父と子ふたたび
又一は、父とは違った方向を目指していた。そこに生じた対立を、蘆花は「父は二宮流に与えんと欲し、子は米国流に富まんことを欲した。」と評している。
しかし、又一の求めたものは、単なる富ではなかったであろう。
又一は札幌農学校で近代的な農業経済学を学んだ。そこでの教育は、明治初期、北海道への米式農法導入を奨めたケプロン報告書の線に沿うもので、クラーク博士の創始した農業実習では学生に労賃が支払われたといわれる。正当な労働に対する正当な報酬という、近代社会とその経済原則とに目を開かせる教育である。彼の陸別開拓計画書でもある卒論『十勝国牧場設計』は、その合理性と綿密さとにおいて、高いレベルのものと言えよう。
「……本牧場は其経営を完全に継続せんため平坦の沃地には牧草穀物を栽培し、放牧地も……牧草を播種して、野草に換ふるに勉めざる可からず。……要するに舎飼、放牧相半ばするの組織たらしめ……加ふるに人工の施設を以てせば必ずや……完璧のの域に達するを得ん。」という近代的大農経営が彼の目標であった。
又一の脳中には、華族農場での「大資本ヲヲロシ、農具等一切米国ヨリ買入レ、何レモ驚クベキ仕事ニテ……畑ハ一望坦々、向端ハ殆ンド見ル事能ズ。」(『開拓殖民進歩景況』)という先進例も浮かんだであろう。また、地代・地価の存在しない北海道の特殊な条件下では、細分化された自作農の創出という回り道よりは、資本主義的大農経営に直接進む方向が、より法則的な道すじであったと言える。
その限りでは、父寛斎が目指した独立農民創出による理想的農牧村落への道は、トルストイのそれと同じように、より実現性の薄い空想論であった。しかし、一面でそれは、当時の日本農業に定着しつつあった寄生的地主制に対して、土地を自らの手にしたいという勤労農民の切実で歴史的な要求を、いち早く反映したものだった。
このように見てくると、蘆花の言う「二宮流に与えんとした」父寛斎と「米国流に富まん」とした息子又一との対立は、単なる『父と子』の世代の違いを超えて、当時の北海道農業の発展にかかわる二つの道、という歴史的・社会的な問題にも深くかかわるものだったと言えよう。
「関寛斎 最後の蘭医」戸石四郎著
「十勝の活性化を考える会」会員 K