マハサラカムだより

マハサラカムでの生活、地域の様子の紹介

アポはなし

2011-01-21 00:37:46 | 日記
   昨日の朝9時半頃、職員から電話がかかる。「今どこにいるのか」「部屋にいる」「これから小学校に行く、一緒に行かないか」という連絡、「今から」「そう」「行きます」というやりとりをして、コンピュータを片付け1階に降りていく。当該の先生はすでに車の前で待機している。せめて前日に連絡をしてくれたら、通訳も依頼して内容もよくわかると思うのだが、それでも、声がかかるだけよいかと思って同行する。
   大学の施設のあるノーノーの近くを通り過ぎた所に小学校はあった。小さな学校で一学年10人くらいの児童である。いきなり入った場所が校長室、しばらくすると3人の先生が来る、そして当該の児童も校長室にやってくる。子どもも含めて記念撮影、学校訪問した場合は必ずあるといってよい記念撮影だし、子どもも入るのが何ともいえない。
  その後、車で少し行ったところの家庭訪問である。田舎の小さな集落の中で軒先だけでの小さな店を営んでいる。子どもは入口すぐの1階に寝かされている。歩行はできない子どもである。母親と先生が立ち話をしている、何を話しているのか全くわからない、始めはおだやかであったが、母親の口調がやや厳しい、半時間近くで話は終わるが、部屋に入って子どもに声をかけたり、様子をみたりしない、そのまま車に乗って次の訪問先に行く。
  家庭訪問した家のすぐ近くの役所のような田舎の農村の雰囲気にあわないきれいな建物、建物の中に入るが、目当てとする人が不在のようですぐに出て、センターに戻った。
  今回の同行ではっきりしたことは、訪問先といつもアポをとっていないこと、もともと日時の約束をしないのがタイの習慣なのかどうかわからないが、日本なら文書で依頼しないと訪問できない内容だし、結局、不在もよくあって無駄が多いように思ってしまう。

アーチャン(先生)

2011-01-20 00:05:47 | 日記
     お父さんが亡くなられた先生、貧しい家庭の聴力障害の学生を引き取って一緒に生活している。タイでは決して珍しいことではないと教えてもらった。11月のロイクラトンの際、会場で2人でいるところを出会って挨拶したのだが、子どもは一人と聞いていたので先生の娘と思っていたら、本学の学生ということだった。
  最近は月に1回程度、3~4人で飲みに行くメンバーなのだが、その際、日本語を教えて欲しいと依頼され、初めて勉強会を持ったのが夕方の6時、始まる前に電話しておられたが1時間の予定が30分ほどした時、電話がかかり、今日は打ち切って欲しいということで中断した、事情はわからなかったが、翌朝、お父さんが亡くなられたということを聞いてびっくりした。
  この先生の担当は、センターや学校に行けない子どもたちの家庭訪問をしたり、障害児や家庭の支援、家庭訪問に同行させてもらっている。その際、一緒に昼食を村の食堂で食べた時、食事の取り方が他の先生と何か感じが異なり、苦労して育ったのではないかという印象を持った。(写真は実家の庭で鶏の親子)
  通夜の席で、「ここが先生の生まれた家ですか」と質問したら、「そう」という返事、数軒の家があるだけで、周りは田んぼや畑である。夜は真っ暗である。とても自分は生きていけない環境である。(写真は通夜) 
  地道に謙虚に仕事したり、その生活の様子から得るところは多々あると思う。言葉がもっと通じたら良いのにとつくづく思った。 (写真は葬儀でいただいた物、リボンの中は1バーツ貨幣、左はカオニョ)

「葬儀」

2011-01-19 01:14:40 | 日記
  亡くなって2日後の夜が通夜、4日後が葬儀である。葬儀が行われた村は、道路も舗装されていないイサーンの貧しさの残る田舎である。葬儀の場所は実家からガタガタ道を10分位車で行った所の集会場と焼却場のある所、遺体の焼却場は寺院の中にあると思っていたが、この村は寺院の外にあった。 
  午後1時にセンターを出発すると聞いて玄関に行ったが、実際に出発したのは2時前、会場に着いた時は、すでに式も後半のようで、僧侶のお経も終わっていた。
  出席していた僧侶は上段に14人、下段に9人、23人が前に座っている。自分も含めて何人かの出席している大学関係者の名前が紹介される。その後、一人ずつ焼却場の前に置かれた棺桶の中に花(紙で作られた)を入れる。棺桶の蓋はなく、遺体が見えるようになっている。
  献花が終わると若い僧侶がお菓子とリボンで包まれた1バーツ貨幣を出席者に向かって節分の豆まきのようにまく。すると爆竹が鳴り、気がつくと焼却場の煙突から煙が出ていた。
  その後、先生の実家に行き、通夜と同じように食事が出される。しかし、通夜と異なり、普通の米飯はなく、カオニョ(餅米)のご飯であった。足下を犬だけでなく、鶏とひなが何度も通っていく。人間に慣れているのか平気である。通夜も葬儀の日もお酒は一切出ないで、飲み物は水とジュース、コーラであった。食事しながら、日本ではお酒が出ることを話したりしていた。宿舎に戻ったのは6時であった。

「通夜」

2011-01-18 00:14:00 | 日記
  職員の父親が亡くなった。当初、葬儀のことだけ連絡があったが、帰宅時、所長に呼び止められ、30分後に先生の実家に出発するがどうするか、と聞かれたので急いで宿舎に戻り、定刻ちょうどにセンターに戻ってきた。大学がバンを出してくれて乗って行く、途中、何カ所かの職員の自宅を回って行く、目的地はコラート方向のマハサラカム県内だが大学から約75キロと聞かされた。 
    夕方の5時過ぎに出て、通夜の実家に着いたのは7時少し前、我々の到着を待っていたようで、到着してすぐに通夜が始まった。
   タイで通夜や葬儀に出席するのは初めてである。ブロックで作られた部屋に入ると僧侶が4人座っている。一番若い僧侶が気楽に話しかけてくる。日本人と聞いてびっくりしている感じであった。センターの職員以外は地元の人たち、センターを出るときにスーツだったらよいと言われたが、スーツを着ているのは自分だけで、黒の喪服を着ているのもセンターの職員だけで、地元の人たちは普段着であった。
  司会の言葉の後、仏像の前と僧侶の前におかれている、それぞれろうそく2本と線香3本に火をつけるのだが、最初に仏像の前のものを所長が火をつけ、終わると、自分の名前を呼ばれて僧侶の前のものに火をつけることに、事前の話もなく、作法もわからないので冷汗がでそうになる。横に座っている先生が、手と体でうまくやり方を教えてくれている。見よう見まねで何とかクリア、お経の朗読をして、一人ずつ線香を棺桶の前の線香台に立てて通夜は終了した。
  その後は、犬がウロウロしている庭で食事、隣に座った先生が冗談で言った「辛くない」という言葉を信じて食べようとしたら、「食べたらいけない」という別の先生の声が、確かにほんのちょっと口にしただけで激辛であった。だけどとてもおいしいご飯と辛くないおかずで、結構、たくさん食べたようである。 この食事場所の隅では、ちょっとした博打が公然と行われていた。(写真)宿舎に帰ったのは10時過ぎであった。

学生の実習の課題

2011-01-17 01:59:55 | 日記

 多くの学生が子どもたちの授業の参観・実習に来る、特に今年度は教育学部の学生、障害児教育を学ぶ学生が増えたということで、午前中の授業だけでなく、午後の授業まで学生が来る、子どもたちの側からみると、いつも実習の学生が大勢いるということになる。
 通訳者がいるときに、大学の教官が、学生の実習について、課題等の意見が欲しいと言われた。
 急なことだったが、とりあえず普段感じていることを話した。まず、学生自身の授業の合間や、授業の始まる前の朝の会等に自発的に来ている学生は、子どもたちとも親しくなり、特に問題もないこと、課題があるのは、授業の一環として教室に入ってくる学生たちであることを言う。
 
具体的には、参観や実習する学生が子どもの人数に比して多すぎること、学生の中には目的意識が無く、邪魔になるだけの学生がいること、1年生から4年生まで来るが、見ていて学年による違いがわからない、学年の目標なり、課題を学生に徹底した方がよいことを言う。さらに、学生だけ来て、指導する教官が来ないのは良くないこと、等の話をした。
 
今、入っているクラスで、最も多いパターンが、一人の子どもに対して、25名程度の学生が実習する形である。誰が誰に対応するのか、事前に調整されてなく、その場で適当に分担するものだから、ある子どもには一人に対して5名の学生が見ているのに、誰も学生がつかない子どもがポツンといることである。大勢いる学生集団に、分担して対応するように言うと、その時は、一応、言われた通りするのだが、たぶん、どのように対応して良いかわからないのだろう、すぐ元の子の集団に戻り、子どもが一人になってしまうことである。(写真) そんな時は、まず指導する大学の教官がいないのも現実である。