小原ルーツ

主家の和賀氏について(2-2)

奥州仕置で領地を失った和賀主従は、領地奪還の為1590年10月和賀稗貫一揆を起こします。一揆軍は緒戦で勝利を収め和賀氏の居城であった二子城、稗貫氏の居城であった鳥ヶ谷崎城を落とし勢い付きます。しかし、翌年6月再び豊臣方の仕置軍が編成され奥州に来襲、鉄砲隊の組織的な攻撃を受け一揆軍は壊滅、領地奪還は叶わず和賀主従は再び潜伏生活を余儀なくされます。この一揆後、和賀郡は完全に南部領となります。それから9年後、関ヶ原の戦いと連動するように1600年9月和賀主従は再び一揆を起こします(岩崎一揆)。この一揆も冬を挟み翌年4月まで続きますが、一族間の内憂を払拭した南部軍は兵力に勝り、岩崎城に籠った一揆軍は兵糧も尽きかけ連戦続きで次第に劣勢となり岩崎城は遂に陥落、旧城主だった岩崎弥右衛門義彦、同将監、小田嶋周防守、小原蔵人、筒井又十郎らは最後まで城に籠り戦い続け、討死或いは自害を遂げてしまいます。
一方、当主の和賀主馬忠親と重臣である小原忠秀らは和賀氏の血脈を守る為、伊達領に逃れ伊達家の計らいで志田郡松山(現宮城県大崎市松山千石)の地に潜伏します。実はこの二度の国人一揆を伊達家が背後で扇動支援しており、岩崎一揆で被害を被った南部家側が関ヶ原の戦いで勝利した徳川家に、一揆首謀者と背後で暗躍していた伊達家の処分を求めてきます。徳川家は伊達家に対し、匿っている和賀主従を江戸に連れて来る様要求します。伊達家としては一揆を支援した事が明るみになれば、減封などの処分は免れません。追い詰められた伊達政宗は一揆に加勢させていた家臣の白石宗直に、口封じの為和賀主従の殺害を命じます。命を受けた白石宗直は伊達領松山に潜伏していた和賀忠親と小原忠秀ら家臣7名(その共廻りを含め36名)を仙台に呼び寄せます。その時、小原忠秀は主君であり娘婿でもある和賀忠親に仙台行きは危険だと忠告しますが、和賀忠親は一揆を支援してくれた伊達家に恩義を感じており、覚悟を決め仙台に行く事を決断します。
一方、命を受けた白石宗直は、まず自らが匿っていた一揆残党を殺害します。一揆残党を匿っている事を徳川家の隠密に知られない為や、暴動などを恐れた為だと伝わっています。そして、仙台に着いた和賀主従8名らを国分尼寺に閉じ込め、その後、国分の原(宮城野原)に於いて殺害または切腹を求め殉死させます。殉死した和賀主従8名の墓が仙台国分尼寺にあります。
只、和賀忠親は松山を発つ前「子孫の事宜しく頼む」と言う内容の書状を認めており、この書状が白石宗直を経由し伊達政宗の手に渡ったと思われ、以後、伊達政宗は、和賀主従の子孫達に対する追跡や処断などは命じていない様です。
さて、殉死した和賀忠親には小原忠秀の娘との間に子息がおり、この妻子らを小原忠秀の子息らが東磐井郡摺沢村(現岩手県一関市大東町摺沢)に連れて行き匿います。この摺沢村は奥州仕置前迄は、小原忠秀正室の実家岩渕氏が長らく治めていた土地であり、岩崎一揆の頃には誼を通じていた伊達家重臣小原氏の領地となっています。その伝手を頼り妻子家臣らは摺沢村に落ち延びて行きます。その後、隠棲していた子息の久米之助は、母方の伯父で小原忠秀の次男である小原忠継(房正)の娘婿となり、小原忠広と名乗り摺沢村に隠棲し続けます(摺沢小原家)。一方、和賀氏嫡流の血脈を守る為、母と共に黒石正法寺に移っていた和賀忠親の長子又作は、伊達政宗に召し出され志田郡松山(現宮城県大崎市松山千石)へ移住し和賀義弘と名乗ります(松山和賀家)。この和賀義弘には小原忠義という人物が後見人として付き従い共に松山へ移住します(松山小原家)。
因みに、この松山小原家は和賀氏庶流家が使用する石畳紋(丸に四ツ石紋)を自家の家紋としており、また、奥州市の稲瀬小原家(小原忠秀の弟実勝子孫の家系)が、この松山小原家をご本家としていることから、家祖の小原忠義は、小原氏宗家(和賀氏庶流安俵氏)の人物であると考えられます。
そして、この小原忠義と共に松山へ移住した和賀義弘の子孫は、仙台藩に守られ明治期を迎え、末裔の本家の方は現在東京で暮らしているそうです。
他にも和賀氏の子孫の方々は、岩手県一関市大東町および東山町など岩手県内や、宮城県、秋田県内にもおり、北上市二子町の二子八幡神社の神主の方も和賀氏一族の「修験妙楽(泉)院家」の直系子孫です。














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