広島の原爆投下からわずか三日目に長崎に第二弾の原爆が投下され大勢の市民が犠牲になりました。 焼野原となった市街地には放射能と光熱を浴びたおびただしい死体が、その中には母親とその幼児を抱く姿を見た少年は、「こんな光景は地獄みたいだ」少年は現在87才の男性「長崎市在住」は語っています。
地球上ではこの原爆から一度も戦争で使用されていません。最後の被害者は長崎市民になります。 原爆・核の恐ろしさは経験者でも非経験者でも理解できます。
被爆者の方及び被災して亡くなった方々のご冥福をお祈り申し上げます。
日本はこの日から一週間後に敗戦を迎えました。
ミッちゃんとシゲちゃんは、一緒にエレベーターに乗り込んだ。1階に着き、扉が開く。1945年8月9日午前11時2分。一歩踏み出した瞬間、まぶしい光とともに爆風に吹き飛ばされた。
その日、長崎医大付属病院外科病棟の屋上は、焼け付くような暑さだった。6歳の少年2人は空襲の爆弾の破片を探して遊んでいた。午前11時ごろ、「あった! こいは太かばい」。自慢げなシゲちゃんだったが、すぐに「便所に行きとうなったけん下に降りよう」とミッちゃんに駆け寄った。
まだ小さい破片しか持っていなかったミッちゃんは首を振る。「もっと太かとば見つくっと!」。シゲちゃんは「こいばやっけん、お願いさ。一緒に行こう」。見つけたばかりの大きな破片を差し出した。
長崎市の浦上地区にあった付属病院は爆心地から南東700メートル。エレベーターに乗るのが少しでも遅かったら、屋上で熱線を浴び灰になっていた。頑丈なコンクリート製の建物に守られたからこそ、2人は奇跡的に助かった。あの時、シゲちゃんが「下に降りよう」と言ったから。
□ □
一瞬で多くの人々の運命を変えた長崎原爆の投下から間もなく72年。ミッちゃんこと池田道明さん(78)=長崎県長与町=は、被爆翌日に別れた「恩人」のシゲちゃんを捜し続けている。「もう一度会いたい」。思いを託された記者は、本名さえ分からない少年の消息を追い、過去を歩いた。
きのこ雲の直下にあった長崎医大付属病院一帯は、暗闇に包まれていた。気が付くと、シゲちゃんの気配がない。しーんとしていて怖い。「どこにおっとねー」。声を張った。2度目で、ようやく聞き慣れた高い声が返ってきた。「ミッちゃんここよー」。ほっとした。
池田道明さんは、付属病院でシゲちゃんと親しくなった。母親が第2外科に住み込みで働いていた池田さんは、夏休みに入り病院で寝泊まりしていた。シゲちゃんは、母親が入院中だった。ともに国民学校1年生。すぐに仲良くなり、原爆が落とされたあの日も2人は一緒だった。
少し日が差し、ぼんやりと周囲が見えてきた。板張りの廊下が爆風ではがれ、床下の地面に転がっていた。熱い。すぐ外ではパチパチと音を立てて何かが燃えている。看護婦の一人が絶叫した。「警防団を呼びなさーい」。炎が迫っていると感じ、ガラスがなくなった窓枠から中庭に飛び降りた。
目の前に火の海が広がっていた。
飛び出した眼球が頬にくっついている人が見えた。上下の唇がめくれ上半身が膨れあがった人も。視界に入る全てが火を噴き、多くの命が奪われていた。「ここにおったらおいも死ぬ」。夢中で走り、病院の裏山に逃げ込んだ。シゲちゃんの姿を確認しないままだった。大人たちに交じって防空壕(ごう)で夜を迎えた。長崎の街を焼く炎が、夜空を赤く照らし続けていた。
翌日、爆心地から逃れるように列をなし、黙って歩く人たちに出くわした。病院に戻ると、シゲちゃんが駆け寄ってくる。「どこに行っとったとね! ミッちゃんのお母さん、けがしとるよ」。母親がベッドに伏せていた。一命は取り留めたが、背中一面にガラス片が刺さっていた。
その日の午後、長崎市郊外の親戚宅に身を寄せるために病院を出ることになった。シゲちゃんは病院に残った。2人の別れだった。いろんなことがあり過ぎて、別れ際にどんな会話をしたのか、その部分の記憶は抜け落ちている。
後に聞いた。彼の母親と、付き添いで病棟に寝泊まりしていた祖母は被爆の数日後に亡くなった。学校教員だったという父親はフィリピンで戦死していた。シゲちゃんは6歳で、ひとりぼっちになってしまった。
⇒【続き】シゲちゃん 長崎原爆72年(2)「原爆孤児」を追って
=2017/07/31付 西日本新聞朝刊=
地球上ではこの原爆から一度も戦争で使用されていません。最後の被害者は長崎市民になります。 原爆・核の恐ろしさは経験者でも非経験者でも理解できます。
被爆者の方及び被災して亡くなった方々のご冥福をお祈り申し上げます。
日本はこの日から一週間後に敗戦を迎えました。
ミッちゃんとシゲちゃんは、一緒にエレベーターに乗り込んだ。1階に着き、扉が開く。1945年8月9日午前11時2分。一歩踏み出した瞬間、まぶしい光とともに爆風に吹き飛ばされた。
その日、長崎医大付属病院外科病棟の屋上は、焼け付くような暑さだった。6歳の少年2人は空襲の爆弾の破片を探して遊んでいた。午前11時ごろ、「あった! こいは太かばい」。自慢げなシゲちゃんだったが、すぐに「便所に行きとうなったけん下に降りよう」とミッちゃんに駆け寄った。
まだ小さい破片しか持っていなかったミッちゃんは首を振る。「もっと太かとば見つくっと!」。シゲちゃんは「こいばやっけん、お願いさ。一緒に行こう」。見つけたばかりの大きな破片を差し出した。
長崎市の浦上地区にあった付属病院は爆心地から南東700メートル。エレベーターに乗るのが少しでも遅かったら、屋上で熱線を浴び灰になっていた。頑丈なコンクリート製の建物に守られたからこそ、2人は奇跡的に助かった。あの時、シゲちゃんが「下に降りよう」と言ったから。
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一瞬で多くの人々の運命を変えた長崎原爆の投下から間もなく72年。ミッちゃんこと池田道明さん(78)=長崎県長与町=は、被爆翌日に別れた「恩人」のシゲちゃんを捜し続けている。「もう一度会いたい」。思いを託された記者は、本名さえ分からない少年の消息を追い、過去を歩いた。
きのこ雲の直下にあった長崎医大付属病院一帯は、暗闇に包まれていた。気が付くと、シゲちゃんの気配がない。しーんとしていて怖い。「どこにおっとねー」。声を張った。2度目で、ようやく聞き慣れた高い声が返ってきた。「ミッちゃんここよー」。ほっとした。
池田道明さんは、付属病院でシゲちゃんと親しくなった。母親が第2外科に住み込みで働いていた池田さんは、夏休みに入り病院で寝泊まりしていた。シゲちゃんは、母親が入院中だった。ともに国民学校1年生。すぐに仲良くなり、原爆が落とされたあの日も2人は一緒だった。
少し日が差し、ぼんやりと周囲が見えてきた。板張りの廊下が爆風ではがれ、床下の地面に転がっていた。熱い。すぐ外ではパチパチと音を立てて何かが燃えている。看護婦の一人が絶叫した。「警防団を呼びなさーい」。炎が迫っていると感じ、ガラスがなくなった窓枠から中庭に飛び降りた。
目の前に火の海が広がっていた。
飛び出した眼球が頬にくっついている人が見えた。上下の唇がめくれ上半身が膨れあがった人も。視界に入る全てが火を噴き、多くの命が奪われていた。「ここにおったらおいも死ぬ」。夢中で走り、病院の裏山に逃げ込んだ。シゲちゃんの姿を確認しないままだった。大人たちに交じって防空壕(ごう)で夜を迎えた。長崎の街を焼く炎が、夜空を赤く照らし続けていた。
翌日、爆心地から逃れるように列をなし、黙って歩く人たちに出くわした。病院に戻ると、シゲちゃんが駆け寄ってくる。「どこに行っとったとね! ミッちゃんのお母さん、けがしとるよ」。母親がベッドに伏せていた。一命は取り留めたが、背中一面にガラス片が刺さっていた。
その日の午後、長崎市郊外の親戚宅に身を寄せるために病院を出ることになった。シゲちゃんは病院に残った。2人の別れだった。いろんなことがあり過ぎて、別れ際にどんな会話をしたのか、その部分の記憶は抜け落ちている。
後に聞いた。彼の母親と、付き添いで病棟に寝泊まりしていた祖母は被爆の数日後に亡くなった。学校教員だったという父親はフィリピンで戦死していた。シゲちゃんは6歳で、ひとりぼっちになってしまった。
⇒【続き】シゲちゃん 長崎原爆72年(2)「原爆孤児」を追って
=2017/07/31付 西日本新聞朝刊=