goo blog サービス終了のお知らせ 

ウォーキングと旅行でのひとり言

ウォーキングと旅行の途中で頭に浮かんだことを書いてみました

兵庫県 播但線”福崎駅”からはじまるハイキング その10

2020年01月22日 | 旅行
福崎町の大庄屋三木家の前にいます。





この”福崎駅からはじまるハイキング”も、あとは福崎駅まで戻ればゴールになります。





(今は、14番の大庄屋三木家です。)


三木家の前の道を東の方へ少し戻ってみました。





三木家を東側から見た風景

広大な屋敷がうかがえました。

屋根の上の明かり取り?(煙だし?)が特徴的でした。


その東隣には、旧辻川郵便局があります。





かっては、三木家の西隣にあったと思ったのですが、…………。

携帯で調べると、解体して移築し、修理復元されたとの事です。

(道理で新し過ぎると思いました。)


道の両側に”銀の馬車道”の説明看板があります。





この今いる道が、銀の馬車道が通っていたところだそうです。

「銀の馬車道」は、明治の初め、生野と姫路市飾磨港の間の約49kmを結ぶ道として造られ、別名「生野銀山道」、「生野鉱山寮馬車道」とも呼ばれました。

馬車専用道路で、”日本初の高速産業道路”です。


道路の反対側には、





三木家の方へ銀の馬車道を戻り、今度は、もと旧辻川郵便局のあったところに、たくさんの説明板が並んでいました。








柳田國男と「銀の馬車道」





”日本民俗学の父・柳田國男は、明治8年(1875)、松岡家の六男として辻川に生まれました。柳田國男生家は、もともとは「銀の馬車道」に面して建っていました。國男は「辻川というような非常に旧い道路の十文字になった所に育ったことが、幼い私に色々の知識を与えてくれたように思う。(中略)もしも横丁か何かの隅っこにいたのだったら、私もこんな風な人間にならなかったかも知れない。」(故郷七十年)と記し、馬車道を行き交う人や物、情報に関心を寄せながら成長し、自身の学問の基礎が育まれたと述懐しています。”



松岡映丘と「銀の馬車道」








”日本画家・松岡映丘は、松岡五兄弟の末弟で、幼い時から絵画へ興味を持っていました。馬車道沿いの旅館「ますや」には、人力車の中継所がありました。映丘は、兄の國男、静雄とともに、人力車の背後に描かれた武者絵を見るために、毎日のようにここに通っていました。そして、これが彼を画家にするきっかけのひとつになったと國男は語っています。”


ここから、福崎駅へ戻ります。

(最初に福崎駅を出発してから、約6時間経過しました。)





目印の目標物を確認しながら指定のコースをウォーキングします。

三木家の前の道を西へ歩いていきました。


この古いすてきな建物は、「元鈴の森酒店(銀の馬車道の酒)」です。





さらに西へ歩いていると、レトロな洋館が現れました。





この辺りの目標物が記されています。

その目標物の”喫茶 かどや”を見つけました。





正面右の”こっひいや”の看板があるところが喫茶店だと思います。

(上の地図のO地点)


順調に道に迷わず歩いているようです。


次は、「神崎橋」が目印でした。


少し戸惑いましたが、なんとか神崎橋にきます。








橋を渡りました。








橋を渡り、すぐに右の細い道に入るようにコースが指示されています。


次の目印は”理容店”です。

(10年以上も前のハイキングMAPですので、………不安です。)


理容店を発見しました。(上の地図のP地点)





さらに歩いていると、古い町並みが現れました。














ここを通過して、いよいよ道が細かく分かれているのでたいへんです。

目印は”郵便局”





福崎新町郵便局を発見しました。(上の地図のQ地点)

この通りを歩きました。





次の目印は”西正寺”です。








見つけました。(地図のR地点)


いよいよ、ゴールの福崎駅が近いです。


この先を歩いていくと、”商店街”の記述があります。

どんな商店街が現れるか楽しみで歩きました。





少し、商店街の雰囲気がありますが、…………。





レトロな感じのある商店街が現れました。(地図のS地点)





どことも、大型店があり、小さな店はたいへんなように感じました。


この先を、ピッチを上げて歩きます。

とうとう、福崎駅に戻ってきました。






今回の歩数は2万歩をゆうゆうと超しています。

がんばりました。











兵庫県 播但線”福崎駅”からはじまるハイキング その9

2020年01月20日 | 旅行
福崎町の大庄屋三木家の主屋にいます。








受付の横から、あがらせてもらいました。


あがったところにありました。

二階へ上がる階段だと思います。





前の向こうにあるのが表門で、手前が役所の間・店の間です。








役所の間・店の間から奥のげんかんの間、なかの間、かみの間を見渡したもの








げんかんの間から外を見た風景





三木家は英賀城主の子孫とされていて、のちに飾磨(現姫路市)で飾磨津屋と称する酒屋を営んでいました。

1655年に、姫路藩主の新田開発の呼びかけに応じて、初代の利通が辻川(現福崎町)に移り住んだようでした。

3代善政から8代通済まで、江戸時代を通じて、代々姫路藩の大庄屋を務め、この地域の発展に大きく貢献します。

大庄屋は、庄屋をまとめる役目だそうです。

このげんかんの間の外は、お白州としても使われ、民間の揉め事をさばいたようでした。

(白州は、遠山の金さんでも出てくるやつです。)



三木家の家紋です。





”隅きり角に三木”……‥、この家紋から、三木家の先祖は四国の河野水軍だと推測されるそうでした。


鬼瓦にも家紋










欄間








格子の奥に侍が隠れていたところ








かみの間








縁側に、播但一揆の時にできた刀傷が残されていました。








”播但一揆”は、明治4年に姫路・生野両県で起った大規模なものでした。

一揆では、県の役所や薬園、大庄屋宅、庄屋宅が次々と焼き打ちされます。











かみの間から、げんかんの間の横の電話室のある部屋にきました。





三木家の電話番号が三番であったことを示しています。

最初の頃の電話ですので、電話のあるところは数が限られていたと思われました。

三番というのは、三木家が、この地域でいかに重きをなしていたかと推測されました。


香炉時計





線香・抹香(まっこう)の一端に火をつけ、時間の経過を測るものです。

機械時計以前に中国から日本に伝わったもので、1873年ごろまで使われていたそうです。





おくのくち、おくの部屋の方へ行きました。





外からこれらの部屋に入れないように、戸を閉めたら自動的にロックされるようになっているらしいです。





(昔から、大工さんはすごい技術を持っていたことが推測されました。)



おくのくち、おくの部屋を見たもの











奥にずっと部屋が広がっており、緊急時などに連絡するのにこの鐘を使ったそうでした。








奥の方の部屋は修理が進んでいるようです。











天井の明かり取りが高いところにあります。









表門のところに出てきました。





げんかんの間を見ています。

前が白州として使われた場所


表門から外へ出ました。















兵庫県 播但線”福崎駅”からはじまるハイキング その8

2020年01月17日 | 旅行
”河童のさんぽ道”(コミュニティーカフェ)にいます。





すてきなチーズケーキをいただいてご機嫌でした。

ここのお嬢さんから、ぜひ河童の池を見ていってくださいとアドバイスをいただきます。





古民家カフェから外へ出ます。


次の地図の黄色の線に沿って番号順に歩いていました。





(今は地図のN地点です。)

これから辻川山公園を目指します。





”もちむぎのやかた”の前にきました。





福崎町の特産の”もちむぎ”は、そばでもなくうどんでもない独特の食感を持っています。

これを使ったもちむぎ麺が味わえるところでした。

お土産コーナーや、製麺工場の見学もできるようです。

(昼時を大きく外れていたので、私の腹具合とうまく合わず、今回はスルーしました。)


辻川山公園に来ました。

かっぱの池です。





この池を渡る橋が”巌橋”です。

柳田國男さんの辻川の思い出の中に巌橋があります。








”河童(かっぱ)の河太郎(がたろう)と河次郎(がじろう)  福崎町には、市川という大きな川が流れています。この川の岸に駒ガ岩という大きな岩がありますが、そこには以前、河童の兄弟、兄の河太郎と弟の河次郎が住んでいました。二匹は、川へ水遊びにやってきた子供の足を掴んで引きずり込み、「尻子玉」を抜いてしまうのです。………………‥”


この池で、15分おきにカッパが浮き上がってくるのが観れるとの事でした。


まだ時間があるので、奥に行きました。


妖怪の”招き鵺(ぬえ)”





像についているプレートに”福崎町/柳田國男妖怪企画 第3回全国妖怪造形コンテスト 一般の部 最優秀作品賞 招き鵺(ぬえ)” とあります。

柳田國男は、日本各地の民話や伝承などを収集・分析し、「日本民俗学」を確立しました。

また、日本で最初に「妖怪」を体系的に研究し、「妖怪談義」を発表します。

もし、彼がいなければ”ゲゲゲの鬼太郎”も生まれなかったのでは…………。








この作品は”輪廻の森 第5回のコンテスト 一般の部 最優秀作品賞”です。

上の地上3mに作られた妖怪小屋からは”逆さ天狗”が飛び出してきます。



”怪しい抜け道 第4回コンテスト 一般の部最優秀作品賞”








”森に吹く風 第2回コンテスト 一般の部 最優秀作品賞”





”河童の河太郎” ……、お皿が乾き動けなくなって、池のほとりで固まっていました。






そろそろ、池に河童が浮き上がってくる時刻なので見に行きます。





見ていると…………、








これを見て満足し、「大庄屋三木家」に向かいました。

すぐ近くにありましたが、どうも裏から入ったようです。


米蔵








復元修理をしているようでした。


引割部屋





主屋の方を向こうに見ている風景です。





左に見えているのは味噌部屋や酒蔵でした。

作業員が復元工事をしています。

この道を主屋へ歩きました。





右側にあった内蔵






料理場の表示が見えます。











主屋の中の受付に来ました。






これから受付をして、「大庄屋三木家」を見学しようと思います。














兵庫県 播但線”福崎駅”からはじまるハイキング その7

2020年01月15日 | 旅行
福崎町の大善寺の境内から出てきたところです。





次の地図の黄色の線に沿って番号順にウォーキングを続けます。





(今は11番の大善寺)


今回のウォーキングコースで福崎駅から最も離れた地点にいます。

これから元きた道を戻って行きました。


往きに通った大きな農家を通り過ぎます。





(戻ってきた道を振り返った景色)


田園地帯の中を戻りました。





目印の皿池の横を通ります。





五叉路のところを過ぎて、往きしの道からはずれました。





大きな農家の横を歩きます。





(上の地図のJ地点)








道路の向こうにまたまた大農家?…………、前の細い道をまっすぐに進みました。








(上の地図のK地点)




しばらく歩くと、興味ある石碑があります。(上の地図のL地点)





”従是妙徳山道”とあります。

これより妙徳山の道と読めました。

妙徳山は神積寺の山号です。

つまり、ここをまっすぐ行くと神積寺に行けますよという意味になるのでしょうか。

石碑は、面白いですね……。


石碑を通りすぎてゆっくり歩いていると、また、農家?……の横を通過しました。





(雰囲気から農家だと思ったのですが、間違ってるかもしれません。)

すぐ近くの家の庭には、綺麗な花がいっぱい咲いていたので思わずシャッターを切りました。


















ここを過ぎると、前に自動車道が現れます。

(道は間違っていないようです。だいぶん、戻ってきました。)





自動車道をくぐりぬけ「大庄屋三木家」の方へ向かっています。











道の先の方に「熊野神社」の森が見えています。





あの森の手前を右に曲がりました。(上の地図のM地点)








レトロな”タバコやさん”の建物





これは”巌橋”と言います。





この橋の名前は、柳田國男の著作の「故郷七十年」の中に出てきます。

”辻川の南を岩尾川(雲津川)という綺麗な川が流れている。北条の方から来る所に橋があり、その橋は私の見ている間に石橋にかけ代えられたのでよく知っている。それは姫路から来る国道がついた時のことであった。”


今はその石橋は移されて、河童の池がある「辻川山公園」の方にありました。


巌橋を過ぎ、さらに歩きます。





「大庄屋三木家」への三叉路にきた時、右の道のところに”河童の絵”を見つけました。(上の地図のN地点)





かっぱに誘われて、右の道を入って行きました。


古民家カフェ”かっぱの散歩道”が現れます。








大善寺から約40分歩き続けていたので、素敵な古民家に誘われ、中に入ってティータイムを取ることにしました。











素敵なお嬢さんが、コーヒーとレアーチーズケーキを持ってきてくれました。


少しゆっくり休みます。
















兵庫県 播但線”福崎駅”からはじまるハイキング その6

2020年01月13日 | 旅行
今、福崎町の大歳神社(大門)の拝殿にいます。





この神社は、大年神を祭神とする大門区の氏神で、脇に八坂神社と熊野神社があります。


ここから次の観光目的場所の「大善寺」を目指そうと思います。


黄色の線に沿ってウォーキングをしています。(今は、⑩番の大歳神社にいます。)





大善寺は、スタート地点の福崎駅からはもっとも遠くに離れていました。





大歳神社からしばらくの間は、目標物が少なく、道に迷いやすいので、地図を見ながら慎重に歩きます。





農家の間を通って歩く様なイメージです。





のんびりして、楽しいウォーキングです。





五叉路にきました。





ここで間違うと、とんでもない方向に行ってしまうと思いました。


周りの景色から慎重に道を判断します。

次は、「皿池」という池が目印です。





皿池を発見しました。








農業用水用のため池だと思います。

この池があったので、道は間違っていない様でした。






田園地帯の中をひたすら歩くことになりました。





前に、大きな農家?………が見えてきました。





この道を、大善寺に向かって、ひたすら歩きます。





この先を左に曲がったところで、畑仕事をしていた婦人がおられたので大善寺への道を確認しました。

ほん近くまで来ていたみたいです。

私が、福崎駅からウォーキングしていますと話したら、びっくりされていました。

この大善寺は、福崎町で催すウォーキングの会でもコースになるようでした。

地元の人と話すのは、旅行では楽しみのひとつです。





大善寺の石碑がありました。

少し先に見えるのが大善寺の門だと思います。








前にきました。





中に入らせてもらいます。





綺麗な花が咲いていました。





庭の門をくぐり、本堂へ…………、











姫路城築城に際し、心柱を供出したことや、姫路城から見て鬼門にあたるなど、姫路城と係わりが深い寺でした。

播磨姫路藩の初代藩主の池田輝政は、姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られています。

1600年の関ヶ原の戦いで東軍に属し、岐阜城攻略の功績から、播磨姫路52万石に加増移封されました。

この寺は、初夏には、紫陽花が境内を彩るようです。








播磨八薬師第四番霊場で、四国八十八所より授かった「大善寺八十八所」がありました。

名木保存樹であるカヤがあります。




















鐘つき場のそばで少し休憩します。

(大歳神社から約50分経過しました。)