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10月のショパン3

2017-10-18 16:18:39 | ピアノ教室
秋を通り越して、冬のように寒い日が続きました。

ただ今秋のステップ、コンクール準備や、11月の伴奏の仕事のリハーサルや練習、さらに来年1月のお話ピアノの準備で大忙しの毎日です💦

さて、ショパンのお話の続きです!

作曲のほとんどがピアノ曲でピアノの詩人と呼ばれているショパン。
お父さんはポーランドに帰化したフランス人、お母さんはポーランドの貴族の出身です。
ショパンがパリに向かう途中、ワルシャワ陥落の知らせに、革命のエチュードがうまれたと言われています。
パリでサンドに出会う頃は、既にショパンは名声を高めていたようです。

サンドは1822年にデュドヴァン男爵と結婚して、一男一女をもうけています。
1832年には「アンディアナ」を発表してベストセラーとなり、29歳で夫と別居し、2人の子供たちを連れて、パリへやってきます。
彼女は男装をして、社交界に出入りして、フェミニストとして、自由に多くの男性との恋愛を繰り返しました。


ショパンとサンドの出会いは、リストの愛人、マリー・ダグー伯爵夫人のサロンで、リストに紹介されます。
ズボンを履き、葉巻を吸う、男装の麗人を見て、ショパンはあれでも女か!と呆れます。

その後、故郷に残してきた恋人の父親から結婚を反対され、その恋がうまくいかなくなった失意のショパンとサンドは、1838年頃、恋人になったと言われています。

その年の夏の終わり、マジョルカ島に療養に出かけ、「24の前奏曲」を作曲し、半年後にはイタリアへ…
この旅で、ショパンの持病はさらに悪化して、1839年に、ノアンにあるサンドの館で静養します。
サンドの献身的な看病で、健康を取り戻し、ピアノソナタ第2番変ロ短調を完成、これ以降、夏はノアンで過ごし、幻想曲、バラード第4番、英雄ポロネーズ、幻想ポロネーズ、舟歌など、多くの名曲を作曲しました。

ノアンのサンドの館には、ドラクロアやバルザックなど、著名人たちが出入りして、交流を深めていました。

さて、次回は2人の友人でもあった、ドラクロアの絵について。
ショパンとサンドの姿が描かれていたはずの絵が辿るその後について、書きたいと思います!

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