子どもと親の確執が生じ、子が親を憎悪するという状態になっている時、
子どもの感じ方を否定する親は多い。多いというか例外はないだろう。
子どもの感じ方を肯定するなら、親子の確執や憎悪など生まれないのだから。
自分はあの子の為に あれをしてやった これをしてやった と言い
自分がやっていることは正当で、あの子の感じ方、解釈の仕方がが歪んでいる、
恩知らずだとする親。
親子問題を専門に扱うベテランカウンセラーの女性も言っていたが、
親が悪い と私も思う。
生まれたその時から無条件に親のことを信じていて、大好きなのが、子どものありのまま
の状態。その海のように広くて深い親への愛、純粋さ、ひたむきさは、涙を誘いさえする。
その親からいくら傷つけられ苦しめられ踏みにじられても 菩薩様よりキリスト様より
寛大な心で 忍耐強く これを許し、包容し、親を庇い、親のふるまいをおかしいと
指摘する他人に反発し、親は悪くないと必死で擁護するのが 子ども。
子は親に扶養してもらわないといけないため、親がおかしいとは思考できないのである。
ひたむきな、かわいそうな子ども。子に愛情を注がない親を一途に庇い続ける子ども。
そんな、神より寛大な天使から深く憎悪されるに至るということは、それ程惨いことを
子にしてきたことの結果に他ならない。いくら親が「私は悪くなくて正当で、子の感じ方
がおかしい」と主張しても悪いのは親。もし本当に親が間違っていなかったら、
天使だった子どもに憎悪や殺意を抱かれることなどありはしない。
正しさを主張する親。
そう、正しさの主張こそが 毒親たる所以。
仮に一億歩譲って、正しければ 子どもの気持ちを 傷つけ 苦しめ 恥をかかせ
踏みにじってもいいのか。
そこにあるのは 子どもへの庇護欲求、保護欲求、愛情ではなく自分への執着、自己愛ではないか。
正しさ()を子どもの感受性や気持ちよりも優先させていいと思っていることが 「毒親」の所以。
庇護する者・される者という本来の親子の関係が逆転する。
子どもが親の庇護者になっていて、親は子どもを庇護していない。
また、仮に正しかったらと言ったが、実際正しくない。
いくらその親が実に理路整然とした言葉で正当性を主張したとしても、正しくない。
子どもの心が傷つき、苦しみ、血を流しているのだから正しくない。
私も子どもに、許されてきた。生まれた時から、親である自分への愛を感じた。
悟りきったようにこちらを見て、微笑みかけた。
赤ちゃんってとても聡明なのだとそのカウンセラー女性も言っていた。
潜在意識に常にアクセスしている状態らしい。