徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜4~

2019-07-31 05:00:00 | 日記
父井手次郎はこの手記を書き始めた頃(昭和51年頃)記載出来ない悲惨な出来事などを色々思い出し、よく私井手純に話してくれた。
その一部を書いてみる。
父は軍医であった為、直接戦闘には加わらず、つねに目を凝らして上空の戦闘機、地上軍の銃撃戦をみていた。
訓練では何度も銃を打ったが、実戦では無かった。
戦闘員が打たれると状況を確認しすぐに駆けつけ医務室に運び治療をする。
ある時、上空の敵戦闘機が被弾しパイロットが脱出しパラシュートを開こうと試みるも開かず150メートルぐらいの所から滑走路の真ん中に叩き付けられたのを目撃。
父と医務隊員2人の3人で大きなバケツとシャベルを持って駆け付けた。
勿論即死だったが、その遺体は頭が畳半畳ぐらいにペシャンコになっており、仕方なくシャベルで何度もすくいバケツに入れる。
体の骨は粉々でとても一人では持てず3人で抱えて布製の袋に詰め込み運び戻った。
その間も銃撃戦は続いた。
気持ち悪いとか怖い気持ちは全くなく、とにかく早く陣地に戻ることしか頭に無かった・・・・と語っていた。
この様な尋常でない出来事は数え切れないほどあった。
悲しんだりしている暇などなく、まさしく、地獄・地獄であった。
こののち益々戦闘が激しくなって行く・・・。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜3~

2019-07-30 05:00:00 | 日記
その日の夕刻、さらに彗星偵察機によりサイパン島東南、約300海里付近に北西に進路をとった敵機動部隊と多数の艦艇を発見せり、との報告に接した。
ここに至って、敵のマリアナ諸島への来襲は決定的となったのである。

わがアスリート飛行場周辺でも、目前に迫った空襲に備え、修理中の航空機および燃料などを迷彩網によって隠蔽し、対空砲、機銃の整備、爆弾、爆薬の分散をはかるなど、昼夜をわかたぬ対戦準備に忙殺された。

あけて10日、わが医務隊では空襲、および艦砲射撃を受けた際の負傷者の処置、戦死者が出た場合はいかに処理するかなどについて、岡本軍医長を中心として私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)、北川歯科中尉、川添衛生少尉らが協議し、その分担任務についても具体的な割り当てがとりきめられた。

戦死、重傷、軽傷者にたいする処置としては、まず戦死者が出たときは、ただちに氏名、階級、場所を庶務主任の浜野主計中尉に報告すること、重傷者は応急処置後速やかに、ガラパンの第五海軍病院に転送する。
軽傷者は戦時治療所において応急治療をおこなうこと、などがとりきめられたのである。

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父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜2~

2019-07-29 05:00:00 | 日記
6月1日。
「あ号作戦」発動準備のため第61航空戦隊は、その所有する航空機の約半数を6月12・13日までに、ハルマヘラ島のカウ基地方面に展開することになり、わが261空においても6月2日早朝、指宿大尉を指揮官として、20数機がこの作戦に参加すべく、暁雲をついて南方に飛び立っていった。

6月2日医務室においても、石田軍医大尉が下士官兵2名をひきい、輸送機でサイパンを離れ、パラオ島を経由してハルマヘラ島へと向かった。
同時に6月9日の午前、テニアン島を発進した長距離高速偵察機彩雲より、メジュロ環礁内に集結していた米機動隊および輸送船団が忽然として行方不明になり、捜索中であるとの報告が届いた。
この一報により261空の士官室は、にわかに緊張した空気に包まれた。
いよいよ一大決戦が目前に近づいたことは、誰の心にも確実に感じられた。

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父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜1~

2019-07-26 05:00:00 | 日記
6月7日・・・メジュロ環礁の機動部隊を主兵力とする米艦部隊は、輸送船団を加えて、さらにその勢力をましつつあり、これこそ数日中に決行される大作戦の集結である。
と確認された。
当時の米軍の進行状況から見ると地上軍はニューギニア、ビアク島を攻略、一方、海軍はパラオ諸島を空襲、艦砲射撃ののち上陸戦により攻略し、さらにフィリピン進攻の公算きわめて大なりと考えられていた。

大本営からは中部太平洋艦隊(司令長官南雲忠一中将)に対し、最高機密の軍機作戦である「あ号作戦」の発動用意が指令された。
そして、同時に中部太平洋艦隊の指揮下にある61航空戦隊は、「戦闘準備に万全を尽くして待機すべし」との命令をうけ、その旨を上田司令より指示されたのであった。

「あ号作戦」とは、勢いに乗じて進撃。
攻略を続ける米機動隊、水上部隊をパラオ諸島、フィリピン南西部およびビアク島の三地点内で補足し、第一航空艦隊の麾下の61航空マリアナ諸島の戦隊は、基地航空隊の全勢力である約350機をもって本作戦に参加し、同時にフィリピン中・南部にて待機中の空母9(艦上機439機)、戦艦7を主とする第一機動艦隊(73隻)と共に航空、および艦隊による洋上大決戦を行おうという作戦であった。

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父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑤・米機現る3~

2019-07-25 05:00:00 | 日記
こうして緊張した日々が続く間にも、飛行場では硫黄島、トラック、パラオ諸島をむすぶ零戦、偵察機、艦爆などの離着陸がさらに激しくなり、一方タナバク水上基地においても、二式や97大艇の動きがしだいに活発となっていった。

士官室の私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)達も極秘電報の回覧によって、ニューギニア方面ビアク島の米上陸軍の攻勢が、いよいよ激しくなった事を知らされ、南太平洋方面の戦況も日ごとに重大な局面に達し、かつ一大洋上航空戦が近づいているのが肌に感じ取られた。

6月5日ごろであったろうか、長距離偵察機彩雲が、マーシャル群島のメジュロ環礁附近に、米空母十数隻を中心とする機動部隊および艦艇多数が集結中、と言う報告をもたらせた。
すでに医務隊としても、空襲や艦砲射撃、さらに最悪の事態というべき米軍の上陸に備えて、アスリート飛行場より北方一キロの丘陵地に、戦時治療所として防空壕を準備していた。

防空壕は高さ2メートル、幅3メートル、奥行約20メートルという壮大なもので、さらに壕入り口からの爆風を避けるため、横に走る8メートルのトンネル3本掘られていて、それぞれ患者収容室、手術室、薬品・医療材料保管室、患者および医務隊員用の食糧・飲料水保存室などに区分されていた。
内部の照明用として、ガソリン発電機が壕の外に用意されており、そこから壕内に配線されていた。

徳川おてんば姫(東京キララ社)