徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑫・要塞砲吼ゆ1~

2019-08-30 05:00:00 | 日記
6月19日の日没のことであった。
米地上軍による飛行場攻撃はますます本格化し、すでに飛行場の一角には敵戦車群が突入せり、という報告まで飛び込んできた。
そこで、我々はラウラウ湾を経てタポーチョ山北側の地獄谷方面に移動することになった。
航空隊特有の革製の半長靴では、珊瑚礁や岩の上を歩くことが出来ないので、全員地下足袋に履き替え、それは最後まで使用された。

昼間は、湿度100パーセント近い、熱帯樹のジャングルの中に負傷者と共にひそみ、日没後、夜陰に乗じて移動するのだ。
二日がかりでようやく、ラウラウ湾に面する海軍警備隊の要塞砲台の地下壕に達した私たちは、そこで丸二日間、次の命令が出るまで待機することになった。
医薬品、衛生材料は次第に乏しくなり、できるだけ節約するように命ぜられる。
食料は一日二個の握り飯で、不足分は乾パンをかじり、飲料水も後の補給状況を考えつつ飲まなければならない。

6月22日午後1時頃、地下壕より外に出て、崖上の木陰で外気に触れていたところ、突如としてラウラウ湾内に2隻の敵駆逐艦が進入してきた。
今まで沈黙を守っていた要塞の20センチ砲は、これに対して充分に照準を定め、猛烈なる砲火をあびせた。
さすがに狙いは確かだった。
十数発を連射したところ、一隻は大破し、ほかの一隻も黒煙をふいて、ほうほうの体で、湾外に遁走していくのがはっきりと見えた。

しかし一時間後、小型観測機一機が砲台上空に現われ、旋回し始めた。
早速の返礼であろう。
私たちは早々に地下壕へと飛び込んだ。
暫くすると多数の敵機が飛来し、例のごとき凄まじい急降下爆撃が始まった。
ズシン、ズシンと爆弾の炸裂音と震動音が伝わってくる。
鼓膜の破れるのを防ぐため、全員、指で耳をふさいだり、爆風除けの耳栓を当てる。
この30分の爆撃で、防空壕上の砲台はついに完全に破壊された。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑪・幻の連合艦隊4~

2019-08-29 05:00:00 | 日記
ここにいたってはわが陸軍部隊は、これまで温存してきた数両の軽戦車、野砲、山砲を投入し、全力をあげて米軍に応戦したが、敵の圧倒的兵力と重装備の前には全く歯が立たず、なすすべもなく後退せざるを得なかった。
たのみとする連合艦隊も、第一機動隊からの情報もきたらず、司令、軍医長の表情にも焦慮のかげりが見られ、全員の間にはだんだんと悲壮感がみなぎってきた。

午後3時頃であったろうか、軍医長以下が弾薬庫の外に出て待機していたところ、はるかテニアン島南方洋上のロタ島上空と思われる付近に、黒点の集団が望見された。
それを見たとき皆は、これこそわが空母より発進した友軍機の大編隊と胸を躍らせ、その後の成果をワクワクする思いで待っていた。
しかし、10分、15分が経っても黒点の集団は近づいてこなかった。
それはなんとも、不思議なことだった。

のちに判明したことであるが、その黒点の集団は幻影ではなく、また錯覚でもなく、正真正銘のわが空母より発進した飛行機が、グアム、ロタの基地上空に達した時の、敵の猛烈なる対空砲火の弾幕であったのだ。
それを知った時の失望感は、生まれてこの方体験したことがないほどのものであった。
そして、さらに追い打ちをかけるように、夕刻5時頃になって、連合艦隊による敵撃滅のため『あ号作戦』は終了し、連合艦隊は内地に向け引き返した、と司令部より報告がもたらされた。
そして同時に、これからは、陸海軍は全力をあげて敵上陸部隊を阻止、援軍の再上陸までサイパン島を死守すべし、との命令をうけたのであった・・・・・・・・・・・

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

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父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑪・幻の連合艦隊3~

2019-08-28 05:00:00 | 日記
しかしながら、サイパンの南端ナフタン岬沖2000メートル付近に数隻の駆逐艦が停泊し、日没より夜明けまでわが陣地および夜襲予想地域にたいし、一秒の間隔もおかず200メートルほど上空に、正確に吊光照明弾を打ち上げてくる。
こうこうたる昼をあざむくような光の下で、私たちは命令書を読み取ることができるほどであった。

このため夜襲攻撃隊は、前進はもとより、移動さえ出来ず、かつまた、歩兵陣地からの援護射撃も全くなく、静まり返っているばかりであった。
一部右翼の部隊が突入態勢をとるために僅かに移動したところ、間髪を入れず、敵艦から速射砲弾を撃ち込まれるといった状態であった。
これも敵の進歩した電探射撃によるものと考えられ、私たちは全くのところ釘付けにされたまま、一歩も動けなかった。

そして夜11時頃になってついに、敵陣地への殴り込みは中止するという連絡がきたのだ。
そのあと、私たちは悄然と弾薬庫に引き返し、眠れぬ一夜をすごしたのであった。
翌19日朝9時頃、『米軍部隊が重戦車を先頭にアスリート飛行場南部に進行しつつあり。』との報告をうける。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

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父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑪・幻の連合艦隊2~

2019-08-27 05:00:00 | 日記
明けて6月18日、この日も相変わらず敵機が飛来するが、きのうより機数がかなり減少している。
ガラパン、チャランカノア、タポーチョ山麓の日本陸軍部隊の陣地方面には、おそらく米陸軍の重砲の爆撃音であろうか、いんいんと砲声が聞こえてくる。
午後をまわったころ、私は外に出て、飛行場付近の戦況を見てまわった。
なぜか、このころになると、急に空襲もなくなり、激しい艦砲砲撃もなくなってきた。

あと一日頑張れば、6月19日になれば、わが連合艦隊がやってきて、米陸海軍に壊滅的打撃を与えてくれるものと、部隊の者は全員そう信じていた。
ふと気ずくと、いつの間にか上空には一機の敵機も見えなくなっていた。
それは全く一週間ぶりの6月11日の空襲以来はじめての平静な午後であった。
そして夕刻になると、今まで島の周辺をうずめていた数百隻の米艦船がいずこかに姿を消し、数隻の駆逐艦と、小艦艇が遊よくしているにすぎなかった。

その夜、アスリート飛行場近くに迫っている敵の地上部隊、とくに戦車隊に夜襲を試みることとなった。
それには飛行場東側地区を守備していた陸軍部隊が主力となり、わが航空隊員は陸戦隊を編成してこれに協力することに決し、ただちに攻撃区域、時間などの打ち合わせが行われた。
そして、次のような攻撃要領がたてられた。

夜8時を期して、陸戦の山砲、野砲隊が飛行場西側の米軍部隊にたいして砲撃を開始する。
その間、陸軍部隊を中央にして、両翼に海軍部隊である陸戦隊が位置して待機する。
わが砲兵隊が射撃を開始した15分のちに、射程を敵の後方に延長する。
その間に、まず陸軍の中央部隊が突入、左右から海軍部隊が続いて突入する、という作戦であった。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

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父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑪・幻の連合艦隊1~

2019-08-26 05:00:00 | 日記
すでにアスリート飛行場では、多数の航空機が地上において爆破され、乗るべき愛機を失った30数名の戦闘機の搭乗員たちは、なすすべもなく腕をぶしていた。
第一航空艦隊司令部から、これら搭乗員を救出するための方策が示されたのも、丁度このころであった。それは、南部のナフタン岬沖か、北部のマッピ岬沖(どちらかは記憶はさだかでない。)に潜水艦が浮上する予定であるから、その地点に集結するように、と言う内容であった。

そこで、搭乗員たちは勇躍先発して行き、浮上予定海域近くの海岸に向かったのであったが、しかし予定日時、予定海域にはついに、味方潜水艦の浮上はなく、搭乗員の救出は不成功に終わったのであった。
サイパン島周辺の海域で米海軍は、非常に鋭敏な対潜水艦水中音波兵器を使用し、日本海軍の潜水艦の近接を極度に警戒していた。
このため味方潜水艦の接近、浮上は全く不可能であった、と言われている。

その夜9時過ぎ頃、261空では指令以下全員が、飛行場東端にある隠蔽弾薬庫に一時移動することになり、わが医務隊もアスリート飛行場からはなれ、負傷者を連れてその地下弾薬庫に入ることになった。
弾薬庫は鉄の二重扉をもつ巨大なもので、中には航空魚雷、80番、25番爆弾、3号空中投下焼夷弾などのほか、弾薬類が多数格納されていた。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)