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ウォーキングと旅行でのひとり言

ウォーキングと旅行の途中で頭に浮かんだことを書いてみました

姫路市網干 古い町並みを歩く その1

2019年08月31日 | 旅行
山陽電車で、白浜の宮駅から網干駅までやってきました。





ちょうど、正午を過ぎたぐらいです。





山陽電車の網干駅です。



午後は、この駅から網干の古い町並みを探して町を歩きたいと思いました。

黄色の線に沿って、番号順にウォーキングします。





駅前から、歩きながら、昼食が食べれるところを探します。

昼食に関しては、今まで、いい加減だったのですが、あることからきちんと食べなくてはいけないと思いました。


駅前から、ゆっくりと歩きます。

これから、この町で観光情報を得ようと考えていたので、地図とか持っていませんでした。


交差点で250号線を渡って、歩いていると、昭和風の中華料理店に出会います。





なにか、ピンときて、ここで昼食を食べました。

(昭和風の店構えと、”浜さき”という店の名前に…………。)


期待を裏切らず美味しい店でした。

頑固そうなオヤジが一人できりもりしている店で、なにからなにまで一人で経営されていました。

私は、ビールを飲んでチャーハンを食べました。



昼食を終え、最初の観光目的の「加藤家」を目指します。

(少しだけ、インターネットで網干で観光する場所を調べていました。)


中華料理店から約10分ぐらいで「加藤家」にやってきます。





加藤家は、江戸時代に一橋家その他天領から流下する年貢米の納収、保管、売却を行う蔵元で、廻船業を営んでいました。

屋号を成田屋と称したそうです。












この通りを挟んで向かい側に「船渡八幡宮」がありました。


境内に入ります。





御祭神は、猿田彦明神、神攻皇后、応神天皇、玉依姫命です。


網干の余子浜村の氏神様……。

”船渡”は神功皇后の故事により神楽岡、神楽江の伝説をいうが定かではないらしいです。








境内には、相撲の土俵がありました。

どういうふうに使われるのかわかりません?…………。



ここから、「あぼしまち交流館」に行きました。

観光の情報を得ることができます。








交流館の中に入ります。











観光情報、MAP、パンフレットをもらいました。

また、これから行こうと思っている「山本家住宅」の情報も仕入れます。

ちょうど、交流館で、講演会をしていて、ここの職員の方から、聞かないかと誘われたので、少しだけ話を聞きました。


”揖保川と網干 〜源流から河口をつなぐ物語〜 ” というテーマでした。


ゆっくり聞きたいのですが、「山本家住宅」を見学するという、ここに来た最大の目的があったので、おいとましました。


















姫路市妻鹿 黒田官兵衛ゆかりの地を歩く その3

2019年08月28日 | 旅行
国府山城跡(こうやまじょうせき)の一番高いところで、姫路の街を見下ろしながら休憩しています。





市川が流れ、そのはるか向こうが姫路の街だと思います。





この場所は、この絵図の本丸のところあたりだと想像しました。

(この絵図自体がイメージとのこと)


国府山城は、別名を妻鹿城、攻山城と言います。

官兵衛が自らの居城であった姫路城を秀吉に明け渡し、移り住んだ城と言われていました。

ここから、姫路城が見えるということは、見事なところに城を築いたと改めて驚きます。

また、この城は城郭の観点から見て砦のような小規模なものですが、優れたところが多くあったと思われました。

○たいへん堅困な要砦をなしているということ

○瀬戸内海を一望のもとに眺めることができる見晴らしの良い城であること

○市川、京口川を使って、姫路城の近くまで船で行くことができたこと

築城の名手の黒田官兵衛はこの城の築城から始まったと言われるほどです。



再び、城跡を歩きました。

これから、下りです。


また、また、廓跡……。





庭園廓





建物に庭園が付属していたのでしょうか?……。

石組みの跡があります。

建物が、まったくないのを想像しながら見学するのも、ある意味楽しいですね。


「磐座跡」にやってきました。





上のイメージの絵図にも名前が出ていました。

神様にお祈りした場所でしょうか?……。

磐座を調べると、”古神道における岩に対する信仰のこと”とあります。


曲輪跡





先ほどより大規模の磐座跡です。





これから本格的な下りです。

荒神社を目指して降りていきます。

(迷わずに行けるか、少し不安でした。)








なんとか、神社に戻ってこれました。





この場所で、再び、あの近所の男性とお会いします。

国府山城や黒田家に関するプリントやパンフレットをいただきました。

(なんと、親切な方でした。)



次の地図の黄色の線に沿って、番号順にウォーキングを再開します。





(今は③の荒神社にいます。)


ここから、次の観光ポイントの「妻鹿町資料館」を目指しました。


神社から出てきて、市川沿いの道に上がってきたところ……。





(この場所は地図のHのところから神社の方向を見た風景です。)


市川の川沿いに南へ歩きます。





しばらく歩いて、川沿いの道からそれ、左にに降りていきました。





以前に通った場所です。

(地図のB地点)


さらにしばらく歩いてこの場所に来ました。(地図のC地点)





この案内看板の右側の道で、山陽電車の線路下をくぐります。


ここから、地図の黄色の線に沿って、迷いながらですが、なんとか「妻鹿町資料館」にやってきました。

(荒神社から約30分経過)





この資料館には、「灘のけんか祭り」で使われる屋台や獅子舞などが収められているそうです。

(残念ながら、非公開です。)

屋台の高欄かけには、官兵衛と、二十四騎のひとりの母里太兵衛が刺繍で描かれています。



資料館の前の大きなお宅(地図のI地点)









近くに、「妻鹿の固寧倉(こねいそう)」がありました。





固寧倉は、酒井時代の姫路藩領内に設けられた、飢饉などの非常時に備えるために穀物を貯蔵するのを目的とした倉庫です。


なにか、お祭りの準備をしているのでしょうか?…………。







ここから次の観光ポイントの「浄照寺」に向かいました。


地図を見ながら歩いていますが、妻鹿町資料館からだいぶん離れているので、迷いながらです。


携帯のナビも使いながら、なんとか「浄照寺」に着きました。





官兵衛が松原神社に寄進した鐘楼が、浄照寺の境内に移設されているとのことです。





その鐘楼と思われます。











檀家の方がたくさん集まってお掃除されているみたいでした。


ここから、最後の観光ポイントの「松原八幡神社」を目指しました。


浄照寺の近くに、いい雰囲気の店を見つけました。





何故かロマンを感じる店でした。


この通りをひたすら東に歩きます。












しばらく歩いて、ようやく「松原八幡神社」が見えました。

(妻鹿町資料館から約40分かかりました。)








神社の境内に入ります。








灘のけんか祭りで有名な神社












境内から出てきました。






これで、”妻鹿の黒田官兵衛のゆかりの地” をめぐるウォーキングは終了です。


ここから、山陽電車の白浜の宮駅へ行き、網干駅に電車で行きます。




















姫路市妻鹿 黒田官兵衛ゆかりの地を歩く その2

2019年08月26日 | 旅行
元宮八幡神社の境内から出てきたところです。






次の地図の黄色の線に沿って番号順にウォーキングをします。





(今は②番の位置です。)

これから、次の目的地の「国府山城」に登る登山口の「荒神社」を目指します。

元宮八幡神社の前の通りで、行く先を見た風景です。





(左の大きな家は地図のFの位置)


この通りをしばらく西へ歩きました。



このすぐ先の四つ角を右に曲がります。





曲がったところの風景





ずっと向こうに見える山に「国府山城(こうやまじょう)」があリます。



しばらく歩いて、ここを左に曲がりました。





ここにも案内看板があります。(看板のある位置が地図のGの位置です。)

(この案内看板は、非常に助かりました。)


曲がって、歩いて行くと、「荒神社」につきます。








石段を上がって境内へ入ります。

「妻鹿城址(国府山城趾)」の石碑がありました。






その近くに、「荒神社」の石碑……。





ここの左の石段を上がって行くと、荒神社がありました。





神社に来ました。





この神社は、奥津彦命・奥津姫命を祀っています。


ちなみに、この境内にも「目薬の木」が植えてあります。

司馬遼太郎が書いた「播磨灘物語」で、黒田官兵衛の祖父の重隆が、山上の広峰神社で暮らしながら「目薬の木」を育てている場面が出てきます。

目薬の木から目薬を作り財を成したと記されていました。

(黒田官兵衛ゆかりの地のいろんな場所に目薬の木があります。)


この場所で、ゆっくり休んでいると、、近所の方にお会いしました。

この神社の世話をされているような感じです。


この男性から話を聞けました。

黒田官兵衛について、いろんな話をうかがいました。

私が、「国府山城に上がるつもりである」といいますと、「草の丈が高くなっている場所があるので気をつけて上がってください」とのことです。








建物は、まったく残っていません。

城の痕跡を見に行くという雰囲気。

石垣等はあると思います。


この荒神社が登山口になります。








山道を登っていきます。

(だいたいの様子を先ほどの男性から聞いていたので不安はありません。)





城跡の赤い矢印がありました。





今、どのあたりを歩いているのかわかりません。





脇道もあるので、少したいへんでした。

案内の赤い矢印発見。





「井戸跡」にきました。





石組みで、井戸の痕跡があります。


さらに、先へ歩きます。





「かまど跡」





男性が話されていた「丈が高い草の場所」にきました。





話を聞いていないと、先が見えにくくて不安になるので、引き返していたかもしれません。


「馬駆け」





(馬を鍛えるために、馬をかけさせていた場所でしょうか?…………)


「甲山経塚跡」








経塚とは、経文を経筒に入れて土中に埋納した遺跡です。





さらに、登っていきます。





「廓跡」がありました。





先へ、進みました。








また「廓跡」です。





「土塁跡」






「二層の隅櫓跡」








「主廓」





一番高いところに出たようです。

(本丸跡と想像しました?………………。)



下に市川が見え、さらにその向こうにちいさく姫路の街が見えました。





道がわからないところを、登山したので、少しくたびれました。

下の荒神社から、約40分かかっていました。


休憩します。(お茶を飲みます。)













姫路市妻鹿 黒田官兵衛ゆかりの地を歩く その1

2019年08月23日 | 旅行
7月のはじめ、かねてから歩いてみたかった姫路の妻鹿と、網干に行きました。

播州赤穂からJRで姫路駅にやってきます。





姫路駅前です。

正面はるか遠くに、姫路城が望めました。

ここを左方面に行くと、山陽電車の姫路駅があります。


山陽電車で、妻鹿駅まで行きました。





妻鹿駅についたところ。





次の地図の黄色の線に沿って番号順に歩きます。





若い頃に、姫路の高等学校に勤めていたのですが、この妻鹿を歩いて観光することはありませんでした。

今回、黒田官兵衛ゆかりの地を歩くということで、たいへん楽しみです。


妻鹿駅を出て、市川沿いに歩きます。


最初に、「黒田職隆廟所」を訪ねようと思いました。





(地図のAの印の場所の風景)


少し行ったところで、右へ鋭角的に曲がり坂を下りました。


地図のBのところから見た風景です。





大きな立派なお宅です。


ここを道なりに行くと分岐点にきます。

地図のCの地点





「まち歩きガイド」の観光MAPを参考に歩いています。

その地図には、案内看板の位置まで記載していて、今、前に見ている案内看板もありました。


山陽電車沿いに少し歩き、左に曲がります。





ここを右に曲がります。





(ここが、地図のDの場所です。)

案内看板が要所にたくさんあるので、道に迷うことがないようでした。


この曲がり角のところで、住宅の庭に素敵なお花が咲いています。





赤っぽい紫陽花ですね。

紫陽花は、いろんな色の花……、花の形も様々です。


「黒田職隆廟所」は、ここから近いようです。





右へ曲がる場所(地図のEの地点)に、案内看板と「筑前さん参道」の石碑が…………。





これを、奥へ少し歩くと、廟所に着きました。











お参りさせてもらいました。





黒田職隆は官兵衛の父です。

孫の黒田長政は、初代の筑前福岡藩主になりました。

地元では、「筑前さん」と親しまれているようです。

豊臣秀吉は、黒田職隆の誠実なことを知り、重用しました。

元日に家臣たちに盃を与える際には、まず職隆に与えます。

出陣の時は、常に城の留守居を命じたといわれています。


ここから、次の観光ポイントの「元宮八幡神社」を目指しました。


奥に入ってきたところまで戻って(E地点)、東へ少し歩きました。


このすぐ先を左に曲がります。





鳥居をくぐって、まっすぐ歩きました。





しばらく歩くと、「元宮八幡神社」につきます。





のちに行く「松原八幡神社」の元宮で、黒田二十四騎のひとりの母里太兵衛(もり たへい)の生誕の地碑があります。





母里太兵衛は、妻鹿の国人曽我一信の子としてここで誕生しました、

槍術に優れた剛力の勇将として知られ、黒田軍の大将を務めます。

二十四騎の中でも特に重要視された黒田八虎の一人でした。


彼は酒豪で、福島正則から、大杯の酒を飲み干し「日本号の槍」をせしめます。

そのことで、民謡の黒田節のモデルになった人でした。

(酒は飲め飲め飲むならば……………………)








ここまで、妻鹿駅に着いてから約45分経過しました。


ここで、少し休憩します。

今日も、しっかりお茶を飲みます。











奈良 城下町大和郡山を歩く その8

2019年08月21日 | 旅行
源九郎稲荷神社から出てきました。






これから、次の観光ポイントの「外堀緑地」に行きます。


次の地図の黄色の線に沿って、ウォーキングを続けます。





神社に入ってきた道を戻りました。





ここをまっすぐ行くと、元来た道です。

ここで左に曲がって、1本西の筋へ行きました。


ハイキングMAPにある目印の「大信寺」を見つけます。








この通りを、北へすぐのところに、「町屋物語館(旧川本邸)」がありました。








大正11年に建てられた木造3階建です。

細い格子がはまった、元遊郭の建物で、その当時、一世を風靡しました。

昭和33年に廃業し、その後は下宿となり、客間は貸間として利用されました。

内部には、意匠を凝らした欄間や上質な数寄屋造りの小部屋など特殊な建築技法を各所に取りいれ、素晴らしい造形美が見られるそうです。

平成30年から一般公開されていますが、この日は月曜日で、あいにく休館でした。


この通りの突き当たりに、「浄慶寺」があります。











間違わずに順調に歩けているみたいです。



ここから、新紺屋町の、入ってきた信号のある交差点に戻り、その太い通りを南へ歩きました。

しばらく歩くと、「外堀緑地」に到着します。





入り口の南門です。

郡山城の柳大門を再現したもので、「高麗門」と呼ばれていました。





「箱本十三町」を描いたMAPがあります。

この門を通って、中に進みます。














塀の遠くむこうに見える建物は、「実相寺」。



天正8年(1580)に,筒井順慶によって郡山城の築城が始まり、1585年に入城した豊臣秀長の時に本格的に進められました。

さらに、その後、文禄4年(1595)になると、秀吉の五奉行のひとりの増田長盛が20万石で入城し、外堀の普請を開始します。


外堀は、秋篠川や佐保川を利用し、丘陵の断崖や溜池を巧みに利用して、総延長50町13間(約5.5km)になりました。

城下全体を外堀で囲んだことになります。



近現代に至り、外堀や土塁も失われてきましたが、残された外堀を憩いの場所にしたのがこの「外堀緑地」です。


この緑地を楽しみながらゆっくり歩きました。








堀に水がありませんが?………………。


緑地内にあった「郡山南小学校」。





ハイキングMAPに、この小学校名の記載がありました。(道は間違っていないようです。)











右側に見える素敵な建物はトイレでした。








ここは、堀に少し水が入っているようです。





普通は、水が全体にもっとあると思います。





左手に蔵があり、その先に休憩所の四阿(あずまや)がありました。





ここで少し休憩した後、最後のラストスパート……、JR郡山駅へ向かいます。








出口の北門近くにあった良玄禅寺です。





北門です。





北門は冠木門と呼ばれていました。


「郡山城外濠跡」の立派な石碑があります。






ここから郡山駅は、そんなにかかりませんでした。






ここが、ゴールになります。

源九郎稲荷神社からは約40分経過しています。



本日の大和郡山のウォーキングは、総歩数が約23000歩になりました。


この駅から約2時間かけて、自宅のある播州赤穂駅へ戻ります。

少しくたびれました。