阿波徳島行き
寛斎が銚子に帰ってくると患者は押しかけてきた。毎日、溢れるほどの患者で診察は慌ただしかった。
三宅艮斎が、臨床によって西洋医学のよさを知らしめ、関寛斎によって飛躍させた銚子では、西洋医学に携わる医師の存在が漢方医を越えるものとなってきた。口伝えによって、外科医関寛斎の名は銚子の街に広がっていき、押しかける多くの患者に対応する多忙な毎日となった。
麻疹が流行したときも直情、熱血漢であった寛斎は、寝食を忘れて市中を駆け回った。夜中でも早暁でも、患者のもとに走った。どこにでも往診する寛斎の人気は益々高まり、戻って来て半年も経つと、長崎留学の際に演口梧陵から借りた百両のうち半額の五十両を返済することができた。
梧陵は返済を求めてはいなかったが、寛斎にとっては、借りた金は一刻も早く返したかったからである。
患者に信頼され、医業は栄えて、恩人にも半金を返済した寛斎が、生まれ故郷に近い銚子で腰を据えて市井の医師としての道を励んでいこうとしていた矢先、佐倉順天堂の同門須田泰嶺から1通の手紙を受け取った。須田泰嶺は阿波徳島藩蜂須賀公の江戸詰侍医を務めていた。
手紙の内容は、「多忙の折とは存じ候が、江戸へ是非ともお越し願ひたく候」としたためられていた。この一通の手紙が、寛斎の生涯に再び大きな転機をもたらすことになった。
江戸へおもむくと、徳島藩主蜂須賀斉裕の国詰侍医になることを要請されたのである。徳島藩主蜂須賀斉裕は十一代将軍徳川家斉の実子で、徳島藩蜂須賀家と養子縁組して、その十四代藩主として徳島に下っていた。
「侍医にならなければ。徳島の漢方医たちを説得できない。阿波徳島に赴き、貴殿の力で若い藩士を育てて欲しい。江戸の徳島藩邸を私が、阿波の国元を貴殿が、互いに手を取って刷新しようではないか。まず、徳島藩から変えていこう。関、頼む」
須田泰嶺は詰め寄った。同門の須田にそこまで期待を懸けられては断るわけにはいかなくなった。これも自分に課せられた天からの仕事だと思い、また、徳島に赴くことが生まれながらの宿命だと自分に言い聞かせた。そして、寛斎は阿波の国へ渡る決心をした。長崎から銚子に戻ってきて八ヶ月後である。
寛斎は決断すると早かった。明けて一月二十九日、蜂須賀斉裕公の大名行列に従って徳島に向かった。寛斎三十四歳のときである。東海道を西に向かい、静岡、浜松、吉田、京都、淡路を経て、二ヶ月もかけて阿波国徳島に入った。文久三年(一八六三)弥生三月二十八日、桜が散り新緑芽吹く季節であった。
関寛斎 最後の蘭医 戸石四朗著
髙田郁氏は「あい永遠に在り」の中でこの情景を次のように描いている。
『予定通り五日後の深夜、寛斎は江戸から戻った。肝が据わった様子に、あいは夫が江戸で確かな答えを用意したことを察した。
「十一代将軍、徳川家斉さまの御子息で、先代の公方様の叔父上に当たられるかただ。
その藩主の国許で御典医になれ、と言われたのだ」
御典医と言われても。あいは茫然と夫を見返した。
「そんな……。濱口さまのご尽力で長崎へ留学し、この銚子に戻ってまだ半年。今回の留学の話を受けてここを去るのならまだしも、後から降って湧いた話を理由にするだなんて」
士分に転んだのか。俊輔ならきっと、そう怒鳴るに違いない。
藍かじりの百姓の倅が殿様の御典医として士分に取り立てられる。
通常では考えられないほどの大出世ではあるが、あいにはどうしても得心できない。
「医師になった目的が立身出世ならば、私も喜んで徳島とやらへ参りましょう。けれども先生は、強い志を持って医師になられたはずではないのですか」
言い募るうち、あいは夫の顔が苦渋で歪むのを認めて、口を嘸んだ。
あい、と寛斎は嗄れた声で妻を呼んだ。
「わかっている。全て、私自身が一番わかっている。そのうえで決めたことなのだ」
双眸に哀しみが満ちていた。その哀しみが、あいの胸を深々と抉る。』
§
「 百姓の倅が殿様の御典医として士分に取り立てられる」というサクセスストーリーではあるが、背景には濱口梧陵の惜しみない支援とそのことが双肩にかかる重しとして寛斎の心に作用していたのは間違いない。しかし自身の向学心や社会的使命感から、蘭学医として翔ばたく夢も大きかった。自らの出自ゆえの貧困・苦学という宿命を妻あいと共に引きずりながら、前へ、より前へと進んでゆくことを決意したのであろう。
「十勝の活性化を考える会」会員 K
徳島城三の丸石垣と城山
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