
西大寺は称徳女帝の勅願寺で、創建時は壮大だった。後に衰退したのを中興したのが鎌倉時代の叡尊上人で、興法利生の理念のもと、厳格な戒律と貧民救済を実践した。上人(諡号は興正菩薩)の座像(善春作)は国宝で実に迫真的だ(サムネール)。仏像にはない生身の人間の慈愛と威厳を感じさせる。
次は東大寺。大仏様はさておき、戒壇堂へ。四天王像はいずれも強烈な個性だが、特に広目天(左端)は迫力ある。三月堂は建物が国宝で、堂内には三眼八臂の不空羂索観音(本尊)と十体の仏像群(金剛力士、四天王、梵天、帝釈天)がある。どれも国宝で8世紀初頭の天平彫刻の粋だ。


春日大社を抜けて新薬師寺へ。聖武天皇(光明皇后の説も)の病の平癒を祈願して創建された。本尊は薬師如来で、国宝。平安初期の作で、カヤの一木から木取りされている。光背の異国風の透かし彫りと見開いた優しい眼が印象的だ。周囲に立つ十二神将立像も、平家の焼き討ちを逃れた本堂も国宝だ。

薬師寺へ移動。開基は天武天皇で、皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して建立を発願した。本尊の薬師三尊像(日光、月光、薬師)は国宝で、白鳳期の作だ。鑑真ゆかりの唐招提寺は、金堂と講堂が国宝で、金堂は現存する唯一の奈良時代の金堂だ。共に平城宮の造営に伴って移築された。

あの巨大な東大寺の大仏を頂点として、これだけの仏教芸術を作り上げた情熱はどこから生まれたのか。その基盤は、教典の説く世界観とその具象たる仏像に対する信仰や畏敬の念だ。それだけ人心に不安が渦巻き、支配者層も仏教の権威を利用して威信を高めようとしたということだろう。
ヤマトは青山四周の美地だ。緩やかな丘陵地に囲まれた盆地で(嘗ては湖)、大風、洪水、地震などの天災も少ない。難波に対しては生駒・葛城山系の要害と大和川という航路がある。長期間(皇紀に従えば千年以上)都があったのも頷ける。往時の人々の心に思いを致しつつ厳冬の古都を後にした。(了)