前回を要約すると、多くの国では王や皇帝が世襲の元首(君主)として国を治めていた。その体制(君主制)は、君主の権限を制限する立憲君主制や君主を廃する共和制に入れ替わり、20世紀には多くの国で国民主権が強化された。それでも、君主制またはそれと変わらない独裁的な政治が行われている国もある。これらの国々もいずれは、一部の国民ではなく最大多数の国民の利益に資する政体に変わるのであろう。・・・続く本稿では、派生事項の続きで、国とは何かを考えてみたい。
国の始まりは、自身や家族の安全と食糧確保のための集団であろう。集団の規模が拡大する中で、言語や文化、歴史や信仰が共有されつつ、内部の利益調整や外部との折衝のために統治構造が拡充されてきた。こうして、住民と領土の統治権、整備された統治体系、他国との外交権や自衛権をもつようになれば、それは国と言えるだろう。現在の世界には二百余りの国があり、ほとんど全ての地球上の土地はどこかの国の領土となった。つまり、原則として全ての人が国籍を持つようになった。
そもそも国の目的は国民の生命や財産を守ることであり、実際に国民は庇護と恩恵を国から受けている。しかし、統治機構の上位者が国民の命や財を搾取・私物化する、国民に不当な義務を課す、などの専横を働くことはよくある。また、生命や財産を守るはずの国同士の戦いは、敗戦国に不幸をもたらし、ひいては戦勝国の負担ともなる。これらの問題を克服するために、為政者の独裁や専制を抑制する制度が強化され、国同士の交渉や交流で武力衝突を回避する努力が進められている。
この対応を延長していけば、国を超えた国、即ち世界国家ができるのか・・その道は遠そうである。国と国民の間には、権利・義務のような理性的・契約的な関係と、親和・信用のような情緒的・文化的な関係がある。前者からは世界国家が理想的だろうが、後者ではそう簡単ではあるまい。情緒的な関係は国民の一体感を深めるが、逆にその一体感を他の国民が感得するのは容易ではない。情報通信や交通機関の発達で交流が進んでも、地球規模の一体感が生まれるにはまだ百年以上かかるだろう。
一体感を生み出す情緒的・文化的な関係とは、例えば外見、言語、生活慣習、社会常識等である。より深くは、超人的・超自然的な存在の直感である。この存在への確信や畏怖を宗教心とすれば、宗教心は国民の一体感を強化し、逆に他国民との間の溝となる。但し、祖先崇拝は広く人類に共通する宗教心である。だから、血統を正統性と恃む君主制が広く存続したのだろう。立憲君主制の国で政情が比較的安定なのも、祖先を象徴する権威の存在が為政者や国民を牽制しているからかもしれない。
言語や生活習慣に関する相互理解は、知的作業で可能であろう。しかし、より根源的な宗教心まで深く共感するのは難しい。宗教心が国民の一体感の要であれば、それは当然のことかもしれない。むしろ、宗教心もなければ君主もいない国の方が問題である。そのような国では、国民の間に一体感が乏しく、権力者は超越的な存在への畏怖の念もない。独善的に国民を力で支配して躊躇しない。不本意にも、こうして家畜に近い扱いを受けている人々が現代にもたくさんいる。(続く)