むすび居合道の刀一会《JMMA会員》

日本武道本質「むすび」を探求している道場。むすび居合を提唱。武術居合道を通じて平和理念を解きます。もしもしむすび協会会員

刀の時代は終わった、が、モノの時代は永遠続いている

2021-11-27 22:56:04 | 刀一会technique
令和の今、
刀の時代はもう過ぎ去り
過去のこととなりました。

街を帯刀していればしょっ引かれます。
では
居合道として稽古しているのは?

それは、もう武器じゃなく
(刀の本質は武器です、その武器を武器として規定しているのは
私たち人間の意識です。その人が武器として使おうとすることは
法律で許されていません)
モノとして
モノ共通の意識で持っているからです。
モノとして刀を稽古していくメリットは
他のもの(木刀や模擬刀)ではちょっと物足りないからです。

やはり真剣です。
でも
真剣をなにが何でも手に入れなくてもいい場合もあります。

それは、先に意識の学びを済ませていれば
そういう人は、何を持っても大丈夫です。

なにが大丈夫かというと
護身にひつような氣や意識を学べるという意味で。

柔の技でも合気道、拳法であっても
武術の歴史を考えてみれば
最終的にはモノに行き当たります。
モノというのは広い概念です。
石器、棒切れ、青銅器、鉄器、槍、弓矢・・
ヒトとモノの関係を言っています。

ヒトは平等ではなく
個人個人については、身体の能力差や年齢差があります。
その差をうめるためにモノ、つまり武器を使います。

で、モノは自分ではありません。
手や指、肘は自分の一部です。

しかしモノは、「」です。
その他を自分と思えるかということを居合道では
稽古しているといっても過言じゃないということです。

護身のコンセプト学べるということです。
ただ護身術としては
刀をいくら振っていてもだめな場合が確実にあります。

体術(身体操作)を習うのはそういうことです。
居合をやっている人も
体術が要ります。
それは言わなくても歴史が物語っています。

つまり止揚
結論は、モノを自分と不可分に扱うことを学んでいる
それが刀の時代は終わっても
護身には使えない・持ち歩けないけれど
その刀操作から生まれた意識の技、つまり中身をすくいとり現代に応用していく。

弁証法でいうところの
形式は破壊するが、中味をすくいとる
止揚「アウフヘーベン」 です。


入身がどうして道場で身につかないのか? に答えます その2.

2021-11-27 20:16:45 | 清流ー海部川
意識(氣)を探求し続けていると
あることに気づいてきます。

これって生まれ持った性質(本能的な仕組み)
なんじゃないかなと
思える時が結構あることです。

それは私たち人間を含めた動物共通の意識
(本能的な意識)だという以外に
答えは見つからないと思っています。

そこで、道場で入身を稽古して
腑に陥るようにそれがわかるためには
動物の行動とおなじ"本気"でやる必要があります。
それ以外ではけっしてないです。

入身の稽古は身体的にしんどいと言うより
意識を本気モードにし続けている為
別な意味の疲れや疲労感が襲ってきます。

入身の説明って書けば書くほど
語れば語るほど分からなくなりますが

実際にワークすれば
ストンと案外簡単にわかるもんです。


入身がどうして道場で身につかないのか? に答えます

2021-11-27 19:55:54 | 清流ー海部川
≪入身≫
そのまえに抑えておくべき意識(氣)があり、
それは、
武術は殺戮・拷問・無情・自死の歴史の上に
築かれてきた長い年月の積み重ねがあるということです。

では、道場において
「入身」の稽古に入る前にこれだけはという準備
がいります。
その準備がないと、「入身」は幻ですし、リアルではなくなります。

つまり効果に気づかない、本質に近づけません。

何を語っているのでしょうか。

つまり「意識」です。
武術の稽古には練習というのはあり得ません。
つまり、練習という緩い意識で入身を稽古したとしても
相手に対して「入身」本来の相手を瞬間動けなくするという
テクニックを使い難いという
そういうことです。

入身は技ではなく
動物の本能レベルの意識で相手に訴えかける(もしもし)
誰にでもできる
本当はシンプルでスマートな戦術です。