。お昼前の街中は静かなのである。
空港や駅の壁にトヨタや日産ではなく、ヤマハやスズキの大きな看板を目にして違和感を覚えたが車ではなくモーターボートの街なんだと歩いてみて納得できた。
ようやく目的地であるサンマルコ広場に出た。着いたではなく、まさしく出た。それまで細い、狭い路地をまがりくねってきたら突然とてつもなく広い石畳の広場の中にはすっごい人人。ごった返すという感じ。各国観光客とイタリアの中学生の遠足も多かっ た。
次回につづく
わからなかったら、前々回の記事をもう一度読んでね。
路線図も見当たらず、行き先表示だけをたよりに、自販機で切符を買い、6番の標識の下で待っていると、まもなくバスがきた。6番の前に止まったバスに私がさっさと乗り込むと、後からトランクを引っ張って乗り込んだ息子がこのバスの行き先表示を確かめてなかったからメストレ駅に行くかどうか分からないという始末。そんな事を言っているうちに、バスは出発してしまった。さあ困った。6~7人いる乗客もイタリア人ばっかり。近くのおばさんに英語で聞くとイタリア語で大丈夫といっているようす。でもそのおばさんも降りちゃったから、どこで降りたら良いのか分からない。しかも外はすっかり暗くなってしまった。
その時一番前の座席に座っていた黒髪で小柄な30歳くらいの女の人が我々のほうを向いて「日本の方ですか?」と、きれいな日本語で話しかけてきた。「はい、そうです。そうです。」すがる思いで、ゆれる車内をスーツケースを引っ張って彼女の横に立った。かの女は私の持つ切符を見て、この切符はバス会社が違うから買い直さないといけない。このバスはメストレ駅まで行く。駅まで行ったら運転手さんに声をかけてもらうように頼んであげると言ってくれた。運転手さんから新たな切符を買ってくれたお礼を言って、互いに自己紹介などしているうちに、彼女のおりる停留所がすぎてしまったらしく、ホテルまで送ってくれることになった。
ホテルの受付で、チェックイン作業までスラスラ手続きしてくれる彼女は勤務先から家に 帰るところであるというのでお礼に一緒に食事でもいかがでしょうかというと、今日は 友人がとまりに来るのでだめだけれど、明日なら良いというので、明日夜7時にホテルまで来てもらうことになる。レストランの予約もしておいてくれるという。そんなこんなで、ようやく部屋にたどりつき、タクシーを使うべきだったと反省。でもおかげでイタリヤ人のラウラさんと知り合えて、明日はレストランで食事ができるのだから、結果的によしとしよう。機内食はしっかり食べたおかげでおなかも空いてないからお風呂に入ってもう寝ることにする。
3月24日朝7時起床、疲れたせいかぐっすりと寝たおかげで朝から快調。ダイニングに行くとプラザホテルはさすがに四つ星ホテル、ハムチーズからサラダ果物パンも数種類ずつあり、内容充実。しっかりと食べる。
今日はホテルの目の前の駅メストレ駅から1駅電車に乗ってベニスに向かう。こちらは電車もバスも改札もなく自販機で買った切符に自分で刻印を押すだけ。無賃乗車をしようと思えばできるようで、ルーズな感じ。たった1駅だけれども果たしてベニスはここから右なのか左なのか方角もわからない。息子が壁に貼ってある細かい字の時刻表をにらんで何番線のホームに行けばいいか教えてくれた。切符も買ってくれた。これ以降支払い、進行方向などすべて息子が仕切ってくれて私は言われたとおりに従った。日本ではなんでも親任せで当たり前だった子が、危機感をつのらせて黙っていても母と子の立場を逆転し、すべてをリードしてくれるらしい。これは外国にきてこそだなあと高いお金を払った価値があったと母は一人感激した。
今回の旅行のメインはミラノのサッカー観戦である。たまたま選んだツアーがイタリア3都市8日間というので、息子の希望でベニス、私の希望でフィレンツェを組み入れた。息子はなぜかヴェニスは絶対はずせないと強く言っていたが、私はベニスなんて過去の栄光だけの沈みかけた死んだ街ではないのかしらと思っていた。昔見た「ベニスに死す」というヴィスコンティの映画のせいかもしれない。そんなヴェニスになんの期待も持っていなかった私だがベニス駅を一歩出るとまるでタイムマシンで中世イタリアにきたのかしらとショックをうけた。駅前に拡がる運河に浮かぶゴンドラ、ボート、船、運河の向こうの町並みそこにかかる石作りの太鼓橋、大勢の観光客、一歩一歩足を踏み出すたびに映画の世界に入っていくようだった。この混雑振りも映画「旅情」そのもの。息子に、ここで写真をと りながらキャサリン・ヘップバーンがこの海に落ちたんだよと言ったら、オードリーヘップバーンじゃないのというからそれは「ローマの休日」でしょうと大笑い。
大勢の人波に乗ってリアルト橋の上に行くが行きかう人が多すぎてシャッターを押す間がないくらい。買い物よりも教会よりもこの石畳の街を歩こうという旅だが、地図といっても、魚の形をした島の中に運河が入り組み、細い路地がくねくねとあり北も南も私にはさっぱり判らなかったのでやはり息子の後をついていくだけだった。車も自転車も一台もない街は、右も左も分からず歩く我々に優しくタイムトリップの旅に誘ってくれた。地図を片手に歩いているのだが行き止まりだったり、さっきもここに出てきたよねといいながら、それでもなんで もないまちなかの家々を見飽きることなくぶらぶら散歩がたのしい。
(この魚の形が、ヴェニスのリド島の地図で、ちょうど尻尾のはしから、目玉のところを目指して歩いていました)
そのうち他の観光客にもめったに会わなくなり、地元の人も買い物カートを引いたおばあさんとすれ違ったぐらいでほとんど会わなくなった。あの駅前にいた観光客はどこにいったのかねというと僕たちはわざわざ遠回りをしながらサンマルコ広場を目指しているからだよ。と息子は言うが、私には道に迷っているだけではないのかしらと思える。でも建物は住居ばかりではなく、一階はお店になっているところも多く、両手を広げることもできないくらい幅1メートルもない路地の両側にはきちんときれいな店があり、ガラス細工屋さんや本の装丁屋さん(年代ものの本を重厚な皮で装丁して飾ってある)、絵の額縁を作っているお店もあったり興味がつきない。かとおもうと路地のさきには日本でも見かけるような小さな公園があって幼い子を遊ばせている母親がベンチに腰掛けていた。石作りの街中に大きな木と土の公園は周りを高い住居で囲まれた中庭のような雰囲気である。散歩途中の大きな犬を連れたおじいさんもいる。公園に面して小奇麗なレストランもある。建物の壁の色窓枠の色お店の看板すべての色使いがイタリアだなあと感激する。
こんな何気ない景色の方が心に残る。いわば裏通りを歩いているからしょっちゅう出 くわす小 運河 も観光客を乗せたゴンドラではなく、家の補修のための資材や足場の材木を積んだボートや野菜や瓶詰めの水を満載した生活観あふれるボートが結構行きかっている。運河の水はお天気がくもりのせいか濃い緑だがごみなぞ浮いてはなくにおいもまったくしない。お昼前の街中は静かなのである。
空港や駅の壁にトヨタや日産ではなく、ヤマハやスズキの大きな看板を目にして違和感を覚えたが車ではなくモーターボートの街なんだと歩いてみて納得できた。
ようやく目的地であるサンマルコ広場に出た。着いたではなく、まさしく出た。それまで細い、狭い路地をまがりくねってきたら突然とてつもなく広い石畳の広場の中にはすっごい人人。ごった返すという感じ。各国観光客とイタリアの中学生の遠足も多かっ た。
次回につづく