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快読日記

読書とともにある日々のはなし
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「呪いの時代」内田樹

2012年02月22日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
《2/19読了 新潮社 2011年刊(初出「新潮45」2008年11月号から2011年6月号) 【日本のエッセイ 社会】 うちだ・たつる(1950~)》

たしかに今、“攻撃的”=“知的”という定義に近い空気、ありますね。
切れ味のいい“辛口”批評ってなんだか頭がよさげです。
相手を言論でやりこめる、あるいは瑕疵をあげつらって切り捨てる。
でも、そういう攻撃性は往々にして破壊を指向するもので、“現状を少しでもよくしよう”という方向にはなかなか向きづらい。
もうそろそろこんな「呪い」の言葉をやめて、他者を祝福し、自分を祝福しようじゃないか、なあみんな、という話。

すごくおもしろかったところを一つあげるなら、
メッセージというのは、聞き手を信用しあてにして発信されるとしっかり届く、という指摘。
たしかに、“相手がわかってくれる”という前提で伝えないとだめですよね。
だから、太宰治の作品が中学生を夢中にさせる。
つまり「この人は自分に向かって何かを一心に伝えようとしている!そんな大人は初めてだ!」と子供(読者)に思わせるということです。
太宰の魅力を“メッセージを受ける側の知性を信頼している”というところにみるのは新鮮でした。

基本的にはいつもの主張と同じですが、今回は震災後の諸問題に言及し、特に原発について“厄介ものの処理”ではなく“原発を供養する”というつもりでやったらどうか、という提案がありました。
だけどこれ、東電も政治家も理解しないだろうなあ。

とにかく、人を呪い、時代を呪い、自分を呪うのはやめにしよう。
劇的に状況がよくなる!誰かがスパッと解決してくれる!なんてことはないんだと心得て、周囲を愛し、自分を愛そう。
それしかわたしたちが生き延びる道はないよ、という提言でした。

“暗いと不平を言うよりも、すすんで灯りをつけましょう”ってことですね。

/「呪いの時代」内田樹
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