

~~ 書評なんて、おこがまし過ぎるから・・・
電話をいただいたのは、7月9日のことでした。
福島県教職員組合から。
放射能のもとで生きていくことになる子どもたちのエンパワーメントになる学びのために、「水俣」を伝える資料をいただけないか、と ――。
電話を握り締めて、姿勢をただし、思わず立ち上がって深々とお辞儀をしました。
さっそく、充分でない資料を届けました。
その返信のように、7月29日に届いた本が、これです。
『子どもたちのいのちと未来のために学ぼう 放射能の危険と人権』
福島県教職員組合 放射線教育対策委員会 / 科学技術問題研究会 編
明石書店 発行 定価 800円+税
福島県教職員組合 放射線教育対策委員会 / 科学技術問題研究会 編
明石書店 発行 定価 800円+税
本書の冒頭、「はじめに」を読んで、激しいショックを受けました。
それまで、ツバメに思いを馳せたことなどなかったからです。
原発事故とは、いったいどういうものなのかがまざまざと立ち上がってくる思いがしました。
「水俣」を伝えたとき、「ネコがかわいそう」と言った子どもたちの声が思い出されました。
原発事故後、例年通り、ツバメがフクシマに帰ってきました。
2010年に福島で生まれた、福島を故郷とするツバメたちです。
※本書では、原発事故後の福島を「フクシマ」とカタカナ表記しています。
往復何千キロもの旅をして、ようやく故郷にたどりつけるツバメの生存率は50%だそうです。
自然の厳しさを乗り越えて、フクシマにたどりついたツバメたちは、故郷がもう別世界になったことを知りません。
2011年春、困難を乗り越えて、故郷「フクシマ」に生還したツバメたちが営巣を始めました。
巣づくりの材料は、泥と枯れ草です。すべて、放射性セシウムをはじめとする、放射能に汚染されています。
ふ化した雛がどれだけの量の「外部被ばく」をしたか、考えたくもありません。
さらには、親ツバメがせっかく運んできてくれたエサも、放射能が大量に含まれていることは容易に想像できます。
ツバメの雛の「内部被ばく」です。
巣づくりの材料は、泥と枯れ草です。すべて、放射性セシウムをはじめとする、放射能に汚染されています。
ふ化した雛がどれだけの量の「外部被ばく」をしたか、考えたくもありません。
さらには、親ツバメがせっかく運んできてくれたエサも、放射能が大量に含まれていることは容易に想像できます。
ツバメの雛の「内部被ばく」です。
顰蹙を怖れずに言います。
レーチェル・カーソンの『沈黙の春』の冒頭に並ぶ“告発の名文”だと思いました。
自分たちが何をしでかしてしまったかを教えられて、涙がこぼれました。
エサを求める雛は、子どもたち、です。必死の思いでエサを運ぶ親鳥は、私たち、です。
私たちは、特に、本書の「はじめに」と「第1章」を、いまを生きるすべての大人に読んでいただきたいと、切に望みます。
第1章 「フクシマ」の「事実」を「事実」として、どう「学び」に生かせるか は力技の読みでがあります。
原発事故があって、私たちは自分たちの「水俣」を伝える活動を振り返らざるを得ませんでした。
伝える「言葉」は変わるだろうか、と問いました。
問いかけて、いや、何も変わらない、と自答しました。
しかし、自分たちの活動をむなしく感じたのも事実です。
原発事故を止めることができなかったのですから。
そして、ずっと考えてきました。
「水俣」を伝える活動が、どのような役割を果たし得るのか、と。
フクシマの先生たちは、いま「教育とは何か」「学ぶということは何か」ということに直面しています。
本質的で、本来的な問いかけを真正面から始めています。
従来の教育体制のなかでは、「生きるための学び」は得られない、と。
渾身の問いかけが、フクシマで始まっていることを知ります。
それは、私たちの問いかけと重なって、ヘンな言い方かもしれませんが、大人も子どもも、生き方を変えていく始まりに思えます。
本書全編には、決然とした「怒り」が見えます。
”風評被害”などという言葉にためらうことなく、放射能汚染の危険に正面から向き合い、文科省の『放射線副読本』批判を力強く行っています。
「怒り」は、政府や東電に対してだけでなく、自分自身に、先生たち自身にも向けられていると感じます。
その「怒り」の強さが、自身を変革していく意志となって、子どもたちに対してとるべき責任として、本書から浮かんできます。
亡くなった水俣病患者の杉本栄子さんが言っていたことがあります。
「まさか自分をいじめていたひとの方が早く亡くなって、水俣病の自分が永らえるとは思っていなかった」、と。
差別しイジメていたひとは、水俣病をなきことにしたかったのでしょう。
自分の身体が苦しくても、水俣病と思いたくなくて、また、水俣病になったら、自分がいままでしていたように差別を受ける、と、医師にかかることもためらったのです。
これまでイジメをしていたひとが、その死の床で、栄子さんに詫びたと聞きました。
栄子さんは、水俣病と思いたくない、できたら考えたくない、そういうマイナスの気持ちが死を早めてしまうのではないか、と言っていました。
水俣病と認定されたとき、自ら認定を求めたにもかかわらず、「ああ、やっぱり、自分は一生治らない病気なのだ」と長く長くなき崩れた栄子さんです。
その栄子さんが、晩年、「水俣病は守り神だ」と言われました。
水俣病のおかげで、ひととの出会いに恵まれた、って。
環境にもれた放射能をなくすことができないいま、それでも、私たちは学び得るのです。
「ネガティブ × ネガティブ 」を「ほとんどポジティブ」にすることは可能だと、栄子さんを思い出します。
ましてや、子どもたちの力を借りることができるなら。
水俣で「芦北公害研究サークル」という気持ちのある先生たちだけが細々と水俣病の学びを試行錯誤したのと違い、組織的に放射能の学びを「生きるための学び」にしようとするフクシマの先生方に、私たちも追随していきたいと思います。