出石酒造は、1708年の創業で、老舗の蔵元です。
酒の別名である”笹の露”と、出石藩主である仙石公の別荘の名前の”楽々園”から、出石酒造の酒の名前の”楽々鶴(ささづる)”がきています。
これから、次の地図の黄色の線に沿ってウォーキングを続けます。
(今は地図の14番の酒蔵です。)
この酒蔵の前の通りを少し北へ歩いて、突き当たりのところを東の方を向くと「本高寺」の山門がありました。
境内に入って、見学させてもらいました。
本堂
庫裡
1706年に信濃上田藩主から出石藩主に移って来た”仙石政明”は、本高寺を仙石氏の菩提寺とします。
本高寺は、”江戸時代三代お家騒動”といわれた”仙石騒動”に関して処刑になった家老河野瀬兵衛の菩提も弔っていました。
本高寺から出て、西へ歩きます。
左側の赤い土壁の建物は出石酒造です。
少し西へ歩くと、出石史料館が見えて来ました。
この建物は、”旧福冨家住宅”です。
明治時代のこの地方の商家の風情を今に伝えるもので、中は高度な建築技術を駆使した贅沢なつくりになっているようです。
建物の正面に見える虫籠窓や格子戸が印象的です。
蔵では、出石藩主が使用していた甲冑をはじめ、出石藩ゆかりの調度品も展示されているようでした。
資料館の前の通りを西へ歩きます。
しばらく歩くと、右側に「西方寺」がありました。(地図の16番の地点)
本坊
この通りの西方寺のすぐ隣に石碑があります。(地図のH地点)
この石碑が何を言っているのかわかりませんが、興味をそそられました。
ここからさらに西へ歩きます。
”桂小五郎潜居跡”に向かっていました。
出石蕎麦の”よしむら”の手前にその潜居跡があります。(地図の17番の地点)
長州藩の桂小五郎は、禁門の変で朝敵として狙われることになります。
そして、但馬へ姿を隠しました。
8ヶ月間も潜伏したそうですが、但馬の出石・城崎をあちこち移動したようです。
ここから西方寺の方へ少し戻り、よつ角を右に曲がりました。
南へ歩いて、地図のI地点で、「辰鼓楼」の方を見た風景です。
(この通りを大手前通りと言います。)
手前左側の店は”いずし堂”です。
可愛い包みのかりんとうやおせんべいや豆菓子が売られています。
(この場所は、江戸時代に掲示板があった本町の札の辻です。)
手前の右側の店は”まめいも屋”
(手前になつかしい看板が見れます。あのボンカレーの女優さんは、確か松山…………。)
この通りの先には、辰鼓楼が見えます。
そろそろ、予定の時刻が来ました。
ここの出石のバス停から豊岡駅までもどり、今日の宿の城崎温泉まで行かなければなりません。
(バスの本数が少ないのでたいへんです。)
辰鼓楼へ南へ歩き、次の通りを右に曲がりました。
西へ急ぎ足で歩きます。
地図の J地点で、桂小五郎の関係の石碑を見つけました。
桂小五郎が出石で最初に隠れたところの、田結庄町の「角屋喜作」宅跡を示す石碑
ここから、急ぎ足で出石のバス停を目指しました。
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