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地震の事とか書いてきましたが、退職したので一寸変わった内容に。
 



 発生が懸念されて浜岡の原子力発電所が停止されている東海地震ですが、直近のものは安政元年11月4日(1854年12月23日)の安政東海地震になります。静岡県の被害想定でも、この地震の津波浸水域が示されています。

 一方、先の東北地方太平洋沖地震の際、出ずっぱりでTV解説をされていた東大地震研究所の都司さんは、駿河トラフ~南海トラフ沿いの地震としては、安政の三つ前になる明応地震(明応7年8月25日;西暦1498年9月11日)タイプの危険性を指摘されています。浜名湖の南側にあった平野を破壊して浜名湖を作った(新潟大学矢田さんの解説など)津波の威力はすさまじいものがあったようです。

 

左:都司さんの東海地方地震津波史料から駿河国新風土記の部分を抜粋。右:関係地図(Google Map) 各々クリックで拡大。

その、都司さんが若い頃にまとめられた資料を見て、びっくりしました。静岡市の安倍川右岸の寺田というところまで津波が来たらしい、というのです。地図に見られるように、現在の海岸線からは2km以上も内陸です。駿河国新風土記の作者が言うように、室町時代の海岸線はもっと内陸まであったのかもしれません、が、それにしても・・・

資料の最後にある益津の坂本というのは、焼津の林叟院のことで、その石碑の記述から「志太郡で死者2万6千人」という記載が、理科年表に載り地震調査研究推進本部のページにも引用されています。これについて、都司さんは津波工学研究報告という雑誌の論文中で”んなバカな"、と否定しています。石碑には「死者2万6千人」とだけあって、地域を特定はしていない、というわけです。

もう一つ、この地震津波の伝承として、鎌倉の高徳院の大仏殿が流出した、というのがありますが、文化庁の文化遺産オンラインというサイトでは、明応の地震時には既に大仏殿は失われていた、とされています。

寺田の話でも、さしむ山(知ってる人いるかなぁ)の小石というのは、本当にあるのかどうなのか?古老の話はどこまで信用できるのか?などなど・・・、歴史地震は難しいですね。


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