見出し画像

支流からの眺め

大津事件派生(1) 王と国体の関係を考える

 大津事件に関連して思いついた派生事項を取り上げる。まず、ニコライ皇帝が処刑され露の帝政が終わったことから、王や皇帝と国体との関係を考えてみたい。

 国の王とは、特定の人々(国民)と特定の地域(国土)を支配する者(国家主権者・元首)である。そもそもは、武力や気力の優れた者が富と治安を仕切って長となり、自らの神聖性を謳って正統性を担保したのであろう。皇帝とは、そのような王を複数支配下に置き、更に支配域を拡張しようとする、より野心的な国王である。そして国王は、その座を子孫に引き継がせようとする(王朝)。王の座がうまく世襲されれば君主と呼ばれ(君主制)、絶大な権力を掌握した場合は絶対君主となる。

 治められる国民の多くは、支配者が誰かより我が身の安全と生活の保障を重視する。権力に近い者は、その権力の継承を望む。支配者の血統は正統性として説得力があり、人々の崇拝の対象ともなりやすい。従って、王が国内の治安を維持し、飢餓や災害の苦難には慈悲深く、他国からの侵略を退け、更には国を富ませている限り、王の地位は安泰である。しかし、これらが満たされない時や、血統の正統性や支配制度の根拠に国民が疑念を抱いた時には、王の地位は危うくなり、王朝交代や政体変更を招く。

 君主制に替わる政体とは、国民の選任で元首を選ぶ体制(共和制)である。早くも紀元前のギリシャやローマ、中世でもベネチアやフィレンツェがこれを採用していた。この場合の元首の正統性は多数者の支持である(民主制)。但し、民主制と言っても、選任の方法、選任の公正性(選挙権の範囲、選挙人の独立性、不正防止の徹底さ)、代表者である元首の権力の大きさ(専制性の強さ)などによっては、独裁的にもなりえる。また、君主が民主制を尊重すれば、民主制の中で君主が存続することもできる。

 この観点で国を分類すると、①君主が名実ともに元首である国(君主制)、②君主の権限が(程度は様々だが)制限される国(立憲君主制)、③君主のいない国(共和制)になる。更に③は、政治形態が独裁的(A)か民主的(D)かで亜分類できる(②は独裁的になりにくいらしい)。①は北朝鮮、中東諸国、②は英、英連邦諸国、欧州諸国(西・蘭・北欧等)、日本、タイ、ブータン、③Aは露、中、③Dは米、仏、独、印が例である。①と③Aは全体主義・共産主義と、②と③Dは自由主義・資本主義と親和性が高い。

 君主制の変質(立憲君主制)や廃止(共和制)の過程はどうであったか。古くは英で、王(ジェームズ2世)を追放して新教徒の王(ウィリアム3世)を蘭から迎え、立憲君主制・議院内閣制を導入した(1688-9年、名誉革命:②)。米は独立の際に君主を置かず共和制を採用した(1776年、独立宣言:③D)。仏では、王(ルイ16世)を公開処刑して共和制に移行した(1789-93年、フランス革命:③D)。この変革の原動力は自由や人権を尊重する啓蒙主義であり、これらの国が自由主義を掲げるのは当然であろう。

 20世紀になると、百を超える国々で君主制が立憲君主制や共和制に移行した。移行の過程は、王の処刑から平和的な体制変更と様々である。露では皇帝が処刑され初の社会主義国(ソ連)が生まれた(1915-7年,ロシア革命:③A)。独国では、皇帝(ヴィルヘルム2世)が亡命し共和制(ヴァイマル共和政)が成立した(1918年、ドイツ革命:③D)。清では皇帝(宣統帝溥儀)が退位して中華民国となり(1912年、辛亥革命)、後に共産党独裁の中共国(1949年:③A)に替わった。

 概観すれば、「支配者と取り巻きだけの幸福」から「最大多数の国民の幸福」を重視するように国体が変遷してきたと見える。露皇帝の廃絶は歴史の必然であったいうことだろう。現代でも①の北朝鮮や③Aの露・中では管理強化や恐怖で国民を黙させ、①の中東諸国では宗教的な神聖性と石油資源の富で国民を満足させている。これらの国々にも、いずれ変化が訪れるに違いない。片や、多数を恃む③Dの政情は不安定化しやすい。権力とは別の権威が存在する立憲君主制の方が、国情の安定という点では望ましいようである。(続く)

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「世界の歴史」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事