安俵小原氏を形成した私市氏流小原氏と、丹内山神社別当家について
「私市(幾佐井)氏」は河内国肩野(交野)を本拠地としていた肩野物部氏の一族「日下部氏」の子孫であり、「丹内山神社別当家」はその肩野物部氏の直系子孫(物部守屋公の子孫)です。
その肩野物部氏一族は、西暦587年7月に起きた「丁未の乱(ていびのらん)」に敗れ、信濃や信濃を経由し出羽や武蔵方面へ落ち延びて行きます。
そして、出羽方面に落ち延びた肩野物部氏の直系子孫は、982年に現在の秋田県大仙市に「唐松神社」を建立します。一方、武蔵方面に落ち延びた日下部氏の子孫「私市氏」は武蔵国北部で私市党を形成し、物部氏系の神社を数多く残しています。
実は、この出羽と武蔵に別れた肩野物部氏一族の二流は、別れた後も数百年の間繋がりを保っており、その後、武蔵北部から刈田郡を経由し和賀郡に移動した肩野物部氏の末裔である小原氏一族は、1382年に丹内山神社を復興するにあたり、同祖をもつ唐松神社別当家(秋田物部氏)に協力を依頼し、その分家筋となる一族が和賀郡谷内郷へ来訪、そして、小原氏らと共に丹内山神社を復興し別当職を務めることとなります。
そして、同祖を持つ小原氏と丹内山神社別当家は次第に一族化し、別当家も五代目から同じ小原姓を名乗るようになります(物部姓小原氏の成立)。
このことは、587年7月に丁未の乱に敗れ、出羽と武蔵に別れ落ち延びた肩野物部氏一族が、800年の時を超え再び合流したことを意味します。
因みに、砂子小原氏や丹内山神社別当家の諱(いみな・下の名)の通字である「実」の字は、信濃国伊那郡高遠郷に落ち延び、縁類の諏訪大社上社の神長官「守矢家」を継いだ「物部守屋公の次男武麿」の子孫から拝領した一字です。
そして、秋田県大仙市の唐松神社を建立したのが、物部守屋公の長子「那加世」の子孫「物部長房(さきふさ)」です。唐松神社の別当家は諱に「長(さき)」の字を通字にしています。