母は話の中では「おぶっぱん」と呼んでいた気がします。ふだんは「仏様のごはん、さげといで…」でした。
昨日、ちと下げるのが遅くなりまして…それでこんな話題になりました。
トップ写真は、借り画像、いつも「好物ロウソク」など買わせていただいている「庵心堂」さんから。
あ、無断借用です。ごめんなさい担当のT様…。
せめてご紹介で、このセットは現代仏膳で、従来のものより高さがないのだそうです。
小さ目の仏壇を高い位置に置く家庭が増えているせいでしょうね。
大きさは、お箸の長さが17センチ、台はそれより少し小さいですね。プラ製でこのサイズだと4500円だそうです。
これはまぁご供養のときやお彼岸などでの使用になりますが、我が家には…ありまへん…。
更に見つけたのが「お彼岸などで、精進料理をおそなえするのが手間なとき」用の、
なんと「フリーズドライ精進料理」、出し汁や水でもどしてレンチンだそうです。世の中進んだ…。
我が家には供物台は主人の実家のものがあるのですが、大きすぎて、それに何かのせて置くと、
御位牌やら何やらみんな隠れてしまって…なので何かお供えの時はいつも普通の小皿使用です。
我が家では毎朝ご飯を炊くわけではないので、申し訳ないけど夕食の時でも「炊いたとき」にお供えです。
よく、仏様は「湯気を召しあがる」「香りを召しあがる」「気を召しあがる」といいます。
湯気の立つようなものは、それがおさまってしばらくしてから下げるわけですが、
たまに忘れることがある…昨日それでした。でへへ。
朝のご飯は昼前に下げて、昼食でいただく…と聞いたのですが、
実家にいたころ母は忙しい人でしたから、忘れて固ぅなったらあかんし、と、早めにさげていました。
たまに煮物でもなんでもさげるのを忘れておそくなってしまうと、仏壇に手を合わせながら
「すんまへん、手ぇがかったるぅ、ならはりましたやろ」といいながらさげてましたっけ。
まぁ煮物や汁物なら、レンジでチンでもなんでもいいのですが、ご飯となるとねぇ、です。
表面がパリパリになったりして…そやから早よさげぇて、ゆーとるに…と母に叱られそうですが、
乾燥する時期に忘れたりすると、上全部パリパリ…。
で、昨日はそこまで行かなかったのですが、ちと乾いたところができてしまいました。
そういうときは、まず小さい器にご飯を移し、熱湯入れてラップして…です。
これでだいたい大丈夫なので、あとはカツブシかけておしょうゆちょびっと、でいただきまーす。
そんなにしょっちゅうやるわけではないのですが、たまーにそれをしたとき、
必ずふわりと脳裏に浮かぶ風景があります。昔々の大昔、母が寝込んだ時のこと。
父の気配の記憶がないので、たぶん12歳くらい。母と二人暮らしの時代です。
学校から帰ると、めーったに風邪もひかない母が、熱を出して寝ておりました。
枕元に「富山の薬箱」があったのを覚えています。頓服でも飲んだのでしょう。
「だいじょぶやで、すぐよぅなるしな。ちょっと寝かせてな」と、トロンとした目で言う母は弱々しく見えました。
何もすることもできず、なにかとても不安だったことを覚えています。
しばらくたって母が呼びました。半身起こして「熱さがったしな、もう大丈夫」(大丈夫そうには見えなかったのですが)。
そのあとで「なんぞ口に入れなあかんしな」と、仏壇を指さし「仏さんのごはん、きれいにとって、
ちっさい鍋にいれて、ひたひたの水いれてきて」といいました。朝お供えしたご飯はすでにパリパリ。
当時、母の手伝いは台所でもよくしていましたが、まだ一人で「火」を使うことは禁じられていました。
言われたとおりにして鍋を持って行くと、火鉢にそれをのせるように言われ、
「そば離れたらあかんよ、じーっと見てグツグツしたらもっておいで」と。
そのあとどうしたか、実ははっきりした記憶がありません。母がそのおじや風になったご飯を
茶碗に移して、つけものの残りだったかでやっと食べたような気がします。
強靭な?母は、次の朝にはいつも通り「はよしなさい!」と、セカセカと動いていました。
私は学校へ行く途中の道々「カッパのすもう」の昔話を思い出していました。
カッパが毎日のように、川原で村の子供たちとすもうをとるのですが、強くてだれにも負けません。
ある男の子がどうしても勝ちたくて、おじいさんに「どうしたら強くなれる?」と聞きます。
おじいさんは「明日川原に行く前に、仏様のご飯を頂いてからいくといい」と教えてくれます。
男の子は言われたとおり、仏様のご飯を食べてすもうに臨むと、見事勝てました。
カッパが「いやぁ今日は強いなぁ、仏様のご飯食べてきただろぅ」と言い当てた…と言うお話です。
私は「あんなに熱が出てボーッとしてたおかぁちゃんが、たった一晩でもとに戻った。
あれはきっと仏様のご飯を食べたからだ。お父ちゃんも一緒に治してくれたんだ」と、思ったわけです。
仏様のご飯をお湯でふやかしておじや風にして食べるとき、必ずそのことを思い出します。
そして、普通にいただいたときより、なんか元気になる気がするのです。
そうはいっても、ちゃんとやわらかいうちにさげなアカン…なんですけどね。
我が家には母の位牌はありませんから、仏壇とは別に母の遺影と主人の遺影を並べてあるところの前に、
毎朝「母にお茶・主人にコーヒー」を供えています。そしてすーーっかり忘れほうけ、
冷めきってお茶もコーヒーも、つめたーくなってから「あらぁ、ごめんねぇ、手がかったるいよねぇ」とさげてます。
いつまでも変わらない私…お供えされる側になった母は、どう思っていることでしょう。
母「Yはん、アンタ、よぅこんなん嫁にしてくれはりましたなぁ」
主人「…いや、えっといつもコーヒーは自分で入れてましたから」
母「…すんまへーん」
お茶とお水は毎朝あげて下げたら頂いています。
おぶくさんは早く下げるとご飯無しでお仏壇が
寂しくなるのでつい固くなるまで置いていることが
多いです。
自分と直接かかわっていた人のことだと、
より一層、生きているかのように、
「これ好きだったから」とか、思いますねぇ。
つい忘れておかしなんか食べてしまうと、
あっごめん…なんてやっています。
おぶくさん、というのですね。
私も使わせていただこうっと。
仏壇が極小の上、手前にものがあまり置けないので、
ついつい「小さいもの」「ちょっとだけ」になってます。
仏様を大事にというのも、
伝えていくべきことなのだと思いますが、
仏壇のない家もありますからねぇ。
あまり「簡素」にしすぎるのもなぁなんて、
自分のことを棚に上げて思っています。