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伝えるネットねこレポート

「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークのブログ。
首都圏窓口の田嶋いづみ(相模原市在住)が担当してます。

ブログ再開にあたって~出前活動にひとつの区切り

2019-02-14 14:37:40 | 会員レポート
1年ぶりにブログをアップいたします。
ブログは再開しましたが、会報「ネット・インフォメーション」の次号発行はまだペンディングです。
(これからは、広告が割り込んでこない頻度で継続アップしたいと思ってます。)

で、本来なら、会報でお知らせすべきでしょうが、こちらでお知らせすることになりました。



出前活動に区切りを迎えます


「伝えるネット」の活動繁多期は、(文部省指導要領の変更により動きはありましたが)毎年2月から3月にかけて。対象は、社会科環境問題のなかで公害に触れる小学校5年生です。
2000年4月30日に設立総会を持ってから、多い年度で20校以上、少ない年度で10校前後を訪ねてきました。ま、20年間、およそ2万5千人から3万人近くの子どもたちに「水俣」を伝える出前活動をしてきました。

そして、平成を終える今年3月をもって、わたしは“子どもたちに伝える”活動に区切りをつけさせていただくことになりました。

理由は、片耳難聴となって子どもたちの声が聞こえなくなったこと。
年月の経過とともに、いわば、お母さんが伝える「水俣」からおばあさんが伝える「水俣」となったことです。


子どもたちのつぶやきに支えられて出前活動

もともと、「子どもたち」に伝える活動は、子どもたちの身近に「水俣」を持ち込む活動でした。
だから、子どもたちの間に入って、ポロリとこぼすつぶやきを拾い、むしろ、その言葉を手がかりに語りかけ、お母さんが語りかけるような近さで、伝えることを大切にしてきました。

それが、挙手して大きな声で語りかけてもらえなければ、子どもたちが何を言っているか聞こえなくなりました。
白髪のおばあさんの語りは、子どもたちに遠いのは当然です。

2017年7月25日に突発性難聴を発症。幸いに聞こえは多少戻りはしましたが補聴器に頼るようになりました。
何度も「たかが片耳」と思い、お耳の不自由な友人たちの顔を思い浮かべて、「たかが」と思い直そうとしました。水俣病の症状に苦しんでいる方に不遜な思いの馳せ方もしてみましたが、中途失聴の困難がみえるのでした。
片耳難聴になって1年がんばってみましたが、それは、子どもたちの声が聞こえなくなったことを認める時間となりました。 
今までの伝え方では、「子どもたちに伝える」という活動が担えなくなったと自覚するものです。


子どもたちの間には入っていけませんが、高校生や大学、市民大学など一般の方には伝えられるかもしれません。
そうした活動を視野に入れつつ、「子どもたちに」という看板の中に入っている活動は区切りを付けさせていただきます。
もちろん、子どもたちの間に入っていって、より身近に伝えられる気持ちのある方の登場を切望するとともに、どのような援助も惜しまずにまいります。


水俣病が降りられないように 終わりなき活動に

これは、わたし、田嶋の活動についての話であって、「伝えるネット」が解散する、ということではありません。

「伝えるネット」の規約をつくるとき、「この規約では日本国民全てが会員」だと冗談まじりに言ったことがあります。
その通り、水俣病患者が患者をやめることができないように、「伝えるネット」をやめることはできません。
この国、この時代に生きていく限り、わたしたちは「水俣」から離れることはないと再認識するものです。

「伝えるネット」がある以上、会員のみなさまには、「伝えるネット」の名前での呼びかけができます。
それぞれ、発言や呼びかけを行うとき、「伝えるネット」の名前が必要になることもあるでしょう。
その名前が有効である限り、所属や肩書きとして、柔軟に使用していけたらいいと思います。

「死ぬまで代表で名前を使えばいい」と言ってくれた仲間もいます。
それも、ひとつの選択かもしれないと思いますが、さすがに、そうでしかない、とも思えません。現在において、そうなっているだけであって、みなさんの柔軟な提案のなかで変化していくのを是としています。
また、わたしの活動の区切りに伴い、写真ほか伝えるネットの果実の使い道も考えていくことになります。

「終わりなき活動」を考えるなら、まだまだ、したいこと、しなければならないことも見える気がします。


今後予定されている出前活動

ちなみに3月までの出前活動については、以下のように予定されています。

2月19日(火)3,4時限 相模女子大学小学部5年生64名 「つなぐ手・社会」の時間
2月22日(金)3,4時限 相模原市立相武台小学校5年生68名 
2月25日(月)3,4時限と5,6時限 相模原市立清新小学校5年生165名
3月1日(金)3,4時限 座間市立相模が丘小学校5年生108名
3月中旬  日程は決まっておりませんが、相模原市立南大野小学校


振り返ってみれば、子どもたちに伝える側だと思ってきたものが、実は、道案内をしてくれていたのは、子どもたちの方でした。
子どもたちの持つ率直な感受性、本質的な直観力に支えられて、「水俣」に学ぶ体験をもらっていたのは、わたしの側だったと思います。
まだまだ、伝える活動でもらったフィードバックを思索し得ていない、と感じています。
たぶん、20年間の出前活動を総括して、時代に還していくことが緊急に求められていそうです。

区切りを迎える出前活動のお手伝い、参観をしてくださる方、ご連絡ください。

「水俣」を子どもたちに伝えて20年間、出会った2万5千人以上の子どもたち、支えてきてくださったみなさまに深く感謝するものです。











「水俣」を伝える季節を迎える前に思うこと

2017-02-12 23:51:01 | 会員レポート
第12回 水俣病事件研究交流集会 参加 
2017年1月7日(土)、8日(日)
於・水俣市公民館 
主催:熊本学園大学 水俣学研究センター



水俣病資料館の窓から海と恋路島をのぞむ
窓ガラスに書かれた文字は「あなたはどんな未来をつくりますか?」



 熊本地震後、初めての訪水

水俣病公式確認後60周年目の慰霊祭に行く予定が、熊本地震のために流れてしまい、久しぶりの水俣訪問となりました。

今回の訪水では、ここ何年か参加し続けている「水俣病事件研究交流集会」に出席し、リニュアルした水俣病資料館を訪ね、しばらく目にしていない水俣病ゆかりの場所を確かめることにしました。


「水俣」の話をしにきてくれないか、というお誘いが集中するのが、毎年2月から3月にかけて。
小学校5年生の3学期の社会科で公害のことを勉強することになっているせいですが、ポツポツと依頼が年末あたりからきて、こう、顔を振り上げるように、「水俣」のことを考え始めるのです。
だから、毎年1月の第2土・日に開催される水俣病事件研究交流集会が、わたしにとっては、おさらいと新しい知識や考え方を得る格好の機会となっているのです。
事件研究集会の発表やそこに集う人びとに刺激されることで、さらに「水俣」の意味を考えることができます。
もちろん、水俣の懐かしい友人たちに再会することも、その刺激のひとつです。

今年は、豊橋窓口の金子さんと同行の訪水となりました。



 久しぶりの百間口、川本さんのお地蔵さん、チッソ正門


いつものことながら、スケジュールはギリギリです。
なので、なかなか、いろいろな場所を目に刻むことはできません。

やはり、行きやすい場所と、行き過ぎてしまう場所がどうしてもあるのです。
それで、あえて立ち寄ることにしたのが、こんなところ。


阿賀から運ばれた石でできたお地蔵さん。わたしたちは、川本さんのお地蔵さんと、呼んでいます。



川本さんのお地蔵さんが見つめているのは、百間の排水口。ここからメチル水銀を含んだ汚水が海に流されました。
この排水口がそのまま残っているか少し不安だったのですが、ちゃんとあった!



チッソの正門。何か変化はないかと探るのですが、特措法以来、掲げられている「JNC株式会社」が輝くばかりです。
正門前に車を止めて写真を撮っていたら、しっかり守衛さんに叱られました。



さまざまなことを教えられ、知り、考えるなかで、川本さんのお地蔵さんが百間排水口に向き合っていることも、わたしのなかで、さまざまに意味を考えさせていくようです。
ここ何年か、ついつい親水護岸の「魂石」と呼ばれるお地蔵さんばかり見ていたせいかもしれません。
「JNC」の社名にしても、現在、あらためて謝罪と責任について考え始めているせいかもしれません。



 ねえ、あの軸と網、どこに行ってしまったのでしょう・・・?

水俣病資料館にどうしても行きたかったのは、公式確認60周年にあわせてリニュアル・オープンされたのを確かめたかったからです。

子どもたちに「水俣」のことを伝えるとき、しばしば、締めくくりに水俣病資料館のことを、話してきました。

事実を知ることは、どんなに大切かということを水俣のひとたちは知っている。
水俣病によって差別やいじめが起きてしまったことを、事実と向き合うことでしか乗り越えられないと知っている。
だから、市立の資料館を建てて、一つ一つ確かめようとしているのだ。
熊本の小学生は、みんな、この資料館を訪ねることになっているんだよ。

いろいろな展示がいっぱいあって、そのいちばん奥に、ひときわ大きく掲げられている写真がある。
資料館の展示をたどる動画を見てもらって、いちばん奥の写真を大きく写して子どもたちに見せる。

智子さんを抱くお父さんの写真。
智子さんとお父さんは笑って互いを見つめあっている、その写真。


そんなふうに語ると、「水俣」を伝えるときにいつも教室に展示している桑原史成さん撮影のその写真を、何も言わなくても子どもたちは一斉に見やるのです。
そんな資料館がどう新しくなったかを確かめたくて。


資料館の展示のようす。

智子さんのお父様が、「もう智子を休ませてあげたい」と思われて、展示を断われた、と聞きました。
かわって、いちばん奥に半永さんの笑顔が見えるのは、また、とても温かい気持ちにもなります。

資料館では、ちょうど、芥川仁さんの「リトルヘブン」写真展も開催されていました。
水俣を撮るなかで「リトルヘブン」を見出すことを知ったといわれた芥川さんの、全国各地で見つけた「小さな楽園」が集められた写真展でした。


芥川さんは、このリニュアルを「毒にも薬にもならない展示」と言われました。

わたしは批評するつもりはありません。
しかし、芥川さんから、大阪のコンサル会社が行ったリニュアル、と教えられたときは、少なからず残念な気持ちが起こりました。

事実を知り、事実に向き合う展示は、どこかの会社が請合う筋のものではなく、市民の手でつくられるべきものだと思ったからです。
水俣病公式確認60年にして、いまだ、水俣病事件解決のみえない現在。
その展示が、これでしょうか?
解決しようする意思、何をもって解決とするのかという提案を語る展示であってほしい。
そういう展示になるなら、60年を70年につなげる意味も生まれるように思えるのでした。


わたしたち、伝えるネットは、水俣病資料館とつながってきていたつもりでした。
【写真展 水俣を見た7人の写真家たち】の3つの窓口での開催は、そんな資料館とのつながりのなかで実現できたものです。
だから、いつもいつも水俣からもらうばかりだから、こちらからも返したい、その気持ちの表れとして首都圏窓口から贈ったのが、写真展来場者が残してくれた感想からつくった『群詩 朽ちない言葉の網』でした。
決して見返りを求めるつもりでなく、わたしたちも、また、水俣に生きるひとたちとともにあることを伝えたい、その思いが作らせたものです。

それを資料館が飾ってくださっていることが、本当に嬉しかったのです。
不遜かもしれないけど、少しは水俣にお返しができたんじゃないかなって。



水俣病資料館に飾られていた【写真展 水俣を見た7人の写真家たち】の感想が書かれた網と群詩。

リニュアルされて、その網や群詩の軸がどこにいってしまったか?
資料館の方にお訊ねしたら、その網と軸のこと自体がおわかりにならないようでした。

ど~しよ~。
たとえば『石川さゆり~水俣絶唱』音声ガイドの台本。
そして『水俣病~患者さんとその世界』の音声ガイドDVDも寄贈させていただいたけど、そういうものも、みんなリニュアルなんだろうか?




 研究会で震えるように発言したこと

実は、水俣病事件研究交流集会に期待するものがありました。

昨年、「水俣」を伝える活動をつづけて20年になろうとしているわたしたちのまちは、とても悲惨な事件を体験しました。
津久井やまゆり園の”虐殺”事件です。
この事件をどう受け止めるか、どのように克服していくか。
わたし自身を含め、わたしたちのまち全体が迷いのなかにあります。


ひとの想像力には限りがある、傷みは共有できないと知った上で、わたしは、あえて水俣に「  」を付け、「水俣」は、わたしたちのまちだ、わたしたちもまた加害者にも被害者にもなると語ってきました。
だからこそ、「水俣」に学ぼうと呼びかけてきたのです。

そんな活動をつづけてきて、このまちで、たくさんのいのちが無残に奪われました。
わたしには、それがひとりの狂気によって奪われたとは思えませんでした。
社会が、時代が内包している誤謬が拡がった末の出来事にしか思えないのです。
わたしは、この事件において、加害者であり、やがて被害者になるかもしれない。

「水俣」を伝えるとき、わたしは、自分の主体性に深く食い込んで問いを投げかけようとしてきました。
しかし、自分の内側へと向かう問うかけだけでは、足りなかった。
社会との共有、社会がどんなものであり、どのように構築されるべきか、社会化への働きかけに欠けてきた、と鋭く思わないではいられないのです。


今は亡き宇井純先生も、原田正純先生も言われていました。
この研究会は、学者だけでなく、市民も、どのような立場のひとも参加し語り合える場にしたい、と。

わたしは、この研究会で、津久井やまゆり園の事件をどう考えるかのヒントが欲しかった、と、振り返ります。
なぜなら、やまゆり園の事件も水俣病事件とつながっていると、直観するからです。

ここでも、わたしは、特段の批評も判定もするつもりはありません。
ここ数年の事件研究会の発表は、しばしば、言葉がわからないものがあります。
今年、あまりにもどかしくて、気がついたら、挙手して発言していました。

主体に切り込むような問いかけがあるように思えない。
これまでも、個のなかで、水俣病事件にある普遍的な問いを自身に深く投げかけてきた。
しかし、津久井やまゆり園のあるまちで、「水俣」を伝えるということに欠けてきたものがあるように思えてならない。
そのことへの示唆こそをここに求めたい。


それが、声を震わせながら質問をした経緯なのでした。


学者とか、市民とか、あるいは行政とか、共有できる言葉はあるはずと思います。
制度や裁判のなかで語るような言葉を使って語るのではなく、分かり合える言葉で語りませんか。

その日、”おにゆう”は、胎児性水俣病の知見に関わる発表があるということで、研究会に出席していました。
その言葉は、”おにゆう”に語りかけられる言葉だったでしょうか?

研究会自体が迷路に入っているような印象をもったのは、わたしたち、だけだったのでしょうか・・・。



 出前活動シーズンが始まる


子どもたちは、見抜く力を持っています。
いい加減に語りかけているか、真剣に語りかけているか。
向きあっているか、ごまかしているか。

わたしは、やまゆり園のことを問いながら、今年の出前活動にのぞもうと思っています。

そして――。
支えてくれるのは、多分、半永さんや”おにゆう”たちのように思えます。







これからの出前活動予定(2017.2.12現在)

2月15日 相模女子大学 小学部 5年生
2月23日 座間市立相模が丘小学校 5年生
2月24日 座間市立旭小学校 5年生
3月2日と3日 相模原市立清新小学校 5年生
3月6日  相模原市立湘南小学校 5年生
3月8日  相模原市立桜台小学校 5年生



※参観をかねてのお手伝いを募っております。




























避難生活者の証言に浮かび上がる「水俣」の意味

2016-01-24 10:04:24 | 会員レポート
1月23日、どんより冬曇りの土曜日の午後、
シバタさんの証言を聴きに行ってきました!






たまには、アップデートなことを書きます。
(昨年度中の出前の報告が2件残っているうちに、今年の出前も1件終了。
イベントも次々と入ってきておりますが…)



  信じられないようなホントのはなし

証言を聴かなくてはいけない、と思うのは、自分の想像力のなかではあり得ないと思う事実に触れることができるからです。
信じられないけれど、事実だと受け入れることで、自分の考えを組み直す。
そのことが大切だと思うからです。

たとえば――
水俣病の発生原因がチッソ自身の手(正確には、チッソに雇われていたお医者さんの手)によって、わかってから9年間、患者発生が水俣保健所に届けられてから12年間も放置されていたこと。
わたし、文字で読んで公害認定の「1968年」の文字が誤植だと思って、あるいは、原因のアセトアルデヒド工程の操業停止年度が「1968年5月」という文字が信じられなくて、何度も何度も確かめ、複数の記述を確かめました。
だって、あり得ないでしょ。人が死んでいってるのに、放置、って。

事実。そう確かめて、社会を、周りを見る目が変わりました。



同じように――。
請戸の浜で、津波に車のなかに閉じ込められたひとがクラクションで生存を伝えているのに、原発事故の放射能のために救助に行けなかったことを信じられませんでした。

初めてそのことを聞いたときの女性の証言を、「まさか」と信じませんでした。
ツイキャスで聴いて、興奮気味に語る女性の甲高い声のリアルを受け止められなかったんです。
それが、映画『日本と原発』のなかで語られていたので、あぁホントなのか、と事実として受け止め始めました。



マイクを持つのは、このまちに自主避難されてときどき出前授業にも同行してくださる鹿目さん。
鹿目さんからのご縁で浪江町のシバタさん(テーブルの前)の証言を聴く会が持たれました。



そして、このまちの、自転車で行けるところにある公民館でシバタさんの証言のなかで、当然の事実として触れられて、ようやく、その事実がもたらす悲惨と心の痛みに胸が締め付けられる思いがしました。
救いを求めるクラクションの音が聞こえてきました。
クラクションを鳴らしながら、捨てられていくいのちの苦しみに思いを馳せました。自分だったら、と。

その思いのなかで、事実を受け入れ、社会を見る眼を変える努力が始まります。
本当に遅くてごめんなさい。
5年たって、ようやく、原発避難者をひとりのままにさせてはならない、わたしができる努力の端緒につきました。





  壊されたのは、健康だけではない


シバタさんの失くしたもの。
先祖が開拓した土地。ローンの残る家。誇りある職場。山ブルベリーの手づくりのジャム。豊富に撮れたキノコ。そのキノコでつくる炊き込みご飯。息子の愛車。老親の生きがいと健康。ふるさとの祭り。


そうだよ。水俣病事件が奪ったものは、健康な身体だけではない、って。
暮らしが奪われ、地域が奪われ、培ってきた文化が奪われ、積み重ねられてきたひとりひとりの歴史が奪われた、って。


昨年実施された国政調査の結果を伝える新聞報道。浪江町の「0」が読める。


もっと知らなければ。
わたしたちこそがそのことを知ろうとしなければ。

シバタさんのお嬢さんが「放射能」と呼ばれて2年間も学校に行けなくなるようなことを起こさせないために。
怖くて、迷うなら、さらに事実を知ろうとしなければ。
そして、教えてくれるのは、先駆けて当事者となったシバタさんたち。

たまたま病院入院加療中のお父様を迎えにいくと、放射能が入るからと、玄関の自動扉すら開けてくれずに家族を追い返した病院。
そのくせ、もう大丈夫と判断されて、体育館の床に寝かされままの父親を捜しに捜して見つけたこと。

原発受入れの大熊町・双葉町に対し、ずっと原発受入れを拒んできた浪江町の住人をバスは乗せようとしてくれなかったこと。
説明会の会場でも、浪江町の住人の質問を受け入れようとしなかったこと。
「いつ帰れるか?」の質問に「う~ん、100年以上かな…」とつぶやくように答えた環境省の役人が隣の役人からあわてるように止められたこと。

ひとつひとつのエピソードに大切に耳を傾けなければ。



  「国はなにもしてくれないからね」のオバサンの声


シバタさんが「国はなにもしてくれない」と何度も何度も繰り返すたび、オバサンの声が耳によみがえりました。

川崎に住んでいた水俣病患者の大村トミエさん。
トミエさんには、「水俣」を伝える出前にしばしば付き合っていただきました。
(トミエさんの証言映像みられます。→こちら

トミエさんに「子どもたちにいちばん伝えたいことを言って」と水を向けると、こう言われたのでした。
「国は、な~んもしてくれないよ」って。


今年1月9,10日の水俣病事件研究交流集会に参加して改めて考えたこと――。
高岡滋医師の水俣病の症状における「こむらがえり」の指摘。
「こむらがえり」は自己認識できる症状として有意であるのに、本人申告による事柄は取り上げられないこと。

本人の言うことは、聞かないのです。
本人にしか言えないことは、制度のまえにシャット・アウトなのです。

この国はそういうことを当然とするシステムによって成り立っている。

わたしたちは、そういうシステムを良しとしてきたのです。
国もシステムも、わたしたちがつくるものなのだから。



シバタさんの証言によって「水俣」の意味が底から湧きあがってくるような思いに打たれました。


(報告:首都圏窓口 田嶋いづみ)

立体コピーとなった智子さんとともに、あけおめ。

2016-01-01 22:27:44 | 会員レポート
 謹んで初春のお喜びを
申し上げます。






これ、わかります?
線画のように見えるかもしれませんが、それぞれの線、黒い部分が盛り上がっている立体コピーなんです。

はい、線画で浮かんでいるのは、胎児性水俣病の智子さんを抱くお父さま。
市立水俣病資料館に掲げられている、ひときわ大きなアノ写真の立体コピー。


何年か前のお正月に、「水俣」を子どもたちに伝えに行くときに同行してもらっている桑原史成さん撮影の胎児性水俣病の智子さんを抱くお父さんの写真に、初春の陽射しをうけてもらいたくて、元旦に飾らせてもらったことがあります。

そのころは、伝えるネット事務局にもスペースがあったんですね。
スペースがなくなって、子どもたちの感想文やらパネルシアター『みなまた あまなつものがたり』なんかといっしょに別の場所に保管させてもらっているので、お正月に飾ることはもうできないな~、なんて思ってたんです。


で、昨夜、すなわち、大晦日から元旦前にかけて深夜の大掃除というか、大整理をしているときに、たまたま目に入ったのがコレ。
眼の不自由な少年に「水俣」の話を伝えるときに、仕上げた立体コピー。

写真をそのまま立体コピーにするのは、手で触れるのに難しいところがあるので、写真から線を拾い出して、立体コピー機にかけて作成しました。
写真から線を拾うのにも、ちょっとした工夫というか、センスが必要です。
線画にしてくれたのは、設立当初から伝えるネットの活動の中心にいてくれたのに、急な病に倒れて彼岸のひととなった大事な仲間です。

彼岸の仲間のこと、この立体コピーをたどってくれた少年の指を思い起こすのが、新年の日の思いにふさわしい気がして、新年のご挨拶とともにアップさせてもらいました。

本年も、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。


【オマケ】
こちらも立体コピーです。





そう、こんなふうに、手を取りながら、伝えたことも…。
活動の原点を振り返りつつ、初春、です!







ブログ再開! 希望を譲りわたさないために。

2015-12-30 22:03:05 | 会員レポート
伝えることをあきらめちゃいけないから
11月になってようやく会報を発行しました




 ようやく発行できたネット・インフォメーションは、第54号

決して倦んでいたわけではありません。
「なおざり」にも「おざなり」にもしていたわけではありません。(と、思う。)

「水俣」のことを考え、その意味を探りたい、深く―― 
そう考えてきた身に、この1年は厳しかった、ということは事実だと思います。


およそ半年ぶりにブログをアップいたします。
いやはや、ブログも久々だけど、会報の『ネット・インフォメーション』だって、10ヶ月ぶりに発行したんだもんね。





とまぁ、久々の会報の1ページ目は、伝えるネットのブックレット第1号が書籍化されたというものでした。
もっとウキウキとはしゃいでもよかったかな、と考えています。


「水俣」を伝えようとする発意を支えてくれた先生。
「水俣」を伝え始めたとき、いつも寄り添ってくれていた友。
「水俣」を一緒に伝えに行ってくれた水俣病患者さん。


彼岸に送ったひとたちへの思いばかりが募る書籍化でした。

そして――。
たった2年前に逝った友が、想像もしなかったろうジェットコースターのような右旋回をどう報告すればいいのか、と佇んだのでした。





 会報づくりが私たちの営みとして据わるとき

不思議なのは、会報をまとめることで、こころのなかに覚悟が座り始めたことです。
いやぁ、やっぱ、会報をつくるって大切だわ、と、改めて思った次第。

みちのりに無駄になるものは何もないのね~。

去年から今年にかけて、希望と絶望が椅子の取り合いをしているような世情でした。
ぼう然と、椅子の取り合いをながめているようだったのですが、視点が定まっていくのを感じました。

『ネット・インフォメーション 54号』を編集した2週間ばかりの、最後の3日ぐらいに、ようやく最後の文章にたどり着きました。

何を大げさなと思われるでしょうか。

今年、2015年の8月30日、国会前の群衆のなかで、撮った胎児性水俣病患者・松永さんを囲む記念写真を眺めるなかで、「希望を譲りわたす訳にはいかない」と気づきました。




あとから、みんなに言われました。
あの大勢のひとびとのなかで、よく会えたね、って。
しめしあわせても、なかなか会えなかったひともいるのに、って。

あのとき、いっしょにいらした桑原史成さんに気づいたっだけだったんです。
ほら、桑原さん、背が高くて、独特の飄々とした雰囲気をお持ちだから。
思わず駆けていって、松永さんや「ほっとはうす」の加藤さんとごいっしょだと気づいたのです。
確かに不思議。




写真をためすすがめつして、そして、書かせていただいたのが次の記事です。
改めて、その本文を、こちらに書かせていただきます。




 会の名前に「子どもたち」を掲げる私たちの責任について

この夏注目を浴びたのがSEALDsを中心とする若者たちでした。
彼らが登場した時、いちばんに連想したのは「水俣」の出前活動で出会った子どもたちの瞳でした。

SEALDsのスピーチで、反戦や日の丸や様々な市民活動をしてきた大人たちの姿に触れられると、「子どもたちに伝える」という迂遠だと思ってきた活動がとても貴重だと再確認させられている気もしました。
伝えるネット設立の年に瞳を丸くして聴いてくれた子どもたちはすでに20代後半になるのだな、とも気づきました。

「水俣」の学びを前にして、社会との関わりを自覚し、大人としての責任を果たそうと発意したのが「子どもたちに伝える」という活動でした。
そして、ひとつひとつの活動の意味を問い、教えられてきたのは、実は大人である私たちです。

憲法が蹂躙され、辺野古に見るように具体的に国民主権がないがしろにされている現在、私たちは、伝えるネット16年間の活動のなかで得てきた学びの成果を社会に返さなければなりません。
子どもたちがくれた学びを子どもたちのいのちのために返さなければなりません。
水俣病を解決しないこの国がしようとしていることを問い糺さなければなりません。
まさに「緊急行動」として、「だれの子どもも殺させない」ために。

あらためて、個々の多様性を認めつつ、社会に意思表示していくための提案と行動と支援をお願いする次第です。




この文章には、「田嶋いづみ」と、署名を付けさせていただきました。

市民として「伝える」ことを発意した原点に還って、再び呼びかけさせていただきます。



ネット・インフォメーション 第54号   
残部も少なくなってまいりましたが、ご希望があれば、1部200円(送料込)でお分けします。
内容は、1面の「目次」の欄にてお確かめください。

注文は、こちらのコメント欄にお申込みくださいませ。