ピアノを弾こう🎹 国分寺市、小平市の《つぶらピアノ教室》

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10月のショパン4

2017-10-23 10:19:31 | ピアノ教室
10月にしては珍しい台風。
ここ、国分寺市は大雨や洪水など警報は解除されましたが、午前中の今はまだ風が強く吹いています。
引き続き、注意が必要ですね。

10月は、通常は秋晴れの爽やかな季節ですが、今年は雨が多いですね。

ショパンがマジョルカ島に静養に、逃避行に?行っていたのもこの頃、この地は冷たい雨が続く季節でした。

やっぱり暗く冷たい雨が続くと、少し気分も落ちますね。病を抱えていればなおのこと、ショパンの気持ち、少しはわかる気がしますね。

とはいえ、そういうことも含めて、雨だれのプレリュードなど数々の名曲が生まれ、大きな遺産を残してくれました。

さて、今日は少し視点を変えて、ショパンの絵について。

当時、サンドの館には、数々の芸術家が出入りし、交流を深めていました。
その中で、ドラクロアは2人の絵を描いています。

もともとサンドと親しかったドラクロア。
ショパンとはサンドの紹介で出会います。

ドラクロアは、北アフリカ訪問後、後々印象派に光と色彩表現において、多大な影響を与えることになる、
『アルジェの女たち』を1834年に発表します。
そしてその翌年、ショパン28歳、サンド34歳の2人を描いています。アップライトピアノを弾くショパンと、その横、少し後ろ側に座るサンド。
二重肖像画として、縦100×横150cmのキャンバスに描かれていました。
ドラクロアの死後、今は美術館になっている、ドラクロアのアトリエ兼住居に、置かれたまま発見されました。
その後、1863〜73年頃に、絵は2人別々に切り分けられ、ショパンの部分はルーブル美術館に、サンドの部分は、競売でデンマークの実業家に買い取られたといいます。今はコペンハーゲンから30分ほどの距離にあるオードルップゴー美術館にあるそうです。

その後、ルーブル美術館に残されたドラクロアのデッサンから、一枚の作品であったことが判明。

なぜ、画家が描いた絵を切り分けて売られたのか?

商品価値がその方が高かったから?など様々な憶測の飛び交う、謎多き絵画…


ショパンとサンドは1847年、9年に及ぶ交際に終止符を打っています。
ショパンの父の死後、サンドや子どもたち、家庭内のいざこざがもとで破局したと言われています。

その後、ショパンはイギリスに演奏旅行に旅立ち、帰国後、長旅で衰弱し、持病の結核も悪化して、姉に看取られ亡くなります。遺言により、モーツァルトのレクイエムが流れる中、マドレーヌ教会で葬儀が執り行われました。
39歳という若さで、この世を去ったショパン。
数々の名曲を残して…

本人の意向により、その心臓は、ポーランドに持ち帰られ、ワルシャワ聖十字架教会の柱の中に納められたそうです。
遺体はペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、今もなお、花の絶えることがありません。

ショパンのお葬式にサンドの姿はなかったようです。

一方サンドは、執筆に専念し30編もの劇、短編を含む70もの小説、26巻に及ぶ書簡集など、多数残し、フランス初の女流作家として、72年の生涯を全うしました。

彼女はノアンの館で静かな眠りにつき、こんな言葉を残しています。

『愛しなさい。人生で良いものはそれだけなのですから』



10月の雨、雨だれのプレリュード、ショパンとサンドのマジョルカ島でのひと時…

たくさん想いを馳せて、この曲をたっぷりと味わってみてくださいね。

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