徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑯・敗北の条件③~

2019-09-30 05:00:00 | 日記
六、 敵の上陸後は、アスリート飛行場攻略の米陸軍は、多数の重戦車を先頭にし、それらは砲身の長い75ミリ砲と13ミリ機銃を搭載し、多量の砲弾を打ち込みながら進撃してきた。
これらに対し日本陸軍は、全島内の50数両のうち、軽戦車(35ミリ砲、7.7ミリ機銃搭載)で対抗しなければならず、しかも数回の夜襲でその大半を失ってしまった。
また日本軍の砲撃で各座、破壊された米軍戦車は、戦車牽引車によりすみやかに後方に退避、修理後再び戦列に復帰していた。

七、 敵の進行があまりにも急なため、アスリート飛行場を死守していたわが陸海軍部隊は、「あ号作戦終了」と同時に、飛行場を撤退したが、その際、隠蔽していた航空機、燃料、弾薬などを爆破することなく、これらは敵の手中に落ちたのだが、この点については、司令部より爆破、焼却の命令はなかった。  

八、 戦闘の初期、日本軍は島内の通信連絡は有線電話を使用していたが、爆破と艦砲射撃のため電話線は寸断され、ほとんど伝令による状況報告が唯一のもので、命令系統は乱れ、陸軍部隊のみならず、警備隊、根拠地帯が各個に米軍の進攻に対抗しなければならなかった。

九、 これに対し米海兵隊と米陸軍の前線部隊は、多数の小型携帯無電機(現在のトランシーバー)を使用、上陸部隊間、または上空の小型観測機、あるいは後方の砲兵、戦車などと連絡を緊密にして攻撃を加えてきた。

十、 米軍上陸後、わが6艦隊司令部および航空機搭乗員救出のため、サイパン島周辺に接近したイ号、ロ号潜水艦十数隻は、米軍の精度の高い電波探知機と水中音波探知機による探索のため補促され、その大部分の11隻が撃沈された。
かくして6艦隊司令部および航空機搭乗員の救出は、全く失敗に帰した。
米軍の圧倒的物量による攻撃は言うに及ばず、電波兵器の進歩、ことに高射砲弾にまで近接信管と言う装置が付いており、また精度の高い電波探知機は大部分の軍艦、輸送船にまで装備されており、対空砲と連動されていたのである。

《かくて、難攻不落と思われていたサイパン島であったが、米軍の膨大な物量と、わが方とは比較にならない科学兵器の前には、いかに精神力をもってしてもなすすべなく、ついに玉砕への運命をたどったのであった。》

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑯・敗北の条件②~

2019-09-27 05:00:00 | 日記
この点について、私のような新任の一軍医中尉が、日本の陸海軍の戦略、戦術などについてのべる資格はないが、この島で米軍の空襲、艦砲射撃につぐ上陸、さらに総攻撃、玉砕までの戦闘経過の様相を自ら体験し、かつ感じたことを述べることが許されるならば、次のような点が”決定的な敗因”であったと思われるのである。

一、 昭和19年6月初旬、マーシャル群島のクエゼリン環礁内に、米機動部隊および、艦船部隊の大艦隊が集結している事をわが方の偵察機が確認しておりながら、「あ号作戦発動用意」で、基地航空隊の主力をハルマヘラ島方面に移動させたことである。
したがってサイパン島のアスリート基地は、航空兵力は半減し、実戦経験の少ない若い搭乗員によって防備されていたのだった。
これでは、敵の空母15隻、戦艦8隻を主とする艦隊や輸送船団に対して、基地航空隊による反撃が全くできなかったのは当然であろう。

二、 数百機の敵艦上機の空襲に対しては、地上対空砲、機銃によって対抗するしかなく、艦上機の集中爆撃、機銃掃射、ロケット弾攻撃のため、わが方の唯一の武器である対空砲火さえも、三日目には沈黙をせざるを得ない状態になった。

三、 敵の戦艦8隻を主とする数十隻はサイパン~テニアン水道から、島内軍事施設、飛行場、水上基地、陸軍陣地に対し徹底的に、また、凄まじい量の艦砲弾、焼夷弾を打ち込み、これに対してわが方は全く打つ手が無かった。

四、 さらに米海兵隊の上陸は艦砲射撃と艦上機の援護射撃のもとマキン、タワラ攻略の戦闘経験ある第2、第4海兵師団で、日本軍の戦術、特に夜襲作戦を熟知した部隊によるものであった。
このため日本陸軍および海軍陸戦隊の水際作戦も、夜襲も、二日目でほとんど壊滅状態になった。

五、 日本陸軍部隊の守備兵力は約25000名であったが、これらは2、3ヶ月前から米軍攻撃直前まで、内地から輸送船で派遣された部隊で、その多くはサイパン入港直前に、米潜水艦の雷撃で沈没したものが多く、重火器、戦車の大半は海没していた。
輸送船の沈没で救助された多数の兵隊は小銃すらも所持せず、ほとんどが丸腰で、ガラパン、チャランカノアの海浜に天幕を張り、陣地構築やタコツボ堀りで作業人夫同様の姿であった。
陸軍の装備兵力は、正規の半分以下と考えられた。
これらは、私がたびたび第5海軍病院に重症患者を輸送中に目撃した事実である。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

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父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑯・敗北の条件①~

2019-09-26 05:00:00 | 日記
昭和18年の半ば過ぎまで死闘を続けたソロモン群島と、東部ニューギニアにおける日米両軍の戦線は、19年に入ってからは、マーシャル、カロリン群島および西部ニューギニアに移り、米軍は特に内南洋方面に加速度的な勢いで進撃を続けて来た。
日本軍は、この不利な体勢を一挙に挽回すべく、陸軍は関東軍より抜粋された機甲部隊をともなった43師団、29師団などの精鋭部隊をマリアナ諸島に派遣して、堅固な防衛体勢をとりつつあった。

一方、海軍は基地航空隊兵力として、一航艦の主力を、サイパン、テニアン、ロタ、グアムの各地に置き、最新鋭機750機を配備、攻勢に転じた米機動部隊、艦船部隊に対して徹底的な打撃をあたえるべき機会を伺っていたのだ。
当時は日本陸海軍はもとより、一般の国民にも、サイパン島は難攻不落の要塞と信じられていたのだ。
それが昭和19年6月11日に始まる機動部隊の空襲、ついで13,14日の二日間にわたる空襲と徹底的な艦砲射撃に引き続き、6月15日未明にはついに米海兵隊、陸軍部隊の上陸を許し、その後僅か三週間あまりで玉砕という、考えられないような経過をたどってしまった。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

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父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢④~

2019-09-25 05:00:00 | 日記
2キロ近く前進して電信山を越える頃には、3人ともに疲労困憊のていで、体力の消耗は極度に達し、軍刀を杖にして歩いていても、その頃から精神状態さえもうろうとして来ていた。
岡本軍医長と訣別してから二日目の午前11時頃、3人とも倒れ込むようにして、ジャングル内で仮眠中、なかば夢の中で英語で喋っている声が聞こえ、私がハッと気が付いて目を覚ますと、木立の間から50メートルほど先に軽機を腰だめにした、数名の迷彩服を着た米兵が近づいてくるのをみた。

私は軍刀以外に武器もなく、反撃する余裕も気力もなかった。
当然、その場で射殺されるものと思っていたが、撃つ様子もなく銃口を向けて、ジャングルから出ろと合図をする。
3人は仕方なくジャングルの外のサトウキビ畑に、這うようにして出て、無抵抗のまま、米海兵隊員に捕らわれの身となってしまった。

私たち3人は、米兵の厳重な監視のもと、ジープと称する小型トラックで、日本軍捕虜収容所に連行され、私とI少尉は将校士官の収容区域に入れられた。
H兵曹は私たちと別の区域に収容されたのか、その日以降、二度と会うことは無かった。

その後、私達は、他の日本人捕虜と共にハワイに送られ、さらに米本土の数か所の収容所を移動しながら、最後にテキサス州のベースキャンプに転送されたのであるが、その間、私たちの最も恐れていた虜囚としての屈辱の日々を送らねばならなかったのである。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢③~

2019-09-24 05:00:00 | 日記
すでに水筒の水もほとんど空になり、のどの渇きはひどくなるばかり。
そこで近くのサトウキビの茎を軍刀で伐採し、茎をかじり水分を吸うが、甘すぎるのと口内が荒れているためか、とてものこと渇きを癒すどころではなかった。
夜明け前に、H兵曹がどこからか、あるいは破壊された民家の貯水槽の底にでも僅かに溜まっていたものであろうか、水を探し出してきて、私たちの水筒に満たしてくれた。

もちろん、何枚も重ねたガーゼでこしても茶緑色をしていたが、食料は乾パンのみで、水がなくてはとうていのどを通ってくれない代物だ。
この時の水のありがたさは、今以って忘れることが出来ない。
ともかく、これでわずかながら飢えと渇きをしのぐことが出来たのであった。
そのあと私たちは、暑い日中は熱帯樹林の中に身を隠し、日が沈むと再び東へ東へと敵占領域内深く侵入していったのだった。

あわよくば敵の機動舟艇か小舟を奪取するか、またはイカダを組んで島を脱出し、北に進路をとれば、北マリアナ諸島のアナタハン、ザリガン、パガンなどの島に行くことも不可能ではない、と考えた。
確かバガン島には、不時着用の滑走路があり、海軍の警備隊も少数ながら駐留しているはずである。
私たちにも一縷の望みがわき、さらに前進することにした。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)