艦砲砲撃が終わったのを見て、私がタコツボから出て、一部焼失した宿舎の方に行って見たところ、やはりコンクリートの土台に身を寄せていた北川中尉が倒れていた。
駆けつけてみると、炸裂した砲弾の鋭い破片で中尉は、下顎部と背部を大きくえぐられ、出血も甚だしく、意識こそしっかりしていたが、すでに全く話もできない状態であった。
ただちに近くのくぼ地に運んで、とりあえず止血などの応急処置と鎮痛剤の注射をし、その日の夕方近く、戦時治療所に担架で収容したのであった。
さすがの軍医長も、悲痛な顔をされ、「北川中尉、北川中尉!がんばれ、たいした傷ではないぞ!!」 と声を掛けたが、北川中尉はただうなずくだけであった。
そのうち、視線はしだいに上を向いていき、おそらく意識が混濁してきたのであろう。
その日の夕刻ごろ、ついに壮烈な戦死をとげたのであった。
同行した6名の兵のうち、2名が行方不明であったが、あるいは宿舎の下で焼夷性砲弾で戦死したものと考えられた。
これらの3名が、医務隊初の戦死者となったのであるが、北川中尉の遺体だけはかろうじて戦時治療所の近くに埋葬できたのであった。
この日、私は着任以来同室で、もっとも身近であった戦友と訣別する悲運に見舞われたのであったが、その時のことを回想すると、今でも胸の塞がる思いがする。
(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)
徳川おてんば姫(東京キララ社)
駆けつけてみると、炸裂した砲弾の鋭い破片で中尉は、下顎部と背部を大きくえぐられ、出血も甚だしく、意識こそしっかりしていたが、すでに全く話もできない状態であった。
ただちに近くのくぼ地に運んで、とりあえず止血などの応急処置と鎮痛剤の注射をし、その日の夕方近く、戦時治療所に担架で収容したのであった。
さすがの軍医長も、悲痛な顔をされ、「北川中尉、北川中尉!がんばれ、たいした傷ではないぞ!!」 と声を掛けたが、北川中尉はただうなずくだけであった。
そのうち、視線はしだいに上を向いていき、おそらく意識が混濁してきたのであろう。
その日の夕刻ごろ、ついに壮烈な戦死をとげたのであった。
同行した6名の兵のうち、2名が行方不明であったが、あるいは宿舎の下で焼夷性砲弾で戦死したものと考えられた。
これらの3名が、医務隊初の戦死者となったのであるが、北川中尉の遺体だけはかろうじて戦時治療所の近くに埋葬できたのであった。
この日、私は着任以来同室で、もっとも身近であった戦友と訣別する悲運に見舞われたのであったが、その時のことを回想すると、今でも胸の塞がる思いがする。
(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)
徳川おてんば姫(東京キララ社)