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月野岬

好きなゲーム等の文章中心の二次創作置き場です。現在三国恋戦記中心。

『花闇月』その後(孟徳×花孔明)

2011-10-07 23:00:15 | ×花孔明
<前書き>
『花闇月』もこの後日談的お話で本当に最後になります。
まあ読まなくても全然差し障りないわけですが、補足と言う感じでしょうか^^;
少しだけ甘さも補充……微妙だ(汗)
とりあえず軽いお気持ちでどうぞ。



『花闇月』その後(孟徳×花孔明)(もしも設定なので深く突っ込まないように…笑)

益州に帰還するために、使者としての役目を終えて挨拶に向かった雲長と亮は、普段目通りが行われる広間ではない場所へ案内された。
ある意味、私的な会見は終わったはずで、これは名目上の儀礼的なものだ。
訝しく思わないわけはない。
「あれ以上、何か言うべき言葉があったとも思えないが」
腑に落ちない表情で、通された場所に不審の視線を向ける。
そこは内殿と呼ばれる孟徳の私邸の部分に当たる場所に近い東屋だった。
普通、こんな場所に通されることはない。
更に不審に思ったのは、そこに孟徳以外の線の細い小柄な人影があったからだ。
けれど案内の兵が声をかける前に、気配に振り向いたその人物に雲長は声を失った。
それでも武人として培った強じんな精神力で、行動だけは歩も止めることなく案内に従う。
衝撃から立ち直ったのは、亮の方が早かったろう。
「二人に紹介しよう。曹孟徳が最愛の姫の花ちゃん」
恥ずかしげもなく言い切った孟徳に、花は実に困った顔で、でも嬉しそうに、照れたように恥ずかしげに笑む。
「花……」
それでも雲長に呼びかけられ、花は表情を一変させると申し訳なさそうに一歩進み出た。
帰りたくても未だ帰る術のない人の前で、ここにある自分の存在をどう言えばいいのだろう。
けれど雲長は、自失から立ち直れば僅かに目を細めた。
「あの」
「構わない」
「でも」
「お前が望んだのがここなのならばそれでいい」
清しく言って、僅かに口の端で笑みを浮かべる雲長に、花は堪らず手を伸ばす。
いつでも、どこでも、長い時の中で黙って花を支え、見守り続けてくれた人。
彼がいたからこそ、この永遠と思える時の流れを渡って来れた。
雲長はほんの一時、腕の中にその温かな身体を感じてそっと背を抱いた。
それは男女の情ではなく、ある意味この二人以外は誰も持ちえない同族の絆だった。
最後に抱いたあの冷たく命が失われていく記憶が、温かな生への感覚に置きかえられていく。
「花ちゃん。もういいだろう」
そこへ割って入ったのは苛立ちを含んだ孟徳の声で、やんわりと花の肩を抱いて引きはがす。
「丞相殿は狭量だね」
恐れ気もない揶揄の声は、亮のものだ。
「雲長だからこの程度だ。他の者だったら、とっくに斬って捨ててる」
「孟徳さん」
花はどこか孔明の時のような窘める口調で、ちらりと上目遣いに孟徳を睨んだ。
「言葉のあやだよ」
孟徳は誤魔化すけれど、孔明として生きてきた記憶のある花にはどうにもあやだとは思えない。
「心配なら君が今後他の男に抱きつくなんて真似をしなければいい」
しれっと孟徳は言い放つ。
「しかし本当に戻って来たんだな」
雲長の感慨深い声に、花はやっと雲長の隣に立つその青年に視線を真っ直ぐに向けた。
「たぶん彼のお蔭で。初めまして、でいいのかな?」
「う~ん。取り合えずそうかな」
「あなたが、孟徳さんに本を託してくれたからここにこうやって戻って来れました」
「戻ってか……君がそう思うほどに、こちらでの生が辛くなかったんだったらボクは良かったと思うよ」
苦笑交じりに言われ、花は小さく苦笑する。
「辛いことも嬉しいことも悲しいことも喜びも、全てはたぶん同じくらいありました。でも戻って来たいと思ったのは、最後の生で、今世で、今までと違うことを知ったからだと思います」
そうして浮かべた少しだけ憂いを秘めた微笑は、少女の持つ雰囲気からしたら随分と大人びて、はっとするほど艶やかで美しいものだ。
言わずもがな、それは花が初めて持った強く激しい想いのためだと誰の目にも分かる。
その想いを分かつことの許されたただ一人の男、孟徳は甘く独占欲を隠さず少女を自分の腕の中に閉じ込めた。
そしてそんな花を後ろから抱き込むと髪を柔らかく指先で弄んで、さも愛おしそうに頭のてっぺんに口付けを落とした。
「孟徳さん、まだお話の途中です」
「もう俺の我慢は限界。さっさと本題に移ろう」
「「本題」ですか?」
短くは雲長、長くは亮の疑問の声が重なる。
「俺は彼女を正式な第一の妻として迎える。万難を排すためにはお前たちというか、玄徳軍の手がいるが聞く気はあるか?」
「お伺いいたしましょう」
すでに軍師である亮は、かつて花であった孔明がそうしたように、白い羽扇をゆらりと揺らして応じた。
花はその光景を、口を挟まず万感の思いで見つめていた。

玄徳軍の使者が帰ったのち、両軍の間は荊州の境界を挟んで再び一発触発の緊張状態となった。
けれどそれは両軍の働きかけから回避の動きへとなる。
何しろその間を突こうと、揚州の仲謀軍が動いたのだから仕方ない。
和平を確実なものにするため、玄徳軍から玄徳の異母妹と言われる十七歳の歳若い姫が、孟徳のもとへ政略結婚で送り込まれてくることになった。
孟徳へと嫁す条件は、その姫を一の妻に据えること。
今この状況では断ることもできず、決して粗略には扱えぬ存在として、玄徳の正式な後ろ盾をもって血族の姫は良く晴れた日、許都の孟徳の元へ腰入れた。
薄絹を被り静々と輿を降りた姫は、護衛の玄徳軍の兵と分かれ奥の間へ案内されていく。
「では、こちらでお待ちください」
侍女が下がれば、続き間からするりと人影が滑り出てきた。
出てきた人影も、花嫁とまったく同じ豪奢な赤の花嫁衣裳、髪飾りだ。
「ご苦労様でした」
続き間から出てきた花が到着したばかりの花嫁を労えば、花嫁は被り物を取って深く花に向かって拱手を捧げる。
「もったいないお言葉です。花様」
「身代わりなど危険な真似をありがとうございました」
「いいえ。我が主玄徳様の妹君様の身代わりなど光栄にございます」
身代わりの侍女はあくまでも真実を知らず、玄徳の異母妹花が襲撃や暗殺の目をくらませるために、別働隊と共に許都に入ったと思っている。
実際の花は、この世界に戻ってから一時も許都から出たことはない。
そう、これこそが孟徳が筋書きを示し、亮たちが細部を詰めた案だった。
一番の難関は玄徳に真実を話し信じて貰えるかどうかだったが、玄徳は雲長と亮の言葉と共に、孟徳と花の書簡を見て信じたらしい。
何より花の言葉全てが、長年仕えてくれた孔明の言と重なったためだ。
そして孟徳が裏から手を回して準備すると言ったにも関わらず、花の腰入れのための花嫁道具は全て玄徳が用意したものだった。
「これらは、本来孔明が得るべきだったもののほんの一部に過ぎない。だから快く受け取ってもらいたい」
返された言葉に、花は静かに主と未だ思う心で深く拱手を捧げた。
これから花は、劉玄徳の妹としてその威光を後ろ盾にこの地で孟徳と共に生きる。
もちろん花と孟徳の婚姻は、情によってのみなされたわけではない。
劉と曹の結びつきが、この和平を長く支えることを視野に入れた上での政治的決断も働いている。
いずれにしろこの策に関わった者達の今の心情に、目的の主は違っても一片の偽りもなかった。
そして繰り返した世界の中で初めて、劉玄徳と曹孟徳の間に政略婚が結ばれることになった。

「ああ。でもこれしか手がなかったとは言え、悔しいな」
孟徳が実に面白くなさそうにぼやく。
「何がですか?」
花嫁衣裳から、初めての婚儀の夜を迎えるために純白の織も彩な夜着に袖を通した花は、初々しく孟徳に手を取られて寝所へと招き入れられた。
「花ちゃんが玄徳の妹ってとこ」
「仕方ありませんよ。実際、私はここにいない人間なんですから」
その花を一の妻、つまり正妃の身分に押し上げることは丞相曹孟徳にかかればできなくはなかったが、無理を通せば花の立場が悪くなることは分かっていた。
それよりは誰もが頷かねばならぬ花嫁として、確固とした後ろ盾をもって迎える方が、後々を考えても良かったのだ。
苦肉の策だったが、思いの外上手く言ったのはやはり玄徳軍の全面的協力があったおかげだ。
「まあいいか。劉家の花姫も、晴れてこうして曹孟徳の妻になったんだからね」
男の色香を滲ませて、孟徳の瞳が花の姿を頭の先から足もとまで順に捉える。
「孟徳さん、その目、ちょっと怖いです」
「怖いとは酷いな。でも俺は今夜酷い男かも知れないけど、覚悟はできてる?」
「え?」
「ん?だってすごく待ったから」
孟徳は艶めいた微笑を浮かべると、花を抱き寄せる。
ここに戻っておよそ五か月、二人の間に身体の関係はなかった。
「私一人が、孟徳さんを待たせたわけじゃありません」
「うん。俺の我儘だね。俺が花ちゃんをゆっくり知りたかったから。前は急ぎ過ぎて、君を追い詰めた」
確かに息詰まるような恋の駆け引きは、この花には不似合いに思える。
すると花は、少しだけ挑戦的に悪戯っぽく笑う。
「この私もそんなに弱くはありませんよ」
「それは頼もしい言葉だな。じゃあ、手加減なしでいい?」
抱きしめた一方の手が、背中から腰へ滑り、ぐっと孟徳へ引き寄せられた。
「も、孟徳さん!」
焦る花にはお構いなしに、優しく頬や額、瞼、鼻先に口付けが幾つも落とされる。
やがて顎まで来た口付けは、花の唇の端にかすめるように一つ落ち、やがてゆっくり重なった。
深い口付の中、花は堪らず甘く喘いで孟徳の髪をくしゃりと撫ぜて首に縋る。
「もう立ってられない?」
甘く囁かれ、花は口付けだけで上気させ潤んだ瞳で孟徳を見上げて頷く。
「仰せのままに」
抱き上げられ、その言葉に、状況に花は既視感を覚えて一瞬胸が詰まる。
あの時の孔明は、どんな想いでこの腕の中にいただろうか?
どこまでも敏い孟徳は、少しだけ揺れた花の眼差しに気付きながら、ゆっくりと歩を進めて花を寝台におろした。
そのまま花の顔の両脇に手を突くと、顔を近付けて耳元に囁く。
「花ちゃん、俺は姿が変わろうと、呼び名が変わろうと、立場がどうであろうと、君の存在、魂そのものを愛してる」
「どんな私でもですか?」
「うん。君ならば姫でも、軍師でも、ただの娘でも……娼妓だってかまわない」
「最後のが一番敷居が高そうです」
「そう?俺の前でだけなら、どんなに乱れてくれてもいいよ」
「……努力してみます」
少女は恥ずかしげに視線をそらして、でも可愛らしく孟徳の夜着の袂をぎゅっと握る。
「怖い?」
「変ですね……」
この先の行為は孔明の時に知って未知ではないし、まして相手は誰よりも愛すべき孟徳で、その肌だって、行為だって、どれだけ甘いものか知っている。
なのに花は、自分では止めようがなく小さく震えていた。
「かわいい。大切にするから、君の二度目の初めても俺に頂戴」
花は胸いっぱいに孟徳の愛を感じ、返事の代わりに手を差し伸べる。
「孟徳さん……」
愛してますは言葉にならず、花からの口付けに代えられて、閉じる瞳から真珠のように一滴の涙が零れ落ちて孟徳の肌を滑っていった。

この後、孟徳軍と玄徳軍に小競り合いはあったが、互いの当主が代替わりしてしばらく後まで大きな戦は起こらなかった。
そこには政略結婚であっても、仲睦まじかった曹孟徳とその正妃である劉家より嫁した花の存在が大きかったと伝えられている。
そして花自身は城の奥深くに在り、その当時の高貴な女性の常でほとんど表に出ることはなかった。
ただその姿や人となりを垣間見た者は、穏やかにあたたかな人柄、どこかいつまでも少女のようなあどけなさと明るさ、そして聡明さを兼ね備えた女性だったと言っている。
ただ一つ花は、どんな場合においても二君に仕えずを胸に、死すその時まで玄徳に忠義を捧げ、その孔明として持っていた才を孟徳軍の為に使うことはなかった。
またその初恋の恋情そのままに、いつも孟徳の傍にあって、その瞳は飽くことなくただ曹孟徳を見つめ、その心と共にあった。
これは史実が伝えぬ、一つの物語の裏側のお話。



<後書き>
ああ本当に全部終わってしまいました。
なんか蛇足だったかなと思いつつ、やっぱり雲長さんと玄徳さんを少しだけ出したかった。
だって二人は、本当に長いこと花孔明とともに歩んできましたからね。
そして私にしては珍しく、愛妾でない花ちゃんでした(笑)
では、また次のお話でお目にかかれれば嬉しいですwww

『花闇月』連の章三の下(孟徳×花孔明)

2011-10-05 22:25:36 | ×花孔明
<前書き>
これにて『花闇月』は最終話となりました。
幸せの形を考えるのは、難しいですね。
ちなみに、あと一つごく短い後日談が入る予定です。
では、続きからどうぞ。



『花闇月』連の章三の下(孟徳×花孔明)(もしも設定なので深く突っ込まないように…笑)

孟徳の元から下がりながら、雲長は隣を歩く青年に声をかけた。
「亮」
「何ですか?」
「お前は全てを記憶し、受け継いでいるのか?」
「いいえ。全てを得たのはほんの一瞬であとは自分の、この亮の生きてきた記憶がやはり主ですが、曖昧にはあるというか、浮かぶこともあります」
「そうか。彼女は……あの子は……戻れたのか?」
本来あるべき時の流れの中へと、まるで孔明ではなく花を思い出したかのように雲長は問う。
それだけが密かなる気がかり。
男の雲長であっても、本物の雲長の身代わりをするのは並大抵のことではなかった。
回を重ねれば慣れは出てくるが、それでも辛くなかったと言えば嘘になる。
そして少女の身で、諸葛孔明の代わりを引き受けねばならなかった花の苦労を知る身とすれば、戻れたことを切に願わねばいられない。
「それはボクにもわかりません。ただ」
「?」
「曹孟徳の想いはボクの予想を遥かに凌駕してた。正直意外だったかな」
「お前に斬りかかったことか?」
「それもありますが、激情と同時にあんな静かな想いまで持ってるとは思わなかった」
始めは亮すら気付かず、さり気なく手をやった孟徳の仕草でそれがわかった。
亮の記憶にないけれど、それが誰のものかはなぜか理解できた。
曹孟徳。
彼女が幾度か孔明の生を生きた中で、ただ一人女性としての心に、そしてその身に触れることを許した存在。
そう、亮は知っている。
花はこの男を口に出すことは一度としてなかったけれど、全身全霊をかけて愛していた。
諸葛孔明として、全てを玄徳に、その志に捧げながら、恋情と言う一点だけでは譲らなかった。
たぶん花自身は、孟徳に伝わっていないと思っていたろう。
いや知って欲しくないと思っていたかもしれない。
けれど亮は孔明死して後の孟徳に出会い、先ほどの会見でたぶんその想いを知った。
だから心して全てを受け入れるべく、ただ少女に唯一で真実触れたかの男に妬心と憧憬をもって淡く微笑む。
雲長が意味が分からずに亮を見返すが、亮は軽くゆるく首を振ると今世では言葉すら交わすことが出来なかった少女の姿を脳裡に思い描いた。

「最後は一片の花びらとなって、一陣の風に鮮やかに散るのも一興です」

不意にこの東屋で孔明と交わした言葉を思い出して、孟徳は小さく息を吐いた。
闇に浮かぶ白い花のような娘だった。
初めて抱いた夜、窓辺からずっと白く咲き乱れる木槿の花に思いを馳せるようにただ佇んでいた。
黒と白を常に纏いながら、最後の最後に選んだのは孟徳の贈った禁忌の緋色。
そして帯飾りの飾り紐に触れる自分の動作に気付き、孔明が死んで以来の新たな癖となったその行為に自嘲が浮かぶ。
あの荊州の城で、共に刺客の凶刃を潜り抜けた夜、孟徳が切り揃えた孔明の長い濃い栗色の髪。
唯一孔明が……何かの象徴として身にあかしていたもの。
捨てろと言われ、らしくないとは思いながら、孔明には告げずに大事にしまっていたそれを孔明の死後孟徳は飾り紐に仕立て上げさせた。
「俺は君を悼むなんてできないな」
あまりに鮮やかに逝ってしまったから、普段から触れられる距離にいなかったから、未だ信じられないのかもしれない。
それでも目の前に揃えられた遺品に、現実だと目の前に突き詰められて実感してしまう。
思い出せば、「君が俺に信じさせて」と強請った孟徳に返された言葉は、「あなたは私も、誰も信じないで」という拒絶。
普通女は私だけは信じてと言うのに、本当にあの娘だけはいつも孟徳の予想を裏切る。
打ち出す策と同じで、孟徳には孔明の行動は理解しがたいものだった。
翻弄され、その度に自分の女扱いに慣れた態度の何とあてにならないものかと苦笑した。
「君は自由になったのかな。玄徳から、軍師と言う立場から、その伏龍の名から。そして俺と言う存在からも」
でも死して全てから逃れるのは、本当にずるいと、らしくないと思う。
正直、孟徳は未だもって孔明を自分の元から逃がす気など欠片もない。
「死によって俺から逃れようなんて許さないよ」
孔明の遺品が揃ってしまった今だからこそ、孟徳にははっきり自覚できた。
どれほど自分がかの娘を愛し、そしてその想いを信じたがっていたか。
そして今ただ一つ残った自分の中に残る想いに、間に合わないとは分かりつつも言わずにはいられない。
「孔明、君は一つだけ読み違えたね」
孟徳は亮から受け取った守り刀朱影に疵に愛おしそうに指先でなぞる。
彼女がこれを肌身離さず持っていたことは知っていたし、たぶんその死の瞬間も身に付けていたのだろう。
「君は俺が何も信じないと言ったけど、俺は君の愛を信じるよ」
それは何も残さず逝った娘が、ただ孟徳の心に残したもの。
信じると言う形のない想い。
「これだけは死した君にも奪えない」
二度と何も信じないと誓った男が、その誓いを破るほどの想いを再び持つことは、この曹孟徳と言う男に在っては絶対が覆されるに等しい。
そして朱影に口付け、緋色の衣をそっと彼女の代わりのように抱きしめた。
もう彼女の香りなどしないのに、香りを吸い込めば唇が戦慄き、何年振りだろう頬を何か温かいものが止めどなく伝う。
小さく震える肩に、今だけ覇者の威光も責任も何もなく、ただ失ったものを嘆く男がいるだけだ。
それは孟徳の声なき慟哭だった。
「……!?」
ふわりと柔らかな風が吹き、抱きしめた衣装が広がればその下から不思議な物が現れた。
読めたのは『九天九地盤』の文字。
そしてそれがぱたりと開かれると、ぱらぱらとごく軽い音と共に紙が捲られていき、同時に信じられないほどの光が溢れた。
それは辺りを圧倒するほどで、人払いしてあるけれどこの光に誰も不振を感じて近付いてこない方が不思議だった。
長かったのか、短かったのか、孟徳がただ光が収まるのを見つめていた先に、その閉じきった『本』を手に持って一人の少女が立っていた。
やけに丈の短い変わった衣装、肩までの濃い栗色の髪、既視感と渇望する想い。
記憶に残る姿とはまったく違うのに、紛れもなくその少女は知る女(ひと)の面影を色濃く宿している。
「花ちゃん?」
孔明とは呼ばず、知ってはいたけれどついぞ呼ぶことのなかったその名を、なぜその少女に向けて呼んだのか、ただ名は意識にのぼる前に孟徳の唇から紡がれていた。
「孟徳さん」
呼ばれたのは、常の彼女なら絶対に呼ぶことのなかった呼称であり、記憶に残るより余程幼さを感じさせる優しい声音。
その声と同時に、小さな身体が孟徳の腕の中に思いがけず飛び込んできた。
「本当に……?」
「はい。少し若返ってますが、私ですよ」
少しだけからかうように返された言葉に、やはり違和感は拭えない。
孔明は間違ってもこんな話し方はしなかったし、まして自分から孟徳の胸に飛び込んでくるなど天地がひっくり返ってもあり得ない。
「孔明?」
「そうですね……その名は、もう本来の持ち主にかえり、今世の孔明はいません」
さらりと髪に触れれば、少女が真っ直ぐに顔を上げた。
柔らかな身体、確かな温もり、さらりとした艶やかな髪の手触り、そしていつになく迷いなくまるで愛情を伝えるように真摯に注がれる瞳。
こんな風に彼女に、見つめられたことはあっただろうか?
そもそもここにいるのは、本当に彼女だろうか?
「君は死んだと聞いたけれど、玄徳たちに国中が担がれたのか?」
打てば響くように明晰な頭脳を持つはずの男が、感情と情報を処理しきれぬままに、少しだけ猜疑が滲んだ声で問う。
まだこれが現実だと認識できない。
彼女は死んだと、つい今しがた実感したばかりだ。
「死んだのは本当です」
「でも……」
「戻って来たんです」
そんなばかなと思うけれど、少女の瞳には僅かばかりの嘘もない。
「嘘はつきません」
信じてくださいと続けられなかった言葉に、孟徳は少し切なげに笑う。
そう確かにあり得ないことなのに、嘘がないと言う矛盾は孔明の持つ真実だった。
孟徳の瞳を揺るぎなく受け止めたまま、少女は少しだけ大人びた微笑をみせた。
それは時折、二人だけの甘い一時に孔明が浮かべることのあった数少ない微笑みで、やはり彼女なのだと胸を突かれる。
「私に……孟徳さんの声が、いえ、想いが今さっき届いたんです」
そしてためらいがちに少女の小さな手が孟徳の頬へ伸ばされ、先ほど涙が濡らした肌をそっと掌が包み込む。
「孟徳さん」
孟徳はそのまま花の手を取り、自分の唇あてて俯いた。
神など、奇跡など信じはしないが、それでもやはり今、ここに彼女はいる。
「俺に涙を流させるのは君ぐらいだ」
ふわりと柔らかな赤みかった髪が揺れ、花は自分の掌に熱い滴を感じた。
「俺は君に幾つも言ったね。好きだと、愛してると」
顔を上げた孟徳の頬にすでに涙はなかったけれど、真摯に少女の記憶を呼び起こすように確かめる。
「はい」
「その言葉に嘘は一かけらもないけれど、改めて誓うよ。花ちゃん、君の全てを信じてる」
甘く優しい言葉はたくさん与えられたけど、最後まで決して言われなかった言葉。
花は目を瞠り、届けられた想いの深さと真実を知る。
それに返す花の想いは一つだけだ。
孟徳の想いが、時を空間を全てを超えて届いたように、花も自分の想いを伝えるために、封印していた言葉を解き放つ。
「私は……孟徳さんが好きです。あなたを愛してます」
孟徳が何度も甘く強請り、けれど孔明の口からは一度として語られぬことのなかった言葉。
今、初めてそれは記憶より幼く、そして切ないまでの恋情を込めて告げられた。
孟徳はその言葉に蕩けるほどの幸せそうな微笑みを浮かべた。
そのまま少し無骨な指先が頤にかけられ、琥珀の瞳が甘く熱く花を捉える。
優しく重なった唇は、いつになく羽のように触れあっただけだ。
それでも花は妙に気恥ずかしい気分で、唇に指先を当てて少しだけ頬を染めた。
その孔明にはなかった初々しい仕草に、孟徳はくすりと笑みを零す。
「今更だけど花ちゃんって呼んでいいの?」
「はい。山田花です」
その聞き慣れない言葉の響きながら、聡い男である孟徳はすぐに気付く。
あの亮と名乗った青年の名も同じ響きの言葉だったと。
そしてまだ花の手に握られたままのそれに視線をやれば、花もそれを追って自分の手の中にある本を複雑な表情で見る。
「これはどうしてここにあるんですか?」
この本が孟徳の所にあったから、おそらく気持ちを媒介して花に届けてくれたんだろう。
「たぶん亮が忍ばせておいたんだろう。花ちゃんには意味が分かるんだよね」
「じゃあ、やっぱり彼が玄徳さんの所に行ったんですね」
「そうだね。君の予想通りなのかな?」
「は……い」
そして孟徳は、天才と言われる男であるがゆえにある推測を導き出し、それはあまり的外れでないだろうと考えていた。
「花ちゃん、君は俺の所に戻って来てくれたよね。俺は泣くほど嬉しかったけど、本当にいいの?」
「玄徳さんの事ですか?」
硬い声で訊き返すと、孟徳は苦笑を零した。
「違うよ。俺はもう二度と君を手放すつもりはない。玄徳の所になんかやらないよ。ただ、君には君の場所があるんじゃないの?違う?」
顔を覗き込まれ、花は違うと言いかけて少し泣きそうな表情になり惑う素振りをみせた。
そんな表情も孔明の時にはなかったもので、先ほどの恥らう様子といい、孟徳はもっとそんな少女の顔を見てみたいと思う。
「花ちゃんが、花ちゃんでいられる場所があるなら、そこがいいんじゃないの?ずっと帰りたかったんだよね。自分自身に、その場所に」
一を知れば、十を知る人だと知ってはいたけれど、やっぱり花は孟徳の鋭さに驚かされる。
「帰りたくないと言えば嘘になります。でもそこには孟徳さんがいないんです。今は孟徳さんがいないことの方が耐えられません」
「うん。だけどそれがあれば帰れるんだよね?」
「たぶん……」
「だったら今度は俺を君の場所に連れて行って」
意味が花の頭に染み透ると、思いもかけなかった言葉に衝撃を受ける。
「ダメかな?」
「そんなこと……できません」
「なぜ?」
「だって孟徳さんは、この世界に必要不可欠な人です。それに今孟徳さんがいなくなったら、この均衡が崩れてここまで成った和平が崩れてしまいます」
孟徳は花の腰に優しく手を添えると、緩く抱き寄せた。
「それは孔明の言葉だよ。俺は君の言葉で聞きたい」
あの場所へ、孟徳と帰る。
一度その場に帰っていたから、その想いは強く花を惹きつけた。
この制服のままに、山田花と言うただの女子高生でいられる場所で孟徳と過ごす。
何も知らなかった頃の花の記憶、ここは渡った時の記憶、孔明となって過ごした日々と、色んな想いが花の中を走馬灯のように過ぎ去る。
出来るのだろうか?
そう思えば、花の考えに呼応するように本がごく淡く輝く。
「行けるの……?」
本にとも、孟徳にとも問えば、孟徳は花を抱き締めたまま頷いた。
ふわりと花の手の中で本が少しだけ浮き上がり、開かれてだんだん強くなる光と共にぱらぱらページが捲れ始める。
けれど次の瞬間、花は力強くぱたりと本を閉じた。
「花ちゃん?」
孟徳が腕の中の少女に問うように名前を呼びかければ、花は孟徳に向かって強い瞳で頷き返した。
「私が、山田花がここに残りたいと思ってます。ただもう私は献策も、外交も、内政も、何も示しません。そんなただの私が、孟徳さんの傍にいてもいいですか?」
「本気?」
「はい」
頷き返す花の瞳は澄んで、でも孔明の時のようにどこか諦観した色はなく、生き生きとした明るい光を宿している。
「じゃあ、今度こそ君を、花ちゃんを俺にゆっくりと教えて」
孟徳はやっと、心より希い、唯一の誓いを破らせ、信じることを知った魂の伴侶をついにその手に抱きしめた。
その瞬間、本は眩い光と共に二人の間から空気に溶けるように消えていた。
<おわり>



<後書き>
花孔明の『花闇月』に長くお付き合いいただきありがとうございました。
もともとF様のリクエストのお話でしたが、思いもかけず長編になってしまい終わるまでお待たせしました。
つくづく長編とは終わり方が難しいと痛感したお話でしたね。
このお話の結末、皆さん色々思いはありましょうがこんな形となりました。
では、後日談を残してですが、『花闇月』終章です。礼

『花闇月』連の章三の上(孟徳×花孔明)

2011-10-01 21:08:33 | ×花孔明
<前書き>
花孔明最終話の予定だったのですが、長かったんです^^;
予想以上にね。
そこで妙かも知りませんが、適度な場所できりました(笑)
続きなので次の更新は花孔明で連続です。
なるべく急いでUPします。
では、続きからどうぞ。




『花闇月』連の章三の上(孟徳×花孔明)(もしも設定なので深く突っ込まないように…笑)

半年後……。
「その節は、我が方の軍師諸葛孔明の死に使者までお遣わしいただきありがとう存じます。我が主、劉玄徳もそのご厚情に深く感謝しております」
自分の前で膝をつく雲長に、孟徳は組んでいた腕をほどいて苦笑した。
「おい。堅苦しい挨拶はよせ。何のために人払いをしたと思っている」
そこは東屋で謁見用の室ですらなく、見える場所に兵の姿はあるが声が届く場にいるのは二人以外には、しぶしぶ孟徳が同席を許した元譲しかいない。
雲長は許しを受けて顔を上げると、孟徳の静かな双眸を受け止めた。
「では言葉のままに」
そして頷いた孟徳は、無駄なく訊こうと思っていたことを切り出した。
たぶん雲長が使者として遣わされたのは、一時事情があったとはいえ孟徳のもとに身を寄せていたこと、そしてたぶん孔明と最も親しかった武将のためだろう。
捕虜として捕えた時も、危険を冒してまで彼女を奪還したのは紛れもなく雲長だったし、孔明と特別な間柄になってからも、理由が聞いたことがなかったが二人の間に特別な空気があることは感じていた。
そして後から聞いた話では、孔明最後の場にも雲長がいたと聞いていた。
「最後を聞かせてくれ」
誰のと言われなくても、もちろん雲長も分かっているので静かに話し出した。
「あの戦いに出る前から、孔明はこうなる予兆を持っていたのかもしれません。が、死の予感を持ってもいても甘んじてそれを受け入れていたのではありません。あらゆる回避する策を講じながらも、もしもの事まで考えて準備していたと言うことです」
「そしてそれは孔明を持ってしても避けれなかったと言うことか」
「最終的には。けれど、お蔭で我が軍は何とか勝ちを収めることが出来ました」
それは確かに事実だろう。
もしあそこで玄徳軍が敗れていれば、おそらく雲長はこの場で孟徳に弔意の返礼の使者など出来ぬはずだ。
「けれど失った代償は大き過ぎはしないか?」
「ええ、諸葛孔明は我が軍には何者に代え難い存在です。ですがそれさえも彼女は見越していた」
雲長は苦く笑う。
たぶん花は、本当はそこまで見越していなかったはずなのだ。
自分の代わりが出来る者がいないことなど、そう容易く見つからないと……。
「確かにお前の所には鳳雛の士元がいるな」
「彼ではありません。別の存在です」
「別の?」
「ええ。亮、例のものをこちらへ」
そこで孟徳は、雲長が控えさせていた武官の装束ではなく文官の略装姿の青年に声をかけるので、改めてその人物に注意を払った。
雲長が同席を願い出た青年だったが、最初から東屋の外に控え、そよとも動かぬ風情だった。
けれどここに丞相曹孟徳がいるのに、その人物は全くもって緊張もなく、過度に気負った様子もなく、庭の木々のようにそこに溶け込んでいた。
「亮?」
孔明の名と同じだと思えば、布がかかった箱を手にした青年が不敬にならぬように孟徳の視線を受けずに進み出ると、東屋の卓の上にそれを置いた。
武官ではないのは体格や身ごなしでわかるが、音もさせずしなやかなその挙動はまるで猫のようだ。
亮と呼ばれた青年は、孟徳に優雅に文官の拱手を捧げるとゆるゆると下がった。
「これは?」
布がかかったままの箱に視線をやったまま問えば、雲長は生真面目な表情のまま一瞬言葉を捜すように間を置いた。
「これは孔明が最後のその時に着ていた衣装です。彼女は、あなたには何も残さないと言いましたが私の一存で持ってきました」
「何も残さないか……彼女らしいな」
孟徳は淡く笑むと、覆いとなっている絹に手をかけてとった。
表れた鮮やかな緋色は孟徳に馴染みの色で、特別な配合で染めさせる孟徳の衣の色だ。
似たような色はあれど、本当に同じ色を出せる職人はいないし、もちろん秘事としてこの緋色を他に漏らすことは禁じている。
だからこの色は孟徳の赤であり、忘れようはずはない、孟徳が細かく職人に指示を出して作らせた孔明のための華やかな正装だった。
そしてほとんど香に紛れてわからないが、戦場では良く嗅ぐ鉄臭い香りに孟徳は僅かに眉を寄せ、それを手に取った。
赤い衣だからわかりにくいが、僅かに染みのように変色した痕を見つけて思わず口元を引き結んだ。
「孔明はこれを死装束に選んだのか……傷を負っていれば確かにこれは血が隠せる」
どんな理由で選んだのか、なぜ戦場に持って行ったのか問い質したくとも、すでにそれを問うべき人はもうこの世に存在しない。
孟徳はぎゅっとその血に染まった部分を握りしめるが、口調も表情も傍からは変わらない。
「血ならば、孔明殿が好んで着ていらした黒い装束でも隠れます。あの方はご自身の意思で、それを身に付けたのだと思います。そもそも女性であってもそのような、豪奢な花嫁衣装のような衣を戦場へ持って行かれる方ではないのでしょう」
「亮」
嗜めるように雲長が呼ぶけれど、涼は控えたまま視線だけは真っ直ぐに孟徳を見ていた。
その静謐な漆黒の瞳は、年若いくせに強靭な精神力と強かさを感じさせる。
そうここにいるのは、花の魂と交感し、朧ながらも記憶を受け継いだ男だった。
たぶんこの生が終われば、亮自身はまた諸葛孔明へ立ち返り、今ある記憶の全てを失くしてしまうのだろうと感じていた。
だからこそ、今言うべきことは不敬であろうとも言っておきたかった。
「お前は見ない顔だな」
「山田亮と申します」
孔明より更に、三つか四つ年下に見える青年は恐れる風もなく孟徳の視線を受け止める。
けれどその瞳が、出会ったばかりの、あの捕虜としての初めて相見えた孔明と重なる気がして、孟徳は思わず面白いものを見つけた時のわくわくした気持ちと、それから胸を突かれるような胸苦しさ覚える。
「変わった名だ」
「異国から参りました」
雲長は思わず緊張した面持ちで二人の会話の様子を見守っていた。
亮のたっての頼みで連れてきた経緯があるが、この二人の組み合わせは心臓に悪い。
ただ雲長自身も、この二人を引合すことが必要だったと感じていたのも事実だ。
「異国から?」
「はい。遥か遠い異国から」
「亮。お前は何故この場にいて、孔明のことを知っているように話す?」
「あの方とボクには分かち難き絆がございます」
ヒヤリとその場の空気が色を変えたのがわかった。
「ぬけぬけと面白い事を言う。俺が孔明とどういう仲だったか知っていてそれを言うのか?」
「ボクは彼女の弟子です。幼かったボクに、戦と言うものの無意味さを教えてくれ、ある意味身を犠牲にして戦のない世界を見せてくれました」
亮は山田と言う家に育ち、弟がいて、戦などない、食べ物に困ることもない、信じられないくらいに豊かな世界で、本来花が甘受すべきものを一身に受けて育った。
それでもどこかへ戻らなければという焦燥は亮を突き動かし、ここで花が死すべき時にやっと自分の成すべきことを思い出した。
それはつまり、あの無垢な魂を持った少女を、豊かで平和なあの満ちた世界に帰すと言う絶対の願い。
「彼女はお前の為に命を落としたと言うか?他でもなくお前のために」
孟徳は身を犠牲にと言う言葉で意味を取り違えていたが、亮はそれを否定しようとは思わなかった。
「此度の戦、ボクは周公瑾と共に敵対する陣営にいました。仲謀軍の策を献じたのは公瑾殿ではなくこのボクです」
その時、ここ数年凪いだままだった何かが爆発するように一瞬孟徳の中を駆け抜けた。
目にもとまらぬような速さで、腰の剣を抜き放つ。
前線に出て実際に剣を振うことはほとんどないが、孟徳の剣の腕は短い時間ながらもほぼ毎日の鍛錬のお蔭で衰えてはいない。
そしてその剣技は、歴戦の武将にも引けをとるものではない。
空気を読んだが、距離をとっていたために元譲は間に合わず、鞘ばしる音に重なるように元譲の鋭い声が飛んだ。
「孟徳!よせ」
だが孟徳は本気で斬るつもりだった。
たぶん元譲であっても避けるのは難しく、また油断していたわけでもないが雲長の行動も一拍遅れたのは事実だ。
がつっとどこか鈍い音が響き渡り、その場にいる者四人は誰もが信じられないものを見た。
亮の手には、孟徳が孔明に贈った守り刀の朱影が鞘のまま握られていた。
いや両端を必死で支え持ち、振り下ろされた孟徳の剣を鞘ごと辛うじて、寸での差で受け止めていたのだ。
「あぶなっ……死ぬかと思いましたよ」
それでも亮があまりに緊張感なく言うものだから、孟徳は剣を引いて冷やかに応じる。
「殺すつもりだったから当然だ」
あの一瞬の感情の爆発は、孟徳の中から驚くほど急速に醒めていった。
「お前がなぜそれを持っている?」
「遺言です。ああ見事な拵えだったのに、疵がついてしまった」
「遺言?孔明がお前に残したのか?」
「正確にはボクにじゃありません。自分の後に玄徳様に仕える軍師に、これを曹孟徳殿に直接目通り願って返却せよと言うのが遺言でした」
謎かけのような孔明の残した言葉を聞き、孟徳は無言で亮を見て、見返す黒々とした静謐な瞳に抜身の剣をやっと腰に戻した。
この亮という男の言葉に嘘はないが、また真実だとすれば現実に齟齬が生じてくる。
子供の頃に孔明と出会ったことなど有り得ようはずはないが、嘘ではないのだ。
まるで孔明に感じていた違和と一緒だと、孟徳は苦く心なかで疼く傷に気付く。
孔明が自分の後に事後を託す相手が、自分の命を奪うことになった者と知っていたのだろうか?
出会いの最初に問うた時、孔明は未来など示せない、先など見通せぬと言った。
それでも目の前の歳若い男は、どこか孔明と似通った雰囲気を持っていて同じことを問うてみたくなる。
「疵がいってしまいまいたが、お受け取りください」
亮が差し出す守り刀に、孟徳はそっと手を伸ばした。
何も残さず、与えたものさえ孟徳に返して、全てを片付けて手の届かぬ場所へ見事に去って行ったかの娘に、まったくらしいと思う。
「今、本気で斬り殺そうとした者に良くも涼しい顔で刀を差し出せるな」
「丞相の先程の行為でわかりました。一度失すれば二度はなさらぬと」
「若いのに嫌な奴だ」
孔明が事後を託し、そして孟徳の守り刀で守った男。
これほど腹立たしい存在もないが、孟徳は我ながらぬるいと思いながらも二度斬りかかるつもりはなかった。
「戦場で会えば別だがな」
そして孟徳は話は終わりとばかりに背を向け、無意識に帯飾りに手を触れる。
帯飾りは最高級の深い翠の玉だったけれど、そこから揺れる飾り紐は濃い栗色で、小さな玻璃の玉がその間にきれいに編み込まれている。
「丞相」
不敬にもその背に亮は声をかけた。
「あなた様に最上の感謝を捧げます」
あの孤独な魂に寄り添って、恋と女の子であった花の心を思い出させたのは紛れもなくこの男であり、この炎のような先ほどの情熱だった。
決して醒めているわけでも、眠っているわけでもなく、たたひたすらに抑え込まれているのだ。
膝をつき、腰を落として、深々と最高の拱手をもって背中に礼を尽くす。
けれど孟徳は振り向くことなく、もう意識にさえ登らせないと言うように僅かばかりも変わらぬ態度で控えた雲長に視線をやる。
「花……は失われたんだな」
花に込められた意味に雲長は瞑目し、ごく浅く頷く。
「大儀だった」
労いの言葉が会見の終わりの合図で、雲長も亮も礼をしてゆるゆる下がっていく。
「孟徳」
「先に行け。すぐに戻る」
かけられた元譲の声にも振り向かず、孟徳はただ東屋に孔明の遺品と共に残った。



<後書き>
花孔明次回が本当の最終話です^^
なのですいません><

『花闇月』連の章二(孟徳×花孔明)

2011-08-16 22:20:07 | ×花孔明
<前書き>
さて花孔明ですが、もうそろそろ終盤ですね。
軍師って辛い職業だなとつらつら思ってました。
そして今回どこで切ろうかと思いつつ、長いところで区切ったのでまた長いです。(苦笑)
読み疲れないといいんですがとこっそり思ってます。
それからネタ的に欝な展開と言うかアレなので、苦手な方は回避してください。
では、続きからどうぞ。




『花闇月』連の章二(孟徳×花孔明)(もしも設定なので深く突っ込まないように…笑)

周公瑾が玄徳軍に侵入させていたのは、王将軍が斬り捨てた男だけではなかった。
だから諸葛孔明死すの噂は、瞬く間に玄徳陣営から敵軍である仲謀軍へ驚愕と大きな期待を伴って広がって行った。
「あなたの策は悪くはなかったようですが、少々かの将軍の気質を見誤りましたね」
公瑾は目の前の少々変わった装束の青年に、冷めた視線のまま告げる。
今ここに、孔明がいたならばその青年の姿を奇妙とは思わなかったろう。
ジーンズにチェックのシャツ、ラフなジャケットにスニーカー、無造作な黒い短髪、元の世界では当たり前に見かけた大学生くらいの青年は、孔明が、いや山田花がかつて持っていた本を手に苦笑する。
「そうみたいだね。やっぱり本の通りに進むものでもないんだ。ちょっと思惑とは違ったけど、勝ち戦には変わりないだろう?」
「ですが、諸葛孔明を失った」
「それは悪かったと思う。でも敵の軍師にかわりはない」
さして問題はないだろうと言う男に、公瑾はため息をつく。
「あれほどの賢人は、そうそう得られるものではありません。できうるならば、取り込んで飼い慣らした方が我が孫呉のためには有意義でした」
「ふ~ん、やっぱ色々違うものだよね」
「何がですか?」
聞き咎めた公瑾に、男は余裕の不可思議な笑みを浮かべた。
「ボクが知ってるというか考えてた、周瑜つまり周公瑾は史実でも諸葛孔明を疎ましく思ってた感じだ。もちろん演義は誇張だろうけれど、この現実では意外に惜しむ気持ちは本気だよね」
公瑾は僅かばかりも表情を動かさなかったが、少しばかりこの男を侮っていたかもしれないと考え直す。
策だけではなく、思ったより心の機微を読むらしい。
実際、公瑾の胸の裡や頭の中を、僅かでも察することのできるものはごく少数だ。
公瑾から反応がないのを気にした様子はなく、更に男は言葉を続けた。
「そもそも孔明が若い女って言うのが、詐欺と言うか、意外過ぎだしね」
「確かに名前だけ聞けば誰もが男と思いますね。私も最初は驚きました」
「だからこそ、あなたは余計に惜しいんじゃないの?」
暗に女として興味を持っていたのではないか、惚れていたのではないのかと匂わされ、公瑾は否定も肯定もせずにただ微笑んだ。
「まあ孟徳殿に意趣返しをしたいと思わなかったとは言いません。その機会は永遠に失われましたが」
青年は公瑾の秀麗な顔を見つめ、小さく肩をすくめた。
「あなたにそれほどまでに言わせる軍師か、会って見たかったな。やっぱり確かに惜しかったかもしれない」
自分の策に失敗があったことを認め、青年は卓に置いた本の表紙をそっと撫ぜた。
その時、兵がすごい勢いで走り込んできた。
「ご報告申し上げます。東南の丘の向こうに敵部隊が現れました。その数およそ三千!」
「玄徳軍?」
青年は思わず立ち上がり少しの驚きを持って尋ねるが、公瑾は表情一つ変えない。
「はい。軍旗は劉」
「孔明殿はどうやら死しても我らを楽に勝たせてくれるつもりはないようですね」
言葉には余裕を持たせたが、公瑾は実際のところ舌打ちしたかった。
いまだ三千の兵を隠し持っていたとは予想外だ。
これでまた、勝敗の行方は分からなくなってきた。
敵の将である軍師諸葛孔明の突然の死に、沸き立ち、勝ち戦を確信していた仲謀軍だからこそ再び現れた敵の軍勢の姿を見た衝撃は大きい。
どこまでこちらの動きを見越していたのかと、歯噛みする思いだ。
いつもしてやったつもりでも、別の場所では密かにやり返されている場面は度々あった。
今回は正面衝突となった戦だが、このままでは勝利とは言い難く痛み分けに持ち込まれそうだが、まだこちらに分はある。
誰が軍を率いているか知らないが、玄徳軍において軍師の、諸葛孔明の果たす役割は大きい。
「さて予想外でしたね」
物憂く言う公瑾に、男も肩をすくめると本を大事そうにしまった。
「確かに孔明と言うのは凄いなぁ。史実か、それ以上か」
公瑾は年の割には落ち着いて、得体のしれない男を胡乱気に眺めた。
この若い男が武将の一人に連れて来られて、公瑾や仲謀の前で今後の呉の、この情勢での他軍の展望を語って聞かせたのはそんなに前でもない。
実際今まで男がこの本という書簡に頼って献じた策は、読みを間違えたことはない。
だからよもやあの諸葛孔明相手でも、ここまで手を打ってこられるとは思っていなかった。
本は確実に男と仲謀軍に間違いのない勝利をもたらしてきて、結果この大きなある意味天下分け目となる戦で、献策されたこの男の策は採用されたのだ。
公瑾にも男の策は隙がないように思われた。
容赦のない攻撃、そして大胆でありながら緻密な策略。
それはまさに諸葛孔明の策のように、ある意味天才的なひらめきと柔軟さを持っていた。
つい先ほどまでの高揚した気分はなく、公瑾は鎧を着ているとは思えぬ身軽な動作で立ち上がった。
「前線に出ます。来られますか?」
公瑾が質したのは、この軍師の男が全く武芸の心得がないからだ。
まあそれは軍師だからと言えば分らなくもないが、馬にも乗れぬと言うのは解せないし、異国から来たとは言ってはいるが風変わりな男であるには違いない。
「もちろん行くよ」
「馬は大丈夫ですか?」
「まあ何とか」
華麗に馬を操るまでにはいかなくても、何とかしがみついて落とされることはなくなった。
そして二人が、自軍を取りまとめて兵を動かし始めたその時、事は起きた。
鬨の声が上がる!
崖の上、稜線に添って翻る白い軍旗。
強い風に、悠々とはためくその文字は諸葛。
「諸葛の軍旗。大将旗があるってことは、まさか孔明がいるってこと?それはびっくりだ」
孔明は死んだはずと男が驚きながらも、どこか楽しそうに言う。
「新手ですか。全くもって忌々しい女(ひと)ですね」
「本当に孔明は死んだのかな?だんだん疑わしい気持ちになってくるよね」
「さあ?どちらにしろ、生き残りたくばこの戦場を抜けるしか手はありません」
確かに死んだと報告は受けたが、あの孔明のことだから身代わりや囮を立てていても驚きはしない。
孔明死すの報に、いささか踊らされ過ぎたかと公瑾は馬首を巡らせた。
先ほどまでぶつかりあうつもりだったが、真実孔明がそこにいるのならば話は別だ。
傍らの青年に視線で問えば、青年も即座に頷いた。
そして開口一番、その冷徹な眼差しを揺るがしもせずに号令をかける。
「全軍!一時撤退!」
号令が伝わるごとに、仲謀軍の孫の黒く染め抜かれた軍旗が揺れ、呼応する声が起こった。
都督である公瑾の周の大将旗が一旦下げられる。
これが退却の合図で、一斉に仲謀軍が撤退に合わせて動き出す。
駆け抜ける公瑾と青年の周りには、公瑾の部下の精鋭部隊が護衛のように囲んでいた。
澄みきった空に、白く土煙が上がる。
二人が崖の下抜けようとしたその時、少し先の崖に傘がついた輿が置かれているのが見えた。
もちろん無人などではなく、その輿の上には一つの小柄な人影と長身の髪をなびかせたすらっとした武将関雲長の姿が見えた。
口元を隠す白い羽扇、優雅に風に流れる薄絹、そして戦場にいるとは思えない壮麗な鳥の意匠の緋色の衣は、まるで曹孟徳を模しているように見えた。
それともかの男の庇護があると、誇示しているのだろうか?
「目障りな」
珍しく吐き捨てるように言う公瑾の呟きは、果たして孔明に向けられたのか、それとも孟徳にかはわからぬが、その澄んだ鋭い青灰色の瞳を一瞬眩しげに眇める。
その時輿の上にいる孔明は公瑾に向かって、優雅に舞うように羽扇を緩やかに動かした。
一指し舞ったと言うようなその動きに、公瑾はきつく奥歯を噛みしめる。
そして孔明は公瑾の隣に馬を並べる青年に視線をやって、予想を上回る衝撃を受けていた。
その場にいる青年の姿に視線を奪われる。
砂塵の舞い上がるその場で、青年の恰好は花には馴染み深く、そしてすでに遥か遠く忘れ去った記憶を呼び起こすほどに鮮烈だった。
それでもあの本を持った人物がいることは、星読みですでに予想はしていた。
だからその格好に衝撃を受けたわけではない。
強烈な既視感。
立ち姿は朧だけれど、ただ変わらないものはある。
距離はあるのに見間違いようのない黒く輝く深淵を秘めた静かな水面の瞳が、はっきりと合わさったのがわかった。
「……師匠……」
まるで少女のように頼りない声が、もう二度と呼ぶことのなかった呼称を呟いた。
同時に青年が、自分の知る史実とは違う女性の諸葛孔明の鮮やかな姿に感嘆のため息を漏らす。
切り立った崖の上、声さえ届くはずがないのに高くもなく低くもない声が届いたような気がした。
昔、誰かが呼んだのだ。
その声はもう耳に蘇っては来なかったけれど、青年は自分がここに来た意味を知ったように思った。
名付けられた名前は亮で、後で知ったことだがそれはかの諸葛孔明の名で、三国志など全く知らなかった親が偶然に命名したものだった。
それでも三国志に惹かれ、中でも軍師たちに、諸葛孔明に興味を持ち、詳細に調べた。
また知ると言うこと、知識欲は強く、実のところ本などなくても今は正しい情報さえ得られれば策をたてることはできた。
今ここに立てば、そしてあの諸葛孔明を見たときに自分の成すべきことがわかったと思う。
「死せる孔明生ける周瑜を走らすか……まあまだ孔明は存命みたいだけれどね」
青年亮の中に、自分より少しだけ年上の娘の緋色の姿と、遠かった筈なのにその虹彩の明るい瞳に、自分の姿がはっきり囚われたのがわかる。
「亮殿」
公瑾に呼ばれ、青年は手を上げた。
ここに来たのは、たぶん戻って来なければならなかった必然があった。
枷を嵌められ、捉えられた彼女を救う必要があったのだ。
定められた一瞬の邂逅、この瞬間のためにここにいるのだと亮もまた悟る。
「ボクは間に合ったのかな……」
亮は公瑾の馬の後を追いかけるべく、馬の腹を軽く蹴った。
そして、その時ふと懐の本を少しだけひっぱり出してみる。
予想したように本の表紙は確かに色を変えており、ここに連れ来られた時と同様に光が不意に溢れだした。
やっぱり間違ってはいなかった。
亮は目を閉じ、心を決めて静かにその光に身を任せる。
花は緋色の衣を重いと感じながらも、心は不思議と軽くなるのを感じていた。
こんな華やかな衣に袖を通したのは、いったいいつ以来だったかと思う。
そういえば、こちらではこんな鮮やかな緋色や赤は婚礼の色であり、曹孟徳の色だ。
厳密ではないけれど、誰もが纏えぬ貴色。
まるで孟徳に抱かれているようだと思い、孔明は少しだけ微笑む。
まだそんな少女のような、淡い夢見る気持ちがこの心にも残っていた。
それとも今だから思い出すのか。
今回の終わりはいつもと違うのだろうか。
役目は真っ当できたのか。
どこへ巡り帰るのだろう。
「雲長さん」
ぐらりと傾いた孔明の身体を、雲長はそれと分からぬように支えた。
緋色の豪奢な衣越しに、濡れた感触と失われゆく熱が手に伝わる。
そして呼びかけられた呼称は、普段の孔明ならば絶対に使わぬものだ。
「花」
花は頷くと気力を振り絞り、今は去りつつある一人の青年の背中を示した。
「戻って来てくれたみたいです」
その短い言葉で、雲長は今この状況を悟り、苦笑を漏らす。
嬉しいと同時に寂しいと感じるのは、ただ一人またこの時を巡る時間を思ってかも知れない。
「この次は」
「この次はない。そう信じろ」
孔明の、いや花の瞳が痛ましげに残していくただ一人の分かち難き友へと向けられる。
彼がいてくれて、どれほどこの時間の檻の中で救われただろうか。
「伝えるべき言葉はあるか?」
誰にとは問われなかったが、花がただその瞼に思い浮かべたのは華やかで孤高の陰をただ一人背負って立ち続けるかの人。
玄徳にも、他の仲間にも、もう残すべき言葉もなく、無心に全てを捧げ、成すべきことをした思いがあり、後悔はない。
事後はすでに託してあるし、何よりあの高潔な魂が戻って来てくれた。
だから花がただ想いをかけるのは、何も与えなかったかの男だけだ。
忠義も身も心も、全て孔明として、玄徳と蜀に捧げた。
ただ儚い恋心だけは、青く固い少女の頃の花のままに孟徳に捧げた。
決して言葉にはしなかった想いを、孟徳はどう感じていたのだろうか?
けれど花はただ首を振る。
今更言葉で孟徳を繋ぎとめることは無意味だし、自分勝手過ぎると言うものだろう。
それに彼は何者も、言葉も、想いも、信じることを置いて来た人だ。
愛することは知っているのに、信じることは決してない人。
二世の誓いどころか、今世さえ何も誓わず残さず、花はただその心のままに胸に孟徳へのゆるぎない想いを抱えて逝く。
雲長は、傍らにあるただ一人の魂の盟友である花に果てなき未来の終わりを祈り、万感の願いを込めて短く告げる。
「望む世に行けばいい」

光が交差する。
「花」
「師匠」
「戻ってくるのが遅くなってごめんね」
「私は……師匠の名を辱めることがなかったですか?」
「十分だよ。ありがとう。頑張ったね」
「じゃあ、もう名前は返していいんですね」
「いいよ。君は、自分に戻りな。誰でもない、山田花という自分に」
「はい」
まるで弟子の頃のように、素直な返事が返される。
数瞬の邂逅に、魂が震えるような交感が行われる。
それは嫌な感情ではなく、互いの記憶の一部を、想いを知る神聖な儀式だった。
ここに世の理の一部が動いたことを知る者は、あの不可思議な本である九天九地盤を知る者たちだけだ。

そしてこの日、玄徳軍の伏龍諸葛孔明死すの報は、早馬の伝令によって各々の場所へ急使となって瞬く間に漢の大陸にあまねく知れ渡った。

昼下がり、元譲が急使となった部下を伴って孟徳の執務室に現れた。
「孟徳、急使だ」
「荊州の結果がもう出たのか?」
早いなと呟くが、孟徳はさほど驚いてはいなかった。
書簡から目を離すことなく、筆を走らせながら報告を受ける。
周公瑾と諸葛孔明の軍師合戦、おそらくどう転ぶにしても決着は早いとは思っていた。
兵力は互角、孟徳は玄徳軍へも兵を動かす素振りを見せてはいたが、同様に仲謀軍に近い砦にも部隊を動かしておいた。
漁夫の利、手薄なら動かす方策も持っての布陣だったが、あの二人が直接出ているならそれは甘いだろう。
よほどどちらかが総崩れしない限りあり得ないことだ。
「どうなった?」
「玄徳軍の勝利だ」
「孔明の策が公瑾を上回ったということか」
言って顔を上げ、元譲の顔が微妙なことに気付いてそっと筆をおく。
「他に何かあるのか?」
「諸葛孔明が死んだとの知らせだ」
元譲の端的な報告に、一瞬孟徳は虚を突かれた表情をする。
孟徳はある意味表情が豊かだが、それは装われたもので計算し尽くされて面に出している丞相の顔だ。
だからこんな本当に無防備な素の表情を、第一の側近の元譲さえここ何年も見たことはなかった。
もしかしたらあの裏切りのあった誓いの場以来かもと思う。
「星はおちたのか」
一瞬だけ、孟徳は今は見えはしない、真昼の明るい空へ視線を投げる。
そして次に孟徳の表情に現れたのは、一切の個人的な感情をそぎ落とした完璧なまでの丞相としての冷徹な為政者としての顔だった。
「非常呼集をかけろ。半刻後に軍議を行う。それまでは誰も入れるな」
孟徳は命を下すと、席を立ち元譲に背を向けて窓辺に立った。
その何者も寄せ付けぬ背中に、元譲はかける言葉もなくその場を辞した。
背中で扉の閉まる音を聞きながら、孟徳はどこか現実感なく知らせを受け止めていた。
たぶんいつも一緒にいたわけではないから、こうも死の知らせが遠く感じるのだろうか。
彼女も軍師だったのだから、こういうこともあるだろうとは考えてはいた。
「先に逝くなんて狡いな。孔明」
不思議と涙は出なかった。
と言うか、涙などここ何年も流した記憶などない。
あれほど愛していると思っていた娘の死にすら、涙の出ない自分を醒めて自覚する。
やがてどのくらいそうしていたのか、扉を叩く音に我に返った。
「孟徳!軍議の時間だ。皆集まっているぞ」
元譲の呼ぶ声に、いつの間にそんなに時間が過ぎたのかと孟徳は驚く。
無言で出てきた孟徳の姿に、元譲はその顔を見て安心とも落胆ともつかぬものを感じた。
常と変らぬ表情、そしてそのどこにも憂いも悲嘆も涙のあとすら見えない。
あの稀代の軍師諸葛孔明は孟徳の特別かと思ったが、それが幻想だったことに密やかな痛みを覚える。
どこまでもやはりこの男は一人なのだと思う心で、同時にただ一つの特別だったのなら失えば取り返しがつかなかっただろうと安堵もする。
軍議の場は、玄徳軍の軍師諸葛孔明の死を得て騒然とし、丞相曹孟徳は最愛の女の死を飲み込んで悠然とその場を仕切った。



<後書き>
と言うことで、やっと本当の終わりにやってきつつあります。
今回はなんかオールスターキャストですが、玄徳さんは前回一人で出てたので出番なし^^
そして、花ちゃんが星で読んだ方はこの方でした。
ありがちな伏線だったかなと思いつつ、楽しんでいただけたら嬉しいな。

『花闇月』連の章一(孟徳×花孔明)

2011-06-07 21:45:34 | ×花孔明
<前書き>
ん~ん、どうやら通常更新に戻ってまいりました。
小話とか言っておきながら、普通の話を書いてたせいか予定よりだいぶ企画が長くなりました。
まあそれもいいかと、いい加減な管理人は流しております(苦笑)
さて、再開第一作は花孔明となりました。
よろしくお願いします^^

『花闇月』連の章一(孟徳×花孔明)(もしも設定なので深く突っ込まないように…笑)

玄徳は手に書簡を持ったまま、孔明の執務室に向かっていた足を止めた。
自軍の軍師が、ぼんやりと回廊の欄干にもたれている。
結い上げた濃い栗色の髪、いつもの黒い文官の簡素な装束ながら、項の後れ毛が光をはじいて透け、酷くそそるような色香を醸し出している。
思わず玄徳は苦笑せざるを得なかった。
今まで孔明に男の欲と言う意味で女を感じた事はなかったが、その姿は儚げで艶やかな風情で、はっと息を呑むほどだ。
これが孟徳によってもたらされた変化と知れば、もう苦笑いするしかない。
「孔明」
声をかければ玄徳を振り向いた表情はいつもの飄々としたもので、さっきまでの物憂げな感じはなく、すっかり軍師の顔だ。
「玄徳様。いかがなさいました?」
「それは俺のセリフだ。用があってお前のところに向かっていたが、そんな風にぼんやりしているとは珍しいな」
「申し訳ありません」
頭を下げる孔明に、玄徳はよせと慌てて止めた。
「別に叱責しているわけじゃない。少し歩くか」
「お急ぎではないのですか?」
わざわざ玄徳が来るとなれば、それとなく急ぐ用件である事は察せられる。
「いや、単なる気分転換だ」
「御供いたします」
そこかしこにいる警備の兵は、二人の姿を黙って見送る。
成都は今落ち着きを見せていたが、つい先日荊州にて仲謀軍が兵を集めているとの一報があり、進軍のための準備を進めていた。
本当なら城の庭をゆっくり散策する暇などないが、この主従は互いの呼吸は心得ていた。
足が悪い孔明の歩みに合わせたゆっくりした歩みの玄徳の気遣いに、孔明はふと笑む。
「よほど言いにくいことですか?もしや私を辞めさせろと武将のうるさ方から進言がなされているのではありませんか?」
「あ~、まあ無くはないが、それが無理な事は皆もわかっている。お前なしには、情けない話しだがうちは立ち行かない。それに俺はお前が、公私を混同しない事はわかっている」
「そうとは言いきれませんよ」
孔明は隣を歩く玄徳を見ずに、どこか悪戯っぽく笑った。
「そうだな。俺はある意味、そっちの方が心配だ」
不意に固くなった玄徳の気配に、孔明は背の高い主の横顔を見上げた。
木々の葉の間から木漏れ日が揺れ、ちらちらと光りが踊っている。
その影になった時の玄徳の思わぬ表情の厳しさに、孔明は思わず立ち止まる。
玄徳は孔明へ向き直ると、少しためらいを見せた後で言葉を紡いだ。
「孔明、お前は孟徳を利用するために奴に、身を任せたのか?」
思いもかけないその言葉に、孔明は苦笑する。
「まさか。私がその様な女にみえますか?」
「すまない。お前がそんな気持ちで自分が女である事を利用するとは思ってないし、孟徳もそんな甘い男でない事は知っている。だが気になった」
正直な玄徳の言葉に、いつものように飄々とした表情で孔明は自分の顎に手を持って行き、困りましたねと呟く。
「こんなことで玄徳様の気持ちを煩わせるのは本意ではありません」
「俺だって、出過ぎているのは十分に承知している。そもそも人の色恋に口を出すほどばかばかしいことはないしな」
そこまでわかっていながら、口にせざるを得ない玄徳の心情に本心で花は申し訳ないと思う。
もともと玄徳は無造作に人との距離を詰めるように見えるが、決して立ち入り過ぎる事はない。
相手の触れて欲しくない感情の部分には、許可が与えられなければ踏み込むようなマネはしない誠実さと、同時にそれを計る繊細さを持つ。
それなのに、それをわかっていながら口にしたという事は、孔明の知らぬところで各武将や有力者たちから色々と突き上げられているという意味だ。
それは予想できたことだった。
孔明と孟徳の関係が人々の前に昂然と晒されたあの日、始め人々はこれはすぐ終わる関係だと思っていた。
だが陣営を異にしながらも、二人は付かず離れず、依然として関係は続いていると放った間諜からもたらされる報告。
故に一過性のものとして捨て置くことも出来ず、二人の関係は少なからずどの陣営にも混乱と様々な憶測をもたらしているのは事実だった。
孫仲謀の陣営は孟徳軍と玄徳軍が手を結び、まずは邪魔な自分たちを排除するつもりではないかと疑い、孟徳の軍では丞相の物好きと静観しながら、裏で何らかの取引を孔明と言う女軍師と行っているのではと色々な憶測を呼んでいた。
そして孔明の属する玄徳軍においては、孔明が孟徳に懐柔されるのではないかと言うのが大きな危惧となっており、懐疑的な眼差しを向ける者は多かった。
もちろん孔明にもそんな噂は耳に届いているし、放っている間諜からもたらされるまでもなく、直接孔明に意見するものさえいた。
孔明は少し考えるように心もち顔を上に上げて、梢の間から覗く青く晴れ渡った空に、射し込む光に、眩しそうに目を細めた。
「玄徳様。本当にご心配には及びませんよ。諸葛孔明の忠誠は、決して二心なくあなた様に捧げられております。が、玄徳様に私に対するお疑いが少しでもあるのならば、このまま斬って捨てていただいても結構です」
淡々と穏やかな口調で、真っ直ぐ顔をあげて言う孔明に、玄徳はゆるく首を振った。
「斬るのがお嫌ならば、放逐していただいても構いません。現世において二君に仕える気持ちもございませんから、決して他陣営に降ることもありませんよ。例え曹孟徳から誘いがあったとしてもです」
悪戯っぽく笑みを唇に乗せているが、孔明の言葉に、その眼差しに嘘がなく真剣なことがわかる故に、更に玄徳は渋い顔になる。
「孔明、そう苛めてくれるな。ただ俺は心配なんだ」
「それは聞き捨てなりませんね。わが君の御心を悩ませているものとは何ですか?」
「お前の忠義を疑うことはない。が、お前があの男に本気であればあるほど、お前は辛くはないか?」
本気でこちらを慮る主の言葉に、その誠実な瞳に、孔明は苦笑する。
玄徳のことは仕えるべき主としても、人間としても好きだったし、たぶん淡い恋心も今はなくてもかつては持っていたこともあったと思う。
自惚れでなく、玄徳からの気持ちも感じることもあった。
それでも互いに求め合う心が、何かが決定的に足りていなかったのは事実だ。
それを踏み越えたのは曹孟徳だけであり、花を目覚めさせることができたのも彼だけだ。
「辛くはありませんよ。ただあの男が、曹孟徳が、わが君にとって仇敵であることは痛いほどにわかっています。だからその点だけは、心より申し訳なく思っています」
孟徳と玄徳の間には、たぶん絶対に分かり合えない思想があり、想いがあり、彼らの目指す世界が重なり合うことは決してない。
今この時代、両雄は並び立つものではないのだ。
「彼と私のことならば、何ら斟酌されなくても結構です。もし曹孟徳の命をとる機会が戦場でありましたならば、私諸葛孔明はその好機は決して逃しはいたしません」
確かに孔明の言うように、二人の関係が公になった現在まで両陣営が直接に対峙した戦いは幾つかあったが、孔明の策が相手が孟徳だからと言って鈍ったことなどない。
最小の労力で、最大の効果を上げるべく、いついかなる時も諸葛孔明は玄徳のため、そして玄徳軍のために軍師としてそこに在った。
「孔明……」
「ただ、軍師でない私が密かに持つこの想いだけはどうかお許しください。決して諸葛孔明の忠義を揺るがすものではありませんから」
孔明は顔を伏せ、緩やかな動作で腰を折り、足の悪さを感じさせぬ優雅さで己が主の前に膝をついて拱手を捧げる。
「顔を上げてくれ」
玄徳の言葉に、けれど孔明は微動だにしない。
「面を上げよ」
再びの主の命に、それでも身じろぐことのない孔明に、玄徳は一歩距離を詰めると身をかがめそっとためらいがちに手を伸ばした。
深く俯いた孔明の頭に触れ、そのまま剣を握る無骨な掌を滑らせて柔らかな頬に触れ、その小さな頤に手をかけるとわずかに力を込めて上向かせる。
その透明感のある頬に涙のあとはなく、ただ頑なに長い睫は伏せられている。
出来るならば、軍師の諸葛孔明を手放すと玄徳自らが言ってやれれば、おそらくこの年若い賢人と呼ばれる娘は女としての幸せを願うことができるだろう。
孟徳もそれを望んでいるはずだ。
けれど玄徳には、どうしてもこの娘を、いや伏龍諸葛孔明を己の宿願のために手放すことができない自分を知っていた。
どんなにきれいごとを言おうと、ただ一人の娘に酷な犠牲を強いるしかとるべき道はない。
「許せ。孔明」
万感の想いを込めたその玄徳の一言は、正しく孔明の胸の中におちる。
孔明が震える睫を上げると、その澄んで理知的な双眸は真っ直ぐに静かに玄徳の確固たる瞳と重なった。
「明日、荊州に向けて発ちます」
ただ一人の主に、そっと告げた秘めたる孟徳への想いを胸に孔明は戦場へ行く。
玄徳は孔明の手を取って立たせると、まるで幼子にするように孔明の頭を抱えるようにして胸に抱き寄せた。
「無事に戻ってこい」
「わが君に必ずや勝利をお約束いたしましょう」
孔明は顔を上げると、清々しい口調で玄徳の手を押し抱き微笑んだ。
共に献帝を戴いた漢王朝の未来を信じた。
携えた信頼と主従の絆は綻ぶことなく明日へと続き、孔明はしっかりと巡る遠き先へ思いを馳せた。

はためく軍旗は孫と鮮やかに染め出されている。
孔明はこれを最後通告として、孫仲謀に、いや周公瑾に三分の計を認めさせるつもりだった。
周公瑾は孔明の示した三分の計に一見応じたように見せてはいても、のらりくらりと言を左右にして、決して首を縦には振らないし、仲謀にも振らせない。
彼の野望は、ある意味死者との情が絡む分曹孟徳より厄介だ。
たぶん長い和平とはならないかもしれないが、せめて二代続けば形もおのずと定まってくるだろう。
そのためには、二分など有り得ぬと玄徳軍の力をここではっきりと示し、付け入る隙のないことを見せつけておく必要があった。
完膚なきまでに力を示し、同等かそれ以上であると力を誇示する。
「孔明殿」
「いかがでしたか?」
「最前線の陣には周公瑾はおらぬようです。やはり東の砦ですかな」
「そうですか」
今回の主戦場は今、孔明が詰めているここだ。
ここより東には仲謀軍の砦があり、先に軍を進めてきたのは仲謀軍だから今回は守りの戦になる。
この戦に乗じるつもりか、北東には孟徳軍も砦から小規模の部隊が押し出してきているとすでに報告は受けていた。
荊州は互いの領地が入り組んでいるので、こんなことも孔明には予想済みだった。
孟徳軍の牽制のためには、翼徳の砦にわざとに兵を集めている。
あそこに兵が多くいる以上、孟徳軍は実際にはこちらに兵を出すことはできない。
もし出せば、空けた自分たちの砦が手薄になり逆に落とされる心配が出てくるからだ。
実際は翼徳のところに集めた兵は新兵が多く含まれるが、真実戦をするわけではないからそれで十分だった。
もし戦いになっても、城から出なければ鍛錬の足らない兵でも守るには十分だ。
「早朝、討って出ます」
「心得ました」
武将が下がり、孔明は軍議の場所として使っていた大きな陣幕から滑り出た。
夜空には数多の星が煌めいている。
生憎の月夜で星読みには適さないが、未来を知り、天候を読むには不可欠なことだ。
久方ぶりの戦場、最前線での空気に、気持ちが昂ぶっているのがわかる。
「戦が始まる」
何度も経験してきたけれど、この戦自体は初めての経験だった。
黒の装束に身を包み、孔明は自らの策を再び考え、検討する。
いつも見慣れた夜空、その天空の一角に見慣れぬ星が瞬いているのを見ながら、思わず苦笑が漏れた。
「本当に最悪の時期に現れてくれるのだから」
この見慣れぬ星の存在に、成都で気付いた時から流れが早くなったのは感じていた。
出逢わぬ運命かと思っていたけれど、それは星見から察するに最悪のタイミングで、最も悪い形での巡り合わせとなることを示している。
受けて立つ心の準備はできているけれど、孔明は気を抜けば震えそうになる指先をぎゅっと握り込んだ。
途絶えさせるわけにはいかないのだ。
この先に見える未来は、束の間の安寧をこの疲弊した大地にもたらし、人心を鎮める。
「龍を登らせる」
孔明は月の冴えた夜空に、自身の星を見つけて静かに瞑目した。

怒号が響き渡り、軍馬が大地を揺らし、砂埃が巻き上がる。
ほぼ最小な被害での大きな勝ち戦だった。
孔明はそれでも表情を緩めず、戦場を見渡せる少し離れた小高い丘の上から、羽扇を片手に冷静に状況を見極め、的確に指示を出していた。
「孔明殿。勝ち戦ですな。今回も貴殿の策、見事でございました」
いつも戦場では孔明の傍近くで後衛を担当する王将軍が、花の傍らに立って戦場を同じように見回している。
「こんなに楽とは思えないのですが」
「いかな根拠でそう申される?」
「相手はおそらく周公瑾殿一人ではないですからね」
「新しい軍師でも?間諜が何か知らせましたか?」
今朝方の短い軍議でも、孔明はそんなことなど一言も匂わせはしなかった。
ただ孔明が軍の諜報とは別に個人の力で独自の情報網を持っていることは、誰もが知っていた。
「いいえ」
孔明は短く否定すると、どこか悪戯めいた表情で天を指差しただけだ。
嘘か真か、軍師のほとんどは星読みをするが、それが眉唾まがいの戯言という者もいる。
けれど諸葛孔明の星読みは、曖昧さは少なく的確なことが多い。
そこへ一人の斥候の兵が馬で駆け込んできた。
「将軍、軍師殿、側面から回り込んでくる部隊があります」
「やはり楽には勝たせてくれないと言うことですね」
孔明が伸び上がるようにして右側面を見れば、まだはるか先の上空にかすかに砂煙が上がっているのが見えた。
「祭将軍の部隊を下げて、あちらへ対処しましょう」
孔明は即断すると、伝令へ告げる。
戦場では遠く見えた砂煙も瞬く間に近づき、敵の部隊よりは回り込むこちらの部隊の方が若干遅れて見えた。
「時間がかかってもいいので、山手から一部隊横をつく形で差し向けてください」
そうこうするうちに、救援部隊と孔明の指示する玄徳軍の先端が開かれた。
「孔明殿!お早く騎乗を!」
促され、孔明は王将軍と共に馬上の人となった。
拡大する戦場、孔明は力強く軍馬を操りながら、山の端近く戦場の一端を抜けていく。
近くではもう敵味方が入り乱れて、剣を交えていた。
「孔明殿、馬は一旦部下に預けて森を行かれた方がよい。足が悪い貴殿には辛いかもしれませんが、その方が安全です」
「そうですね」
言いながら、振り返った戦場に孔明は不安は抱いてはいなかった。
この戦場は仲謀軍に援軍が現れても、さほど追い込まれた状況ではない。
杖をつき、森の中へ足を踏み入れる。
この端を通りながら、二つの戦場の中間点であり、小規模な自分たちの砦へ抜ける心積もりだった。
「孔明殿」
「いかがしました?」
切迫した調子で名前を呼ばれ、初老の将軍を振り返れば彼はひどく青ざめた顔をしていた。
「死んでいただきたい」
ではこれこそが、今回の公瑾では考え付かぬ策かと、孔明は唇を噛むが、むざむざ殺されるつもりはなかった。
「仲謀軍から働き掛けがございましたか?私の首を手土産に寝返れと?」
王将軍は益州攻略の途中から玄徳の傘下になったが、それなりに忠義心の厚い武将で、玄徳の人柄と志に感服したから恭順したのだ。
だから裏切りが腑に落ちないまま問えば、将軍はゆるく首を振った。
「確かに働き掛けはござったが、それは貴殿を生きたまま渡せとの命。そうでしたな?」
王将軍が部下に問えば、その内の一人が進み出てきて「その通りです」と頷いた。
「ですが、わしは玄徳様を裏切るつもりなどない!」
言うなり剣は一閃し、孔明に向けられるはずだった剣はその部下の胸を斬りつけた。
男は思わぬ展開に驚愕の表情を残したまま、血しぶきを上げて重い音と共に地に崩れた。
それでも剣は鞘に戻されることなく、今度は血濡れたままの剣先が孔明に向けられた。
「裏切るつもりはなくとも、私を殺したいのですか?」
静かな孔明の問いに、王将軍はどこか恐れるような表情で孔明を見た。
「貴殿は危険な女人だ。恐ろしいまでの策を操りながら、曹孟徳を手に入れ、今度は玄徳様までその色香で惑わした」
「誤解です」
「誤解などであるものか!荊州出陣前日、貴殿と玄徳様が抱きあう現場を見たのだ!命惜しさにどんな言い訳を吐こうとも、口達者な軍師の言葉など耳に入らぬ」
「ではどうあっても信じていただけないと?」
「貴殿は曹孟徳と通じ、ついには徳高き玄徳様まで誑かした。それだけでも許しがたいが、貴殿は、いやお前は人間か?」
心底気味悪そうに王将軍から視線を向けられ、孔明は首を傾げる。
「いかがな意味ですか?」
「お前はさっき、敵軍に新たな軍師の出現を言ったな。わしは先ほどの男から聞かされて知っておったが、お前はなぜそれを知る?それは孟徳からの情報か?それとも孫仲謀とも通じているのか?もし噂通り先を見通すならばその妖しの能力といい幾人もの君主を手玉にとる様は、まるで殷の帝辛を誘惑して国を滅亡させた妲己が化生した九尾狐のようではないか」
「王将軍ともあろうお方がそんな迷信を信じられますか。もし信じると言われるならば、九尾狐は天界より遣わされた神獣であり、平安な世の中を迎える吉兆であり、幸福をもたらす象徴と言われる伝承を信じてくださいませんか」
孔明は一縷の望みをかけて真摯に言葉を告げた。
確かに九尾狐は絶世の美女に化けて君主を惑わす妖狐とも言われるが、同時に各王朝の様々な場面で天界より遣わされた神獣とも言われていた。
けれど王将軍は迷いを振り切るように激しく首を振って、断罪の言葉を宣告する。
「お前はその身が女であって曹孟徳と情を通じているが故に、信じることかなわぬ!」
すでに血を吸って曇った白刃が、天高く差し上げられた。
孔明はその刃を仰ぎ、その向こう梢の間に青く映る空の色を目に焼き付けると、胸元から取り出した白い羽扇を一閃させた。

<後書き>
あれれ?よく読んでみれば、いやよく読まなくても孟徳出てないや(苦笑)
玄徳さんのターンのようだった^^;
孔明の志、玄徳の想い、そして丞相たる孟徳。
白き羽扇は風雲急を告げて、どこまでもはやく時代を動かす。