徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

私・井手純~二度目の東京オリンピック④~

2020-03-09 05:00:00 | 日記
10月9日に各地を回っていた4基の聖火は皇居前に到着した。
そして遂に10月10日快晴の中開会式となった。①の記事にも記してあるがボーイスカウトのボランティアで私はこの日まで何回も当日の各国の国旗を揚げる練習をしていた。
朝早く国立競技場に行き、先ずは観客の入場時に五輪のマークが描かれたアルミ製の筒型携帯灰皿を配った。
この頃は喫煙が当たり前だった。
その後自分の揚げる国旗を預かり競技場のポールの所にいた。

あれ程国民に無関心であったオリンピックもいざ始まると日本中が一色に染まった。
自衛隊のブルーインパルスによる5色の五輪の輪は大空にものの見事に成功した。
後で知ったのだが、練習では一度も成功しなかったそうであった。
その素晴らしさは今でも目に焼き付いている。

競技場の上から見た観客の多さに驚いたことも良く覚えている。
周りに合わせて無事国旗を揚げ終わったときは感無量だった。

その後、競技は連日始まり街なかでは街頭テレビの前には黒山の人、人であった。特に最終日のマラソンと、女子の日紡貝塚とロシアのバレーボールの決勝戦は視聴率なんと85%だったという。
3-0で日本が優勝した時は恐らく日本中大騒ぎだったと思う。

そんなドタバタからの熱狂と共に、56年前の東京オリンピックは大成功の内に幕を閉じた。

オリンピックが終わったあとの東京はまさしく”兵どもの夢のあと”であった。
大勢の外国人観光客は去り、選手村も閑散となり、都民はまた前の生活に追われていった。
物価はどんどん上がり、庶民の生活はまた苦しくなった。しかし、オリンピックのお陰で日本中が良く変わったのも事実であると思う。
私は、今年70歳になるが半世紀以上前の東京オリンピックの時、今の私の年代の人は戦争に疲れ多分お祭り気分になれなかった気持ちが少しだけ分かる気がする。

徳川おてんば姫(東京キララ社)


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