<前書き>
すいません、随分時間あいちゃいました。
今回は『花軍』となりました。
いや~~~なんというか、ええ、こう色々なってます。
だいぶ削ったんですが、やっぱりそこそこ長いです。
花ちゃんの奮闘をお楽しみくださいませ^^
『花軍(はないくさ)』11(孟徳×花←玄徳)もし花が最初に孟徳軍にいたら……
至上(死情)の恋 無上(無常)の恋
今夜の野営が最後になることは皆もわかっているから、旅の終わりを目前にして部隊には昂揚した雰囲気があった。
勝ち戦後、しばらく経っているが初めての玄徳の帰還だ。
本拠地ではなくとも凱旋の雰囲気が盛り上がらないわけはない。
それらを感じ取って、兵士たちの顔も明るく、掛けあう声も張りがあった。
そんな喧噪のなか、花は天幕の中でいつもと変わらぬ姿を心がけながら花は懸命に考え続けていた。
男が事を起こすと花に告げた時刻までは、それほど多くの時は残されていない。
これは本の助けを得られることではない。
けれど花とてただ漫然とこの世界に流されてからの日々を過ごしていたわけではないのだ。
本の助けがあったとしても、白松の元で学び、孟徳の傍らどこより激しい政の場にいて、軍師としてあった花は知っている。
ほんの少しの違和を見逃してはならない。
情を捨てず、でも流されず、真実を丹念に探し出すことが、道を見つける手段になる。
孟徳の元へ帰りたいからといって、焦りは禁物だ。
あの男への拭いきれない違和もそうだけれど、例え彼が本当に孟徳の手の者であったとしても、花の行動一つによって必要以上の危険を招くことになる。
昨日に予定通りだと、男は決行の時までこちらには接触してこない。
ならばその時の行動が、花のこの先を決めるだろう。
そうして少し周りに意識を向けてみれば、いつもは落ち着き払った侍女の笙葉でさえ珍しく少し気を抜いた様子に見える。
それだけ旅の空の下、野営などと言うのは緊張を強いるものだろう。
まして男所帯の軍の中、女の身で付き合うのは辛いはずだ。
それも侍女と言えばそれなりの身の上のはずで、花さえいなければ行軍に付き従う必要もなかったのだからやっぱり申し訳なく思う。
もちろん笙葉は上司の命があったから従ったのだろうけれど、彼女の気遣いは本物だった。
ただ漫然と花の世話と監視をやっているのではなく、義務ではない気配りがあった。
手筈通り花がここから姿を消せば、笙葉も罰を受けるのだろうか。
偽善と言われても仕方ないけれど、自分のせいで落ち度のない侍女が窮地に立たされるのは心苦しい。
良くしてもらったと言う意識があるから尚更だ。
たぶん玄徳のことだから、そう酷いことにはならないと思う。
それでも何らかの処罰は下されるだろう。
そこまで考え付きながら、花には自分が逃げ出さないと言う選択はなかった。
身勝手と罵られてもやはり孟徳の元へ帰りたかったのだ。
そうして明日が旅の終わりとあって、いつもより少々豪勢な夕食が用意された。
と言っても、特別豪華なものでもなく労いの意味もあってのことだが、質実剛健を旨とする玄徳軍らしいささやかなものだ。
花は全部の食事を食べ終え、来るべき時に備える。
寝る前に飲み水を用意してもらうことも、旅の中で幾度かあったことなので特別疑いを招くようなことはなかった。
全ての兵が食事を終え、夜が更けた頃に兵の交代は行われる。
行軍の最中は昼間どの部隊も本隊と同様に動く必要があるため、同じ兵がずっと夜通し見張りに立つことはない。
それに明日は自分たちの城に帰城し、尚且つ自勢力の中にいる安心感もあって、警戒自体もそれほどぴりぴりしたものはない。
兵が密やかに交代する様子を天幕の中で感じながら、花は木の杯に入っていた水をそっと飲み干した。
まだ一刻ほど時は必要なはずだ。
じりじりしながら待っていると、嗅ぎ慣れない香りが微かに匂う。
本当に決行する気なんだ。
花は息を殺したくなるのを我慢して、できるだけ通常の息遣いを心がける。
笙葉が花の寝息まで確認しているとは思わないけれど、侍女である彼女は本当に優秀だ。
侍女として、主の隣室に不寝番として侍ることもあったのだろう。
監視の意味もあるせいかもしれないけれど、夜中にトイレに行きたくて起きた時でも、彼女はすぐに気が付いた。
でも決して眠ってないわけではない。
敏すぎる笙葉に、今夜ばかりは色々気付かないで欲しいと花は願っていた。
そうでなければ、迎えに来た男に確実に殺されてしまう。
だんだん広がって来る匂いの中、花は掛け布の下でぎゅっと拳を握り込んだ。
男の言うようにそんなに香りがきついものではないから、眠っていれば気付くことはないだろう。
この時代、携帯も腕時計もないから時間は分かり辛い。
それでも香が焚かれてからだいぶ経ったはずで、花は簡易な寝台の中で身じろいだ。
当然笙葉からの反応はない。
息詰まるような時間が流れ、やがてぱさりと布が捲れるような音がして空気が動いた。
ほんの僅かに天幕の中央にうすぼんやりした灯篭の灯りが揺らめき、影が現れる。
それは男の職分を示す名前ではあるが、今はその言葉通り一つの黒い影だった。
長身で無駄のない身体付、闇に溶け込んだ姿は暗闇に慣れた花の目でも判然としなかった。
元々夜目など利かないから仕方ないかもしれない。
影は花の元へは来ずにもう一つの寝台へ近付いて行く。
「あっ……」
密やかに漏れた花の声にならない声に男は、僅かに気配を動かした。
たぶん花の言葉にせずに含まれる意味に男は気付いたのだろう。
花を制するようにごく小さく手を上げる素振りをしたが、迷うことない足取りで笙葉に近付き手を伸ばした。
息を呑むけれど花の懸念は杞憂に過ぎず、男は笙葉に眠り香が確実に効いているのを確かめただけのようだった。
同じくほとんど足音をさせないようにこちらに来ると、男は寝台の脇に立った。
渡したのと同じ薬を服用しているためか、香を気にする素振りはない。
「軍師様」
密やかな声は、それでも天幕内の空気を揺らして花の耳に届いた。
「起きてます」
身を起こして男に寝台の上で対峙すれば、頭巾のような物を被った黒装束で、男の人相で分かるのは僅かに開いた目元だけだ。
男が僅かな灯りさえも背にしているから、花からはほとんど表情は読めない。
それでも花は、男の全てを見逃すまいとするようにじっと目を凝らした。
「丞相の元へお連れします」
「はい。でもその前に、お顔を見せてくれませんか?これから先、一緒に行動するんですよね。もう、顔を隠す意味はないんじゃないですか?」
落ち着いた声が出たことにほっとしながら、花は男に尋ねた。
「今はこの方が闇に紛れて便利です。時間もありませんし、顔合わせは落ち着いてからにしましょう」
男の言うことは間違いではないけれど、その言葉はやっぱり花の疑いを濃くはしても晴らしてはくれない。
「じゃあ、お名前は何て呼べばいいんですか?」
「伯礼と呼んでください」
淀みなく応えたけれど、本名ではないと花は判断を付ける。
本当は彼の身に纏う香りも確かめたかったけれど、眠り香の匂いがしているからそれは叶わない。
「軍師様。眠くなってはおられないようですね」
「そうですね。薬のお蔭です」
「失礼ながら、薬はいつ頃飲まれましたか?」
「どうしてそんなことを聞くんですか?」
「いえ、薬の効きを確かめたかっただけです。結構、天幕の中には香が濃く作用しているようなので気になったんです」
すると花は、本当に不思議そうに首を傾げた。
疑う気持ちが大きくなりつつも、まだどこかで信じたい気分があった。
花はそもそも鈍くはないけれど、巧妙に隠された人の感情ではなく、思惑を見抜くことは苦手だ。
軍師として交渉に向かないのはそう言う点だが、生まれ持ったものは簡単には変わらない。
けれど皮肉なことに、その感情的な心証も、そして軍師としての積み立ててきた男に出会ってからの事実も、両方ともが彼を信じることを躊躇わせていた。
だから花は、覚悟を決めて黒衣の男に対峙する。
「薬は丞相が、伯礼さんに使えと言ったんですか?」
「いえ。それら細かい指示を授けられなくても大丈夫なほどに、御信頼はいただいてます」
一瞬の花の不審が分かったのか、男は前にかかる髪の間から花に問う。
「何か不審がございますか?」
あちらからは薄明かりとは言え花の顔が見え、尚花は顔を晒したままだし、何より花は感情が顔に出やすい。
対して男は額から零れるように顔にかかる前髪、灯りを背にしていること、そして頭巾と顔はこれでもかと言うくらい見えにくい。
表情はまったく窺い知れないし、顔の造作さえ分からないなんて花には圧倒的に不利だった。
「不審というか、少しだけ腑に落ちないんです」
「軍師様。薬が気になっておられるのですか?妖しい物でないことは納得いただけたと思っていましたが」
「ええ。毒物などではないと思ってます。でも薬の指示が、丞相から伯礼さんに何もなかったことが、私にはどうも納得いかないんです」
こんな所で時間を取るべきではないけれど、花はそこがどうしても納得できない。
もしや孟徳の気持ちが花から離れて、そんなことなど気に掛けなくなっているのかもしれない。
弱気な自分がそう思うけれど、それならばわざわざ手の影を敵陣に送り込んで花を助けようとはしないだろう。
たぶん多少の情はあっても、孟徳はそう言う点では非情だ。
特に劉玄徳は仁愛が強いと知られており、軍師であっても女子供に情けをかけることを知っているから花が最悪殺されないと思えばそのまま放置とするはずだ。
でも伯礼が孟徳の命により来ているならば、孟徳はいまだ花を必要としていると言うことで、ならばこそ薬のことを伝えないのはおかしい。
すると伯礼は、一拍置いて核心をつく。
「それは軍師様がご懐妊しており、その身に丞相の御子を宿しておられることを気にされての質問ですか?その点を含んで、大丈夫と言う意味だったのですが伝わってないようで残念です」
その一言が、花に残酷な真実を告げていた。
花はそもそも子供がお腹に宿っているわけではない。
そもそも懐妊の噂は、花が孟徳軍にいて前線に同行せずに後方支援に下がったあの戦いから味方の陣営でも言われていたことだ。
けれど孟徳は正式に否定も肯定もせず、ただ花の体調不良によって、今回は最前線を引くとだけ通達した。
だから誤解している者もいたが、それは孟徳だって知っていることで、もしこの男が本当に孟徳の手の者ならば花を救出に向かう影に伝えないはずはない。
「私、伯礼さんとは一緒に行けません」
「突然どうしたんです?」
「逃げ切れる体力がありません」
「そのことならばご心配は無用です。ここを出れば、他の手の者もおります」
「今更なのは分かってます。でもお腹の中の子も守りたいんです」
花が意を決して事実でないことを言えば、伯礼は困惑したように重い息を吐く。
それはさも丞相の寵姫と言う女軍師の突然の我儘に、困っている部下の図だった。
「それも考えた上での丞相の命で、今ここにいるのです」
今の花は、この伯礼と名乗った男が孟徳の手の者でないことを確信していた。
だから出来るだけ穏便に帰って貰いたかった。
孟徳の手の者でないならば、仲謀軍の者か、他の勢力か、場合によっては孟徳側でも花の存在を疎ましく思うの者たちだろう。
ただ昨日からも事を考えて、殺す時間も手段もあったのに、そうしなかったと言うことは生かして使おうとしていると言うことだ。
今のように孟徳の枷になるのは嫌だったし、他ではもっと花の扱いは苛烈になることだろう。
現在の扱いが特別な玄徳の温情にあることは、世間知らずな花でも理解できた。
だから何があっても伯礼と行くわけにはいかないし、ここで騒ぎ立ててならばいっそと殺されるのも嫌だ。
苦肉の策として、いもしないお腹の中の子供のことを持ち出してみたけれど、簡単に退いてくれる気はなさそうだ。
「お腹の中の子を、玄徳殿は死なせないと言ってくれました。お願いです。せめて無事、子供を生むまで待ってください」
「玄徳を信じると仰られるのですか?」
「仁の玄徳と呼ばれるあの方を子供の為に信じたいです」
「玄徳が昔散々に客将として丞相の世話になりながら、裏切ったことを承知で?」
花は知った事実に目を瞠り、それでも頷いた。
「丞相がお嘆きなるでしょう。いや、それともお怒りになるかもしれません。今、この時しか機会はないかもしれないのに逃げないと言われるのですか?」
「すいません」
花が俯いて頭を下げれば、伯礼が諦めたように静かに息を吐き出した。
「承知いたしました。丞相にはありのままを報告させていただきます」
ほっと花が張り詰めていた空気を緩めた一瞬、花の身体を衝撃が襲った。
伯礼は驚くような素早さで花の口を塞ぐと同時に、胸を突き飛ばすように押し、花の身体に乗り上げて自由を奪った。
「あっ……くぅ」
体格のいい男に乗りかかられて、思わず花の口から苦痛の声が漏れる。
「お静かに願います。そうでなければ、力を入れますよ」
下腹部に当たる膝に体重が掛けられて、花は伯礼の本気の残酷さに思わず息を呑んだ。
妊娠している女性にこんなことをすれば、女性本人どころか赤ん坊だってただでは済まないだろう。
これ以上に酷い脅しもない。
大人しくなった花に、伯礼は今までとは雰囲気をがらりと変えた。
「どうして……」
「あなたは私が孟徳殿の手の者でないと気付いたのでしょう。今更こんな芝居、続ける意味もありません」
そうしてきつく花の顎を掴むと、まじまじと花の顔を検分するように見つめた。
「やはり薬を飲んでないようですね。いつから私を疑っていたんですか?」
「じゃあ、やっぱりあれは言う通りの眠気を催さない薬じゃなかったってことですね」
答えずにそんな返答をすれば、少しだけ膝に力を入れられる。
「訊いているのはこちらです。ですが、あそこまでしてみせた薬を飲まないとは馬鹿ではないようだ。つまり私はあなたの信頼を得ることはできなかったわけですね。疑ったのはどこですか?」
「薬のことです」
「なるほどね。毒の有無ならともかく、子供を宿した女に薬を軽々しく与えるのは禁忌。そもそも懐妊も半信半疑でしたし、あの時はそこまでは気が回りませんでした」
花はわざとの核心をぼかした言い方をすれば、伯礼は勝手に懐妊している女が、薬の影響を気にしていると納得したようだった。
つまりそれは一を言えば、十どころかその裏までも考えてしまうような頭が回る人ということだ。
「どうやって香の眠りに抗ったのです?」
下腹部にかかる重みが男の本気を伝え、花は迂闊な抵抗は命取りになると慎重だった。
「痛みを与えれば眠気に勝てます」
「まさか」
伯礼は珍しく感情を声に乗せて、花の掛け布を引きはがした。
握り込んだ小さな左手は不自然なほどにきつく握られ、そこに手巾が握られている。
強張っている指を無理矢理開かせれば、折り畳まれ握り締められた手巾は赤く染まっていた。
それと共に掌に喰い込む鋭い陶器の欠片が見えた。
相当強く握り込んでいたのか、鋭い刃先は皮膚を切り裂いて食い込んでいる。
伯礼は欠片を取り上げると、呆れたように呟く。
「女人のくせに自らの身体を傷付けますか……」
「男も女も関係ありません。守るべきもの、すべきこと、譲れない色んなものの為に誰だって一生懸命になるんです」
凛とした少女の声は、細かったけれど震えてはいなかった。
「随分と勇ましい仰りようですが、その身体で孟徳殿や玄徳殿を籠絡しているのでしょう。やっていることは卑しく無様で、汚らわしいことです」
「男の人が女の人にそれを無理やり求めるんじゃないですか!勝手なこと言わないでください」
この世界で、女は戦利品であり、褒賞であり、場所によっては商品だ。
逸らされず射抜く瞳は、どこまでも真っ直ぐでありながら苛烈だった。
「小賢しく正論を振りかざしますね。容姿にそぐわぬその苛烈さを、孟徳殿はあの御気性故に愛でられましたか。ですが命が私に握れている状況で、私を怒らすのは愚かしいと気付くべきですね。連れ出す気でおりましたが、私としてはここで死んでもらっても一向に構いません」
この状況で圧倒的に不利なのは当然花の方で、伯礼はどこまでも冷徹に言い放つ。
けれど花は怯むことなく伯礼を見返し、その唇は僅かに怯えからか震える。
「こわいですか?無様に命乞いをなさいますか?」
「生きたいと思うことは無様じゃないです」
次の瞬間、花は身体の下いれていた右手を思いっきり引っ張った。
左手を自ら傷付ける暴挙をしでかしていた花が、まさか右手にも何かしていようと思うはずはない。
何かが倒れる音がしたかと思えば、ぼっと灯りが揺れて火が付いた。
さすがに冷静な伯礼が火に気を取られた隙を逃さず、花は寝台から下へと転がり落ちる。
「誰か!!!火事です!!!」
灯りには油を使っていたし、その足元には井草のような乾いた草を置いていたため、当然ながら火の回りは早い。
花は声を限りに火事だと叫んだ。
一瞬、伯礼が剣をつくかと思ったが、男は一瞥を花に与えるといっそ潔いほどの引き際で、一言の捨て台詞さえ残さずに天幕から消えて行った。
まだ夜明けも遠い時刻、時ならぬ火事騒ぎに最後の野営地は常にない夜となった。
<後書き>
花ちゃん久々軍師モードだったかもしれません。
孤軍奮闘って感じです。
で、伯礼さんですが、どなたかお分かりになりましたか?^^;
花ちゃんも当然誰だか知りませんよ。
次の回で、行軍編は一旦終了かなぁ?
更にも1回あるかもですが………。
あ、原稿は苦戦しております。
すいません、随分時間あいちゃいました。
今回は『花軍』となりました。
いや~~~なんというか、ええ、こう色々なってます。
だいぶ削ったんですが、やっぱりそこそこ長いです。
花ちゃんの奮闘をお楽しみくださいませ^^
『花軍(はないくさ)』11(孟徳×花←玄徳)もし花が最初に孟徳軍にいたら……
至上(死情)の恋 無上(無常)の恋
今夜の野営が最後になることは皆もわかっているから、旅の終わりを目前にして部隊には昂揚した雰囲気があった。
勝ち戦後、しばらく経っているが初めての玄徳の帰還だ。
本拠地ではなくとも凱旋の雰囲気が盛り上がらないわけはない。
それらを感じ取って、兵士たちの顔も明るく、掛けあう声も張りがあった。
そんな喧噪のなか、花は天幕の中でいつもと変わらぬ姿を心がけながら花は懸命に考え続けていた。
男が事を起こすと花に告げた時刻までは、それほど多くの時は残されていない。
これは本の助けを得られることではない。
けれど花とてただ漫然とこの世界に流されてからの日々を過ごしていたわけではないのだ。
本の助けがあったとしても、白松の元で学び、孟徳の傍らどこより激しい政の場にいて、軍師としてあった花は知っている。
ほんの少しの違和を見逃してはならない。
情を捨てず、でも流されず、真実を丹念に探し出すことが、道を見つける手段になる。
孟徳の元へ帰りたいからといって、焦りは禁物だ。
あの男への拭いきれない違和もそうだけれど、例え彼が本当に孟徳の手の者であったとしても、花の行動一つによって必要以上の危険を招くことになる。
昨日に予定通りだと、男は決行の時までこちらには接触してこない。
ならばその時の行動が、花のこの先を決めるだろう。
そうして少し周りに意識を向けてみれば、いつもは落ち着き払った侍女の笙葉でさえ珍しく少し気を抜いた様子に見える。
それだけ旅の空の下、野営などと言うのは緊張を強いるものだろう。
まして男所帯の軍の中、女の身で付き合うのは辛いはずだ。
それも侍女と言えばそれなりの身の上のはずで、花さえいなければ行軍に付き従う必要もなかったのだからやっぱり申し訳なく思う。
もちろん笙葉は上司の命があったから従ったのだろうけれど、彼女の気遣いは本物だった。
ただ漫然と花の世話と監視をやっているのではなく、義務ではない気配りがあった。
手筈通り花がここから姿を消せば、笙葉も罰を受けるのだろうか。
偽善と言われても仕方ないけれど、自分のせいで落ち度のない侍女が窮地に立たされるのは心苦しい。
良くしてもらったと言う意識があるから尚更だ。
たぶん玄徳のことだから、そう酷いことにはならないと思う。
それでも何らかの処罰は下されるだろう。
そこまで考え付きながら、花には自分が逃げ出さないと言う選択はなかった。
身勝手と罵られてもやはり孟徳の元へ帰りたかったのだ。
そうして明日が旅の終わりとあって、いつもより少々豪勢な夕食が用意された。
と言っても、特別豪華なものでもなく労いの意味もあってのことだが、質実剛健を旨とする玄徳軍らしいささやかなものだ。
花は全部の食事を食べ終え、来るべき時に備える。
寝る前に飲み水を用意してもらうことも、旅の中で幾度かあったことなので特別疑いを招くようなことはなかった。
全ての兵が食事を終え、夜が更けた頃に兵の交代は行われる。
行軍の最中は昼間どの部隊も本隊と同様に動く必要があるため、同じ兵がずっと夜通し見張りに立つことはない。
それに明日は自分たちの城に帰城し、尚且つ自勢力の中にいる安心感もあって、警戒自体もそれほどぴりぴりしたものはない。
兵が密やかに交代する様子を天幕の中で感じながら、花は木の杯に入っていた水をそっと飲み干した。
まだ一刻ほど時は必要なはずだ。
じりじりしながら待っていると、嗅ぎ慣れない香りが微かに匂う。
本当に決行する気なんだ。
花は息を殺したくなるのを我慢して、できるだけ通常の息遣いを心がける。
笙葉が花の寝息まで確認しているとは思わないけれど、侍女である彼女は本当に優秀だ。
侍女として、主の隣室に不寝番として侍ることもあったのだろう。
監視の意味もあるせいかもしれないけれど、夜中にトイレに行きたくて起きた時でも、彼女はすぐに気が付いた。
でも決して眠ってないわけではない。
敏すぎる笙葉に、今夜ばかりは色々気付かないで欲しいと花は願っていた。
そうでなければ、迎えに来た男に確実に殺されてしまう。
だんだん広がって来る匂いの中、花は掛け布の下でぎゅっと拳を握り込んだ。
男の言うようにそんなに香りがきついものではないから、眠っていれば気付くことはないだろう。
この時代、携帯も腕時計もないから時間は分かり辛い。
それでも香が焚かれてからだいぶ経ったはずで、花は簡易な寝台の中で身じろいだ。
当然笙葉からの反応はない。
息詰まるような時間が流れ、やがてぱさりと布が捲れるような音がして空気が動いた。
ほんの僅かに天幕の中央にうすぼんやりした灯篭の灯りが揺らめき、影が現れる。
それは男の職分を示す名前ではあるが、今はその言葉通り一つの黒い影だった。
長身で無駄のない身体付、闇に溶け込んだ姿は暗闇に慣れた花の目でも判然としなかった。
元々夜目など利かないから仕方ないかもしれない。
影は花の元へは来ずにもう一つの寝台へ近付いて行く。
「あっ……」
密やかに漏れた花の声にならない声に男は、僅かに気配を動かした。
たぶん花の言葉にせずに含まれる意味に男は気付いたのだろう。
花を制するようにごく小さく手を上げる素振りをしたが、迷うことない足取りで笙葉に近付き手を伸ばした。
息を呑むけれど花の懸念は杞憂に過ぎず、男は笙葉に眠り香が確実に効いているのを確かめただけのようだった。
同じくほとんど足音をさせないようにこちらに来ると、男は寝台の脇に立った。
渡したのと同じ薬を服用しているためか、香を気にする素振りはない。
「軍師様」
密やかな声は、それでも天幕内の空気を揺らして花の耳に届いた。
「起きてます」
身を起こして男に寝台の上で対峙すれば、頭巾のような物を被った黒装束で、男の人相で分かるのは僅かに開いた目元だけだ。
男が僅かな灯りさえも背にしているから、花からはほとんど表情は読めない。
それでも花は、男の全てを見逃すまいとするようにじっと目を凝らした。
「丞相の元へお連れします」
「はい。でもその前に、お顔を見せてくれませんか?これから先、一緒に行動するんですよね。もう、顔を隠す意味はないんじゃないですか?」
落ち着いた声が出たことにほっとしながら、花は男に尋ねた。
「今はこの方が闇に紛れて便利です。時間もありませんし、顔合わせは落ち着いてからにしましょう」
男の言うことは間違いではないけれど、その言葉はやっぱり花の疑いを濃くはしても晴らしてはくれない。
「じゃあ、お名前は何て呼べばいいんですか?」
「伯礼と呼んでください」
淀みなく応えたけれど、本名ではないと花は判断を付ける。
本当は彼の身に纏う香りも確かめたかったけれど、眠り香の匂いがしているからそれは叶わない。
「軍師様。眠くなってはおられないようですね」
「そうですね。薬のお蔭です」
「失礼ながら、薬はいつ頃飲まれましたか?」
「どうしてそんなことを聞くんですか?」
「いえ、薬の効きを確かめたかっただけです。結構、天幕の中には香が濃く作用しているようなので気になったんです」
すると花は、本当に不思議そうに首を傾げた。
疑う気持ちが大きくなりつつも、まだどこかで信じたい気分があった。
花はそもそも鈍くはないけれど、巧妙に隠された人の感情ではなく、思惑を見抜くことは苦手だ。
軍師として交渉に向かないのはそう言う点だが、生まれ持ったものは簡単には変わらない。
けれど皮肉なことに、その感情的な心証も、そして軍師としての積み立ててきた男に出会ってからの事実も、両方ともが彼を信じることを躊躇わせていた。
だから花は、覚悟を決めて黒衣の男に対峙する。
「薬は丞相が、伯礼さんに使えと言ったんですか?」
「いえ。それら細かい指示を授けられなくても大丈夫なほどに、御信頼はいただいてます」
一瞬の花の不審が分かったのか、男は前にかかる髪の間から花に問う。
「何か不審がございますか?」
あちらからは薄明かりとは言え花の顔が見え、尚花は顔を晒したままだし、何より花は感情が顔に出やすい。
対して男は額から零れるように顔にかかる前髪、灯りを背にしていること、そして頭巾と顔はこれでもかと言うくらい見えにくい。
表情はまったく窺い知れないし、顔の造作さえ分からないなんて花には圧倒的に不利だった。
「不審というか、少しだけ腑に落ちないんです」
「軍師様。薬が気になっておられるのですか?妖しい物でないことは納得いただけたと思っていましたが」
「ええ。毒物などではないと思ってます。でも薬の指示が、丞相から伯礼さんに何もなかったことが、私にはどうも納得いかないんです」
こんな所で時間を取るべきではないけれど、花はそこがどうしても納得できない。
もしや孟徳の気持ちが花から離れて、そんなことなど気に掛けなくなっているのかもしれない。
弱気な自分がそう思うけれど、それならばわざわざ手の影を敵陣に送り込んで花を助けようとはしないだろう。
たぶん多少の情はあっても、孟徳はそう言う点では非情だ。
特に劉玄徳は仁愛が強いと知られており、軍師であっても女子供に情けをかけることを知っているから花が最悪殺されないと思えばそのまま放置とするはずだ。
でも伯礼が孟徳の命により来ているならば、孟徳はいまだ花を必要としていると言うことで、ならばこそ薬のことを伝えないのはおかしい。
すると伯礼は、一拍置いて核心をつく。
「それは軍師様がご懐妊しており、その身に丞相の御子を宿しておられることを気にされての質問ですか?その点を含んで、大丈夫と言う意味だったのですが伝わってないようで残念です」
その一言が、花に残酷な真実を告げていた。
花はそもそも子供がお腹に宿っているわけではない。
そもそも懐妊の噂は、花が孟徳軍にいて前線に同行せずに後方支援に下がったあの戦いから味方の陣営でも言われていたことだ。
けれど孟徳は正式に否定も肯定もせず、ただ花の体調不良によって、今回は最前線を引くとだけ通達した。
だから誤解している者もいたが、それは孟徳だって知っていることで、もしこの男が本当に孟徳の手の者ならば花を救出に向かう影に伝えないはずはない。
「私、伯礼さんとは一緒に行けません」
「突然どうしたんです?」
「逃げ切れる体力がありません」
「そのことならばご心配は無用です。ここを出れば、他の手の者もおります」
「今更なのは分かってます。でもお腹の中の子も守りたいんです」
花が意を決して事実でないことを言えば、伯礼は困惑したように重い息を吐く。
それはさも丞相の寵姫と言う女軍師の突然の我儘に、困っている部下の図だった。
「それも考えた上での丞相の命で、今ここにいるのです」
今の花は、この伯礼と名乗った男が孟徳の手の者でないことを確信していた。
だから出来るだけ穏便に帰って貰いたかった。
孟徳の手の者でないならば、仲謀軍の者か、他の勢力か、場合によっては孟徳側でも花の存在を疎ましく思うの者たちだろう。
ただ昨日からも事を考えて、殺す時間も手段もあったのに、そうしなかったと言うことは生かして使おうとしていると言うことだ。
今のように孟徳の枷になるのは嫌だったし、他ではもっと花の扱いは苛烈になることだろう。
現在の扱いが特別な玄徳の温情にあることは、世間知らずな花でも理解できた。
だから何があっても伯礼と行くわけにはいかないし、ここで騒ぎ立ててならばいっそと殺されるのも嫌だ。
苦肉の策として、いもしないお腹の中の子供のことを持ち出してみたけれど、簡単に退いてくれる気はなさそうだ。
「お腹の中の子を、玄徳殿は死なせないと言ってくれました。お願いです。せめて無事、子供を生むまで待ってください」
「玄徳を信じると仰られるのですか?」
「仁の玄徳と呼ばれるあの方を子供の為に信じたいです」
「玄徳が昔散々に客将として丞相の世話になりながら、裏切ったことを承知で?」
花は知った事実に目を瞠り、それでも頷いた。
「丞相がお嘆きなるでしょう。いや、それともお怒りになるかもしれません。今、この時しか機会はないかもしれないのに逃げないと言われるのですか?」
「すいません」
花が俯いて頭を下げれば、伯礼が諦めたように静かに息を吐き出した。
「承知いたしました。丞相にはありのままを報告させていただきます」
ほっと花が張り詰めていた空気を緩めた一瞬、花の身体を衝撃が襲った。
伯礼は驚くような素早さで花の口を塞ぐと同時に、胸を突き飛ばすように押し、花の身体に乗り上げて自由を奪った。
「あっ……くぅ」
体格のいい男に乗りかかられて、思わず花の口から苦痛の声が漏れる。
「お静かに願います。そうでなければ、力を入れますよ」
下腹部に当たる膝に体重が掛けられて、花は伯礼の本気の残酷さに思わず息を呑んだ。
妊娠している女性にこんなことをすれば、女性本人どころか赤ん坊だってただでは済まないだろう。
これ以上に酷い脅しもない。
大人しくなった花に、伯礼は今までとは雰囲気をがらりと変えた。
「どうして……」
「あなたは私が孟徳殿の手の者でないと気付いたのでしょう。今更こんな芝居、続ける意味もありません」
そうしてきつく花の顎を掴むと、まじまじと花の顔を検分するように見つめた。
「やはり薬を飲んでないようですね。いつから私を疑っていたんですか?」
「じゃあ、やっぱりあれは言う通りの眠気を催さない薬じゃなかったってことですね」
答えずにそんな返答をすれば、少しだけ膝に力を入れられる。
「訊いているのはこちらです。ですが、あそこまでしてみせた薬を飲まないとは馬鹿ではないようだ。つまり私はあなたの信頼を得ることはできなかったわけですね。疑ったのはどこですか?」
「薬のことです」
「なるほどね。毒の有無ならともかく、子供を宿した女に薬を軽々しく与えるのは禁忌。そもそも懐妊も半信半疑でしたし、あの時はそこまでは気が回りませんでした」
花はわざとの核心をぼかした言い方をすれば、伯礼は勝手に懐妊している女が、薬の影響を気にしていると納得したようだった。
つまりそれは一を言えば、十どころかその裏までも考えてしまうような頭が回る人ということだ。
「どうやって香の眠りに抗ったのです?」
下腹部にかかる重みが男の本気を伝え、花は迂闊な抵抗は命取りになると慎重だった。
「痛みを与えれば眠気に勝てます」
「まさか」
伯礼は珍しく感情を声に乗せて、花の掛け布を引きはがした。
握り込んだ小さな左手は不自然なほどにきつく握られ、そこに手巾が握られている。
強張っている指を無理矢理開かせれば、折り畳まれ握り締められた手巾は赤く染まっていた。
それと共に掌に喰い込む鋭い陶器の欠片が見えた。
相当強く握り込んでいたのか、鋭い刃先は皮膚を切り裂いて食い込んでいる。
伯礼は欠片を取り上げると、呆れたように呟く。
「女人のくせに自らの身体を傷付けますか……」
「男も女も関係ありません。守るべきもの、すべきこと、譲れない色んなものの為に誰だって一生懸命になるんです」
凛とした少女の声は、細かったけれど震えてはいなかった。
「随分と勇ましい仰りようですが、その身体で孟徳殿や玄徳殿を籠絡しているのでしょう。やっていることは卑しく無様で、汚らわしいことです」
「男の人が女の人にそれを無理やり求めるんじゃないですか!勝手なこと言わないでください」
この世界で、女は戦利品であり、褒賞であり、場所によっては商品だ。
逸らされず射抜く瞳は、どこまでも真っ直ぐでありながら苛烈だった。
「小賢しく正論を振りかざしますね。容姿にそぐわぬその苛烈さを、孟徳殿はあの御気性故に愛でられましたか。ですが命が私に握れている状況で、私を怒らすのは愚かしいと気付くべきですね。連れ出す気でおりましたが、私としてはここで死んでもらっても一向に構いません」
この状況で圧倒的に不利なのは当然花の方で、伯礼はどこまでも冷徹に言い放つ。
けれど花は怯むことなく伯礼を見返し、その唇は僅かに怯えからか震える。
「こわいですか?無様に命乞いをなさいますか?」
「生きたいと思うことは無様じゃないです」
次の瞬間、花は身体の下いれていた右手を思いっきり引っ張った。
左手を自ら傷付ける暴挙をしでかしていた花が、まさか右手にも何かしていようと思うはずはない。
何かが倒れる音がしたかと思えば、ぼっと灯りが揺れて火が付いた。
さすがに冷静な伯礼が火に気を取られた隙を逃さず、花は寝台から下へと転がり落ちる。
「誰か!!!火事です!!!」
灯りには油を使っていたし、その足元には井草のような乾いた草を置いていたため、当然ながら火の回りは早い。
花は声を限りに火事だと叫んだ。
一瞬、伯礼が剣をつくかと思ったが、男は一瞥を花に与えるといっそ潔いほどの引き際で、一言の捨て台詞さえ残さずに天幕から消えて行った。
まだ夜明けも遠い時刻、時ならぬ火事騒ぎに最後の野営地は常にない夜となった。
<後書き>
花ちゃん久々軍師モードだったかもしれません。
孤軍奮闘って感じです。
で、伯礼さんですが、どなたかお分かりになりましたか?^^;
花ちゃんも当然誰だか知りませんよ。
次の回で、行軍編は一旦終了かなぁ?
更にも1回あるかもですが………。
あ、原稿は苦戦しております。