むすび居合道の刀一会《JMMA会員》

日本武道本質「むすび」を探求している道場。むすび居合を提唱。武術居合道を通じて平和理念を解きます。もしもしむすび協会会員

いよいよ明日から鮎解禁

2021-11-30 21:24:53 | 清流ー海部川
明日から
ひいきに通っている徳島県海部川のアユ釣りが
再解禁となります。
ただ、私の務めの中学校は明日から中間テスト(2学期制のため)
担当している理科のテスト監督もあり
明日・明後日は学校で仕事をしています。

ということで
多分土曜日には海部川に浸っていると思いますが
鮎は釣れるかというと
この時期の落鮎は
3年に一度釣れる確率なんです。
去年は釣れなかったので
今年はどうなることでしょうか?




武蔵決闘その続き

2021-11-30 14:41:47 | 日々一言
11月29日ブログの続きです。

宮本武蔵の決闘には面白い事実があり
武蔵がある旅の途上で
居合の達人と一対一の勝負をした話でした。
今回は、
その達人、実際は武蔵に斬られて絶命しますが、

もし、この居合の達人が
武蔵より上の実力の人だったらどうでしょうか
という話です(ここからは架空・仮定の作り話となります)

もし、私がその達人だったら
次のような策を一か八かとります。
それは、

対する武蔵が
「お手前の勝ちじゃぞ」というや否や

でも、ひょっとしたら
武蔵の言葉はまだ信用するには早いかも…

ここで「スキ」をつくって
武蔵の言葉が正しいか試してみよう。

実態は構えを解いたふりをしてスキをつくり
内実は(先をとり)続けていて
心は構えていよう。

そこで武蔵の言葉通り、相手が引けば
こちらは刀を抜かないし

万が一武蔵がその「スキ」に乗って
斬ろうとした刹那
私は斬る。

武蔵は、
居合道の達人の見せたスキが本当(実)か虚かの
見分けをつける実力があったのか?
それは今となってはわかりません。

しかし、
居合の達人は構えを本当に解いてしまい
武蔵に斬られてしまいます。

武術のスキというのは、
なんでしょうか。
その答えはいずれブログで書くかもしれませんが、
まず
スキがないというのは
心理学でいうパーソナルスペースにまぁ等しいものです。
つまり、二人の間にある空間にすでに
達人の身体が入っている。
征服しているという関係です。

それを感じ取った、感覚できたのは流石に武蔵です。
不覚にも
相手の間合い(空間)に入ってしまっていた
安易な行動をとった自分を後悔し
脂汗を流し死をも覚悟したでしょう。
その証拠として次の武蔵の切羽詰まった言葉があります。
しかしその後が素晴らしい。

お手前の勝ちじゃ」といって
相手が勝負の「勝ち」に満足した(スキを満たした)瞬間

武蔵は、相手の空間を今度は自分が
パーソナルスペースとしたまで。
つまりその空間は武蔵の身体のように自由に
どうにでも出来るように変えたわけです。

では、
また次回に続く。

いよいよ次は、
生徒から人気な先生(学校の)秘密を明かしていきます。







生徒に人気がある学校の先生のヒミツ

2021-11-29 21:57:35 | 日々一言
・月曜日~金曜日は和歌山県の公立中学校で
理科を教えています。
堺市の小学校で教諭勤務もしていましたっけ。
学校、
とくに思春期である中学生に人気のある先生とは
どんな先生か?

この答えの先生像と
武術の"すき"はとても深い深い関係があります。
これは私の長年にわたる生徒に関わってきたことの結論です。
(本当は短くてもわかる)

宮本武蔵の決闘には面白い事実があります。

武蔵がある旅の途上
「新免武蔵とお見受けする」という
武術修行者があらわれ、
試合を申し込まれます。

武蔵が自分の名を知っていて試合を申し込んでくるんだから
少しは腕だ立つんだろうと・・・

立ち会ったとたん、
武蔵の額に冷や汗がツーっと
居合の達人であった、彼人はすでに「先」をとっていました。
しかし、
瞬時、斬られていると悟った武蔵は
機転を利かせます。

「お手前の勝ちでござる」 
それは作法として、
お互いに刀を抜かずに、そこで両者物別れになるはずでした。

しかし、そこは武蔵の方が少し上手です。
居合のその相手は
作法に則り、間合いを詰めたまま「構え」を解いてしまったのでした。

そのスキを逃すほど武蔵は
優しくはなく、ズパーッと相手を両断して(負けての)勝ちをひろいます。

では、この居合の達人が
武蔵に斬られない策とはなんだったんでしょうか、

その答えが、
ズバリ、生徒に人気のある先生のヒミツなんです。
(学校の先生や会社の上司必見)

では、以後はまた
続く

身体操作は大事

2021-11-28 12:26:37 | 刀法クラス
無双直伝英信流を稽古科目として教室をひらいています。
それとともに
柔術の稽古も
初心者には必要に応じてレッスンもします。
👆多治速比売神社にて(稽古場は神舘です)

ブログでは意識や氣の操作に関することを
書いている割合は多いものの
決して
身体操作を軽んじているわけではありません。

身体操作(刀の操作法や体術)はとても重要です。
理由は書かなくてもわかるほど常識的ですが
敢えていうと、
私たちは物質世界に生きているからです。

その物質をもとに
物体を操って生きる存在が私たちだからです。

肉体自体も刀も空気(風)の流れや温度
水や日光、石塀、橋、コンクリート‥
物質にかこまれて生きています。

身体操作は、自分の手足の動かし方や形、勢いのみだけではなく
手にした武器(刀や杖、その他武器)も
身体の一部として使っている関係上、

稽古の刀は、自分の身の一部として
渾然一体として操作をしています。

当会では
よくムスビや意識(氣)の話をしてレッスンを
すすめていく理由は、
以上を読んでいただければわかると思いますが

身体操作と意識は切り分けられないためです。
それで、
こういう手の動かし方をするのは、
「この意識でやるためですよ」というふうに、

身体と意識を関連付けながらレッスンを行っています。



刀の時代は終わった、が、モノの時代は永遠続いている

2021-11-27 22:56:04 | 刀一会technique
令和の今、
刀の時代はもう過ぎ去り
過去のこととなりました。

街を帯刀していればしょっ引かれます。
では
居合道として稽古しているのは?

それは、もう武器じゃなく
(刀の本質は武器です、その武器を武器として規定しているのは
私たち人間の意識です。その人が武器として使おうとすることは
法律で許されていません)
モノとして
モノ共通の意識で持っているからです。
モノとして刀を稽古していくメリットは
他のもの(木刀や模擬刀)ではちょっと物足りないからです。

やはり真剣です。
でも
真剣をなにが何でも手に入れなくてもいい場合もあります。

それは、先に意識の学びを済ませていれば
そういう人は、何を持っても大丈夫です。

なにが大丈夫かというと
護身にひつような氣や意識を学べるという意味で。

柔の技でも合気道、拳法であっても
武術の歴史を考えてみれば
最終的にはモノに行き当たります。
モノというのは広い概念です。
石器、棒切れ、青銅器、鉄器、槍、弓矢・・
ヒトとモノの関係を言っています。

ヒトは平等ではなく
個人個人については、身体の能力差や年齢差があります。
その差をうめるためにモノ、つまり武器を使います。

で、モノは自分ではありません。
手や指、肘は自分の一部です。

しかしモノは、「」です。
その他を自分と思えるかということを居合道では
稽古しているといっても過言じゃないということです。

護身のコンセプト学べるということです。
ただ護身術としては
刀をいくら振っていてもだめな場合が確実にあります。

体術(身体操作)を習うのはそういうことです。
居合をやっている人も
体術が要ります。
それは言わなくても歴史が物語っています。

つまり止揚
結論は、モノを自分と不可分に扱うことを学んでいる
それが刀の時代は終わっても
護身には使えない・持ち歩けないけれど
その刀操作から生まれた意識の技、つまり中身をすくいとり現代に応用していく。

弁証法でいうところの
形式は破壊するが、中味をすくいとる
止揚「アウフヘーベン」 です。