伝えるネットねこレポート

「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークのブログ。
首都圏窓口の田嶋いづみ(相模原市在住)が担当してます。

8月15日に思う”このクニが終わる日”

2020-08-15 18:19:26 | 会員レポート

 2014年11月29日の記憶

自分勝手な自粛のなかで敗戦記念日を迎えました。

国家について日頃考えているわけではありません。

国の運命について、アレコレ言えるような者ではないと思っています。

 

でも、75年前の8月15日にひとびとはどんなだったのだろうと考えるうち蘇ってくる記憶があります。

それは、2014年、平成26年、11月29日の昼下がりの記憶です。

長女よりひとつかふたつ年上の青年、環境省官僚であった彼との会話で、呆然と立ち尽くしながら「ああ、このクニはもうダメかもしれない」と直観的に思った記憶です。

わが子のような年齢の青年の笑顔をみつめながら、何でそう思えたのか、繰り返し繰り返し考え直してきました。

いろいろと論理を探ってきましたが、コロナ禍にあって、その思いは益々しっかりとした輪郭をとってきたような気もします。

 

 2014年11月29日の違和感

その日は、都心で環境省主催の「水俣病の教訓を次世代に伝えるセミナー」が開催されていました。

 

 

都心で水俣病体験当事者の話が聞ける貴重な機会でしたし、この日は隠れた水俣病患者の所在を自転車で回って見出し救済をすすめた川本輝夫さんのご長男・愛一郎さんのお話を聞けるというのが魅力でした。息子さんの目が捉えた水俣病事件の姿は意味深いものとなりました。

水俣現地の若いみなさんの「あばこんね」の躍動には胸高鳴るものもありました。

さらに、水俣現地で人気の「やうちブラザーズ」の演技も見られるたのも貴重でした。

 

水俣病の悲惨のなかでも患者たちは笑いたい。

「やうちブラザーズ」のコミック芸は、そこに由来があります。

「やうちブラザーズ」の演技のなかに、磊落な杉本栄子さんの面影が浮かびました。

 

環境省主催のセミナーとしては、異色、出色なものだったと思います。

違和感が残りました。

前年の溝口裁判の勝訴判決のあと「謝らない」と語ってはばからなかった環境省特殊疾病対策室長の破顔を見たからです。

ウキウキとサークル・コンパでのように、「やうち」のコントに室長は嬉しそうでした。

そして、帰りがけ、そこに同じ疾病対策室の法務担当だった彼を見つけたのでした。

 

 水俣病関西訴訟最高裁判決の10年後、そして溝口訴訟最高裁判決後の翌年

2014年11月29日のセミナーに先立つ10月12日、関西では「水俣病知ろっとの会」のひとびとによる集会が持たれていました。

2004年10月15日、チッソ水俣病関西訴訟の最高裁判決が出されてから10年目。

国と県の責任が最高裁判所で断罪された最初の判決から10年が経ちました。

その集会には、IWJによってネット参加していました。

 

チッソ水俣病関西訴訟の最高裁判決は、しかし、水俣病事件を解決しませんでした。

その後も原告団長の川上敏行さんは、さらに別の訴訟を起こさねばなりませんでした。(この訴訟は、2017年9月8日同じく最高裁によって敗訴が確定します)

 

それでも、2013年4月16日、最高裁は溝口チエさんとFさんを水俣病と認定しました。

ところが、2014年3月7日、環境省は、新しい認定基準の通達を行い、新たな水俣病患者認定の間口をさらに狭くしたのです。

10月12日、環境省の新通達の理不尽に怒った鈴村さんが唇を震わせながら、彼を名指して非難しました。

 

  ※IWJの記事から、経過を語る鈴村多賀志さん

 

わたしの息子ほどの、セミナーで出会った彼が、名指された本人でした。

辻褄を合わせるためだけの調査をもとに、多くの救済を切って捨てる通達を出した本人でした。

苦しい仕事をしているだろうと、思ったのです。

個人的に水俣病関連の集会に参加して学んでいる姿も知っていました。

長女の友だちが同じ大学の同じサークルで、後輩に人望のある、リーダーシップもある人と紹介もされていました。

彼が、溝口訴訟判決後の環境省交渉で同僚官僚たちに「絶対に謝らない」というメモを回したのも、苦渋の選択だろうと思い、メモを取り上げられた失策をさぞかし上司に責め立てられたろうと案じたこともありました。

 

少ない会話を交わして、悟りました。

彼は何とも思っていない。

彼が出した通達で一生を奪われる者がいるかもしれない、などと考えることもない。

どこかのちっぽけな集会で、名指され、人間じゃない、と罵倒されることがあるなんて露ほども思ったことなどない。

 

ああ、日本はもうダメかもしれない。

こういう日本を作ったんだな、わたし。そして、わたしたち。

 

悲惨ななかから立ち上がるように笑いをつくりだした者たちを、都会に住んで、どこにも傷みを感じようとしていない者が、笑いさざめくことが許されるのか。

踏みつけておいて、同じ足元でステップを踏んで。

 

息子のような彼の、屈託のない笑顔を見ながら、そう思ったのでした。

 

 8月15日に思い出すことの正体を探れ

 

コロナ禍は、あの日の記憶をさらに明瞭にしました。

直観的に感じた「もうダメかもしれない」訳を、はっきりとさせないといけない。

何がダメで、何でダメになってしまったのか。

 

今日は、そんなことを考える1日です。

 

 


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