和賀家は豊臣方からの小田原征伐参陣要請に従わず、改易の処分が下され、第一次奥州仕置軍(1590年8月)の来襲を招く訳ですが、和賀軍はその仕置軍に抗わず無血開城し逃散したと伝わっています。
しかしながら、私が伝え聞いた東和の古老の話しでは、東和の安俵城は留守隊が守備しており、その留守隊の中には仕置軍に殺害された者がいたそうです。小規模ながらも戦闘があったと考えられ、城外に逃れた兵は夜陰に乗じ、南部領の県北方面に落ち延びて行った者がいたそうです。その古老のご先祖も県北の浄法寺に落ち延び、戦乱の収まった頃(江戸期初頭か)に伝手を頼り東和の地に戻って来たそうです。そして、その兵らの中には同様に後の一揆には参加せず、県北に留まり南部家の下級武士になった者や、同じく県北で新田開発の人夫となりその地で帰農した者も当然いたと思います。只、県北の地に根付く者がいる一方で、東和に戻って来られたのは地侍(郷士)の身分の者が殆どで、身分の高い者は咎を受ける恐れがある為、他地域(和賀郡外)に落ち延び潜伏する者が多かった様です。因みに、安俵小原氏の嫡流系などは全て和賀郡外に落ち延び、子孫はその地に根付いています。
この事から、東和に戻らず県北に留まった小原家の多くは身分の高い一家とその分家家臣で、恐らく安俵小原氏の一門衆(親族衆)ではないかと思われます。
因みに東和の小原家(安俵小原氏一族)の家紋は「蔦紋」「丸に蔦紋」「陰蔦紋」「丸に陰蔦紋」が多く、安俵小原氏が出自を藤原氏に改変した1500年代初頭からは「藤紋」を家紋とする家も増えてきています。