『欲望としての他者救済』(金泰明、NHKブックス)を読んだ。
<本の購入動機>
金沢駅から徒歩5分のところにあるリブロで購入。落ち着いた雰囲気の書店である。
入り口付近に第三世界ショップの商品がいくつか並び、カタログが置いてあった。カタログを見ると、SKくん(沖縄)のつくった木工製品が紹介されていました。シャピー@フィリピンの紙製品も載ってました。
ボランティアは利他主義からするものか、利己主義からするものか、これは『50歳からのボランティア』を書いたときに考えたテーマです。
この本の取材過程において、「自分はボランティアをしているつもりはない・・・」というようなことを8割ぐらいの人が口にした。
ある人は「自分が好きでやっているだけなんで・・・」という。こう言う人は、ボランティアを「自分を犠牲にして他人のために尽くす献身的な行為」「自分のためではなく、世のため人のためにする行為」だと捉え、「自分はそんなりっぱな人間ではない」と考える。
ある人は、次のように説明してくれた。「嫌なら辞めればいいのであって、辞めずに続けているってことは、結局のところ自分が好きだからやっているということだよ」。
以下、『50歳からの海外ボランティア』長い引用。
好みでやるボランティア
1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災は、5年半経過した今でも記憶に新しい。この災害が起きたとき、日本全国から多くのボランティアが駆けつけたが、そのことについて評論家の加藤典洋氏は次のように(1995年3月22日の朝日新聞)述べている。
ボランティアとは、英語の辞書を見ればわかるように、無償の行為であり、また、自由意志にたつ行為である。ところでこの「無償」は、この「自由意志」の確保とタイアップしている。しかるに自由意志とは何かといえば、自分のしたいようにしたいことをすることである。そのため、もちろん、一定の社会ルールにのっとりかつヒモ付きにならない。この自由意志の産地直送が、ボランティアの要点である。
・・・・・・今回のボランティア活動に希望があるとすれば、それが、社会の善意、同情、公共性にではなく、個の自由意志という「私利私欲」に立脚する可能性を秘めてはじめて現れていることだというのが、わたしなどの感想である。
私の理解するボランティアは、したがって善意というコトバとはなじまない。社会や国の風潮、善意とぶつかるボランティアだってある(たとえば学生運動はそんなボランティア活動の一つである)。ボランティアはむろん公共的だが、社会や国家の追い風をシッシッと追い払わないボランティア、いや、善意でやっているんじゃありません、自由意志、好みなんです、と言わないボランティアは、つまり非公共的な気分をもたないボランティアは、わたしに言わせれば、不健全なのである。
私利私欲だけが、このボランティアというあやしげなものを苦境にある被災者と5分5分の存在におく。・・・・・・・・
・・・・・・・私利私欲に立ち、その上にモラルを積み上げるということが、私たちのこれまで練習してこなかったことなのである。
「奇特な人」から「普通に人」へ
世の中には二つの考え方がある。一つは、人間というのはまず自分が大事で、次に自分の家族、その次に自分の知り合いや友人、そして余裕があったらその外側の人間に手を差し伸べようという考え方だ。これは利己主義的な立場である。
もう一つは、自分のことはさておき、まずは社会的な弱者や他人のことを慮って行動するべきだという考えだ。これは、利他主義的な立場であり、人間の持つ利己心というのは克服すべき悪という捉え方がなされる。
ボランティアの話題は、後者の文脈に沿って美しい物語として取り上げられることが多い。そこでスポットライトが当たるのは、「普通の人」ではなくて「奇特な人」である。たとえ「普通の人」でも「奇特な人」として描かれてしまう。ここには、利己主義を克服して利他主義を勧めるという道徳的な教訓が隠されている。
しかし、世のため人のため、国家のため世界人類のために自分を棄てて尽くすというようなことが万人にできるのか? この立場の極地にあるのは、他人のために自分の命を投げ出すことだ。特殊な状況を除けば、こういうことは普通の人にできることではないだろう。そもそもできもしない「よいこと」を人間の外側につくるのはどこか歪んでいないか。また、考え方の順序は、自分→家族→知り合いや地域や会社→国→地球というのが自然であって、これが転倒して、自分のことは省みず天下国家や地球を論ずるのは不自然なのである。
そろそろボランティアの話題を「奇特な人」の物語から「普通の人」の物語に転換する時代に来ているのではないか? 究極の利他主義と自分の本性とのギャップを感じながら、「私はそんなにりっぱな事をしているわけじゃないんです」と下を向くのも妙な感じがする。
それよりも、ありのままの自分から出発するボランティア、自分の好みから出発するボランティアという捉え方をした方が実態の合うのではないだろうか。ただし、そこには「私利私欲に立ち、その上に健全なモラルを足していく」という但し書きが付く。公共性と私利私欲を対立するものとして捉えるのではなくて、公共性とは健全な私利私欲の上に立脚するものとして捉えるべきだろう。「ボランティアとは自分も楽しくて、なおかつ相手にも喜んでもらえるささやかな援助です」と上を向けばいい。
<本の概要>
●どんな本?
これは、他者救済を勧める本ではない。なぜ人は困っている人を見たら思わず手をさしのべてしまうのか。考えてみると、たいへん不思議なことである。その不思議さについて考えてみようという本である。
●他者救済とはなにか?
他者救済とは、見知らぬ他者を救命したり、支援したり、あるいは救出したりする行為である。
聖書の隣人愛、孟子の惻隠の心、ルソーの哀れみの情、ヒュームの共感の原理、アレンとの連帯の主張、カントの義務論、アマルティア・センの社会的コミットメント、ロールズのいう生来の義務、フランクルの態度価値、義務以上の徳行、利他主義、宮沢賢治の無私の思想などがある。
他者救済には二つの論調がある。筆者はそれを「欲望としての他者救済」と「義務としての他者救済」と分ける。
● 二つの相違点は?
両者の相違点は、「したい」vs「するべき」、自発性vs義務感、自愛vs利他、「私と他者の欲望の相互承認」vs「最高の善」と整理できる。
●それぞれの支持者は?
<義務としての他者救済>という立場を取る人として、ダライ・ラマ法王、V・E・フランクル、アマルティア・セン、カント・・・などを挙げる。
著者は<欲望としての他者救済>という立場をとる。同じ立場を取る人としてヘーゲルやヒューム、魯迅をあげる。
●筆者の言いたいことは?
<義務としての他者救済>という立場はやはり不自然で無理がある。「どれほどの人間が自分の利益や勘定を一切考慮せずに、つまり義務として困っている見知らぬ他者に手をさしのべることができるだろうか」と述べている。
●著者は?
困っている見知らぬ「他者への配慮」からはじめるのではなく、「自分への配慮」、すなわち自分自身の欲望を大切にすることからはじめて、困窮している他者の欲望にも生きる道筋を考える。そのためには、他者救済の問題を、自分の内側にある感性や理性を拠りどころにして考え行動することが肝要である。言いかえれば、自己犠牲的精神の発揮ではなく、自己中心性から出発する。自己中心性は、自分の「内なる」感性や欲望、つまり「自分らしさ」や「自分性」に関わることである。そうしてこそ、他者の生きたいと思う欲望を気づかい、大切にすることができる、そう思うのである。(同著 P175から)
●ヘーゲルは?
「自分のために配慮をめぐらせればめぐらすほど、他人に役立つ可能性が大きくなるだけでなく、そもそも、個人の現実とは、他人とともにあり、他人とともに生きることでしかない。個人の満足は、本質的に、他人のために自分のものを犠牲にし、他人が満足するよう手助けする、という意味を持つ」(ヘーゲル『精神現象学』長谷川宏訳)
●ヒューイは?
いかなる行為も、その行為を生むある動機が行為の道徳性についての感覚とは別個に人間性のうちにあるのでなければ、有徳つまり道徳的に善とはなり得ない。(ヒューイ『人性論』)
●補足
義務としての他者救済論は、欲望としての他者救済論の欠陥を補完する。個人によって救済されない他者を救済するのは、国家やNGOのような機関である。個人は市民の義務としてそれを支えなければならない。財政支援、物的支援、人的支援など。
ここでは漠然と他者という言い方をした。しかし、著者は親密な他者と見知らぬ他者という分け方をして考察を深めている。
<メモ>
そもそも個人の現実は、他人とともにある。
生きるとはともに生きることである。
人間は関係的存在である。
他者と関係を持つ活動とは、その大部分が他者と助け合う関係である。
人間の条件
生きるとは人間として生きることである。動物として生きることではない。
ヒュームは、困難や苦境に立たされた他者の境遇を、あたかも自分の身に起こったことのように感じることを共感と呼び、共感こそが人間性のうちなるきわめて強力な原理だとした。
私は決して他者から切りはなされた孤独な存在ではない。他者によって支えられ助けられ、逆に私が他者を助け支える、そのようにして「ともに生きよう」とする存在である。
人間は相互承認の関係によって生かし生かされる存在である。生きがいややりがいは相互承認の関係から生まれる。
自分発の思想。
自分を大切に出来ない人間が、他人を大切に出来るはずはない。
21世紀は支援の時代である。ケアの時代である。
関係を通しての自立性
<疑問>
●V・E・フランクルの思想は利他主義だとは思わない。また、フランクルの言う「態度価値」は利他主義とは関係ないように思う。
●文明史的な視点が欠けているのではないか。ボランティア一つとっても、貧しい社会と豊かな社会ではその意味合いは違ってくる。
モダン社会(物質が欠乏している社会)の関心は所有であり、ポストモダン社会(物質があふれている社会)の関心は存在である。所有水準では、利己と利他は対立するが、存在水準では利己と利他は対立せずに両立する。よって、ポストモダン社会では自発支援が可能になる。
●他者救済という言葉は重い。ケア、支援、エンパワーメントなどの類義語もある。
<コメント>
利他主義を信奉する人を社会の中に増やしていこうとする流れには無理がある、また利他主義を生き方のルールにするのは難しい。少なくても私には絶対に出来ない。
そうではなくて、人間とは何かというようなことを押さえた上で、利己主義(この言葉が誤解を生むようなら自愛主義)を深めていく方法の延長線上に、利己主義と利他主義が融合するようなところに着地する考え方を多くの人が持つようになることの方が無理がないし有効であると思う。
この点では著者の同じ意見である。
「義務を深めていくと使命になる」という名言がある。どうだろうか? 私は義務を深めても使命にはならないと思う。「いやいや、なるんだよ」という人もいる。そういう人は使命を神の使命としてとらえている。
これとは別に欲望を深めていった先に使命が出てくるようなルートもあるのではないか。この場合の使命は人間の使命である。義務+神の使命は欲望を抑え込んでおり、人間の使命は欲望を解放している。