小原ルーツ

安俵小原氏が、安俵氏(小原氏宗家)に代わり、和賀郡東部の支配者になり得た理由について

安俵小原氏が、安俵氏(小原氏宗家)に代わり、和賀郡東部の支配者になり得た理由について

 

狭良城を本拠地としていた小原氏(狭良城次郎系)は、元々安俵氏の分家家臣でしたが、一族間で相争う南北朝争乱期(1337年〜1392年)の前期に、狭良城小原氏当主の小原重秀が、南朝派(宮方)に与していた安俵氏(当初は奥州の地頭の殆どが南朝派だった)から離れ、いち早く(1340年に)北朝派(武家方)に鞍替えしていた和賀氏一族の鬼柳氏北朝派に与するようになります。

その後、郡内では北朝派に寝返る諸将が増え北朝派は優勢となり、宗家家中で次第に力を付けその盟主となった中条氏流多田氏(旧刈田氏一族)の多田左近将監政義が宗家を継承しますが、実子のいないまま亡くなったため、その遺領(黒岩郷)を、室町幕府陸奥守主導の下、1370年に鬼柳氏北朝派一族が相続し、他の和賀氏宗家系(刈田氏系・多田氏系・小田嶋氏系)を取り込みながら郡内の支配権を確立していきます。

これを機に、狭良城小原氏は陪臣(与力)としてではなく、正式に和賀氏宗家直属の家臣(直臣)となり、以降、和賀家家中で重きをなしていきます。

そして、和賀氏宗家直臣となった狭良城小原氏は、命により、争乱の続いていた郡内を安定させるため、小原氏一族の本貫地である安俵郷の押蕪山に本格的な城郭の築城を開始します。

因みに、安俵郷は現在の東和町安俵地区だけを指すのではなく、古くは猿ヶ石川流域一帯(和賀郡東部一帯)を指していたそうです。

そして、完成した安俵城高館に入城した狭良城小原氏は、和賀氏宗家の後ろ盾や、小原義郷が戦場での活躍により拝領した鎌倉公方発出の七郷安堵状を武器に、実質的に和賀郡東部の支配者となっていき、南北朝期に衰退した名目だけの領主である安俵氏との石高差も顕著になっていきます。

それは、1582年に作成された「和賀御分限録」を見れば、一目瞭然です。

・小原左馬介藤次郎(安俵小原氏棟梁・小原忠秀)1300石

・安俵玄蕃(小原氏宗家・安俵義重)302石4斗

・更木主水(狭良城館主を継承した安俵小原氏庶流家・小原主水)350石

となっています。

このような背景の下、狭良城小原氏は、それまでに安俵郷に入部していた各小原氏の北朝派らと共に安俵小原氏を形成し、和賀郡東部の実質的な支配者となっていきます。

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