見出し画像

支流からの眺め

共産主義(7):共産主義を反面教師とすると

 共産主義の理想(生産財の共有と配分の平等化)では、現実の社会が成り立たない。悪いことに、それらの理想を達成するために専制的な権力や暴力が正当化されている。社会は全体主義的になり、民衆は互いに不信感を抱き、言動の自由が失われ、行動を監視され、権力者を憎みつつも暴力に怯える。幹部は言うまでもなく、最高権力者にあっても、誣告され粛清されるという恐怖に晒され続ける。共産主義の国や社会には、物質的にも精神的にも幸せは永遠に訪れない。

 これを反面教師として、社会のあるべき姿を考えてみる。生産財の共有か私有を認めるかの争点では、生産性を考慮すれば私有を認めざるを得ない。また配分の平等化は現実的に困難で、強引に行えば経済発展を阻害する。結局、資本主義を受け入れざるを得ない。つまり、21世紀に「共産主義的」なものとして残りうるのは、専制や全体主義を特徴とする組織論と暴力の肯定である。これらが反面教師の悪例として排すべき対象なのである。

 専制や全体主義に対すは民主主義と自由主義であろう。しかし民主主義でも、ひと時の熱狂や憎悪が社会を席捲し多数派の賛意を獲得すれば、民主主義の名のもとで専制が可能となる(ナチス政権のように)。自由が昂ずれば家族や社会の絆が失われ、孤独社会、無関心社会となり、個人が分断される。平等に徹して差別撤廃・特権廃止を唱え、民衆の不満や嫉妬を煽れば、社会不安を掻き立てることができる。つまり、民主主義や自由・平等も専制や全体主義に回帰する危険がある。

 暴力の対語は非暴力だが、自衛のための暴力は主権として認めるべきであろう。問題とすべきは、民間人(非戦闘員)を対象とする手段を問わない暴力行為、即ちテロや暗殺である。これが最も「共産主義的」な暴力である。21世紀の今でも起こるテロや暗殺、そのテロリストの活動を支えているのは、宗教的怨念や積年の確執というより、共産主義の暴力革命思想である(イスラム社会にも共産主義は浸透している)。但し、そのテロと戦うために暴力を用いざるを得ないという点は、自己撞着である。

 以上から、共産主義を反面教師としてより良き社会を作ろうとすれば、組織論では民主主義と自由主義を採用し、暴力についてはテロを許さないという態度が、完璧とはいえないものの、それに近い方向となろう。但し、いずれもミイラ取りがミイラになる(共産主義社会と同じようになってしまう)可能性はある。民意を重視し、自由と平等を尊重しつつ、暴力を排除して、要は共産主義的にはならないように進む・・・これが可能のか。これを保守的自由主義と仮称して、次回に考えてみたい。(続く)

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「世界の歴史」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事