令和の今、
刀の時代はもう過ぎ去り
過去のこととなりました。
街を帯刀していればしょっ引かれます。
では
居合道として稽古しているのは?
それは、もう武器じゃなく
(刀の本質は武器です、その武器を武器として規定しているのは
私たち人間の意識です。その人が武器として使おうとすることは
法律で許されていません)
モノとして
モノ共通の意識で持っているからです。
モノとして刀を稽古していくメリットは
他のもの(木刀や模擬刀)ではちょっと物足りないからです。
やはり真剣です。
でも
真剣をなにが何でも手に入れなくてもいい場合もあります。
それは、先に意識の学びを済ませていれば
そういう人は、何を持っても大丈夫です。
なにが大丈夫かというと
護身にひつような氣や意識を学べるという意味で。
柔の技でも合気道、拳法であっても
武術の歴史を考えてみれば
最終的にはモノに行き当たります。
モノというのは広い概念です。
石器、棒切れ、青銅器、鉄器、槍、弓矢・・
ヒトとモノの関係を言っています。
ヒトは平等ではなく
個人個人については、身体の能力差や年齢差があります。
その差をうめるためにモノ、つまり武器を使います。
で、モノは自分ではありません。
手や指、肘は自分の一部です。
しかしモノは、「他」です。
その他を自分と思えるかということを居合道では
稽古しているといっても過言じゃないということです。
護身のコンセプト学べるということです。
ただ護身術としては
刀をいくら振っていてもだめな場合が確実にあります。
体術(身体操作)を習うのはそういうことです。
居合をやっている人も
体術が要ります。
それは言わなくても歴史が物語っています。
つまり止揚
結論は、モノを自分と不可分に扱うことを学んでいる
それが刀の時代は終わっても
護身には使えない・持ち歩けないけれど
その刀操作から生まれた意識の技、つまり中身をすくいとり現代に応用していく。
弁証法でいうところの
形式は破壊するが、中味をすくいとる
止揚「アウフヘーベン」 です。