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徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑩・悲しき訣別2~

2019-08-22 05:00:00 | 日記
艦砲砲撃が終わったのを見て、私がタコツボから出て、一部焼失した宿舎の方に行って見たところ、やはりコンクリートの土台に身を寄せていた北川中尉が倒れていた。
駆けつけてみると、炸裂した砲弾の鋭い破片で中尉は、下顎部と背部を大きくえぐられ、出血も甚だしく、意識こそしっかりしていたが、すでに全く話もできない状態であった。
ただちに近くのくぼ地に運んで、とりあえず止血などの応急処置と鎮痛剤の注射をし、その日の夕方近く、戦時治療所に担架で収容したのであった。

さすがの軍医長も、悲痛な顔をされ、「北川中尉、北川中尉!がんばれ、たいした傷ではないぞ!!」 と声を掛けたが、北川中尉はただうなずくだけであった。
そのうち、視線はしだいに上を向いていき、おそらく意識が混濁してきたのであろう。
その日の夕刻ごろ、ついに壮烈な戦死をとげたのであった。

同行した6名の兵のうち、2名が行方不明であったが、あるいは宿舎の下で焼夷性砲弾で戦死したものと考えられた。
これらの3名が、医務隊初の戦死者となったのであるが、北川中尉の遺体だけはかろうじて戦時治療所の近くに埋葬できたのであった。
この日、私は着任以来同室で、もっとも身近であった戦友と訣別する悲運に見舞われたのであったが、その時のことを回想すると、今でも胸の塞がる思いがする。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑩・悲しき訣別1~

2019-08-22 05:00:00 | 日記
6月17日の午前。
私と北川中尉は兵6名を連れて再び負傷者を収容するためアスリート飛行場へ向かった。
昨日と同様に、艦上機が低空で飛来する間隙ををぬって、ようやくアスリート飛行場近くの宿舎に到着する。

みれば、宿舎はまだ破壊されてはおらず、私は久しぶりに私室に入ることができた。
これ幸いとばかり下着類の私物を探していた時、突然、敵巡洋艦からと思われる艦砲の一斉射撃をうけてしまった。
とっさに周囲を見渡せば、すでに北川中尉は宿舎の基礎の幅50センチ、高さ80センチのコンクリート製の土台に身を寄せている。

このとき、下士官の誰かが叫んだ。
「井手中尉、こちらに入ってください!」その声に、私は十数メートル離れた深さ一メートル程の、一人用のタコツボと称する防空壕に
飛び込んでいた。
それは息を継ぐ間もない、約30分にわたる凄まじい連続射撃であった。

宿舎は4棟のうち、3棟が焼夷弾性砲弾で焼失し、その土台に身を寄せていた十数名の兵は、一瞬のうちに爆風と火炎のなかで戦死していた。
戦死者の焼ける臭いと煙で呼吸がつまるようであった。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)