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戸田智弘のブログ

ライター&個人投資家&主夫

『世界連鎖恐慌の犯人』(堀紘一著)

2009年02月09日 | レビュー
世界連鎖恐慌の犯人 (Voice select) 世界連鎖恐慌の犯人 (Voice select)
価格:¥ 1,000(税込)
発売日:2008-12-18

 著者の堀紘一は「珍しく怒っている」。何につい怒っているのか? 「今回の金融危機を引き起こした元凶のあまりのあくどさについて」である。そして「本書では、この元凶の呆れた行状を徹底的に暴くことにする」と宣言している。

■引用

 日本では広域暴力団などが意外とたくさんの顧問弁護士を抱えている。知ってのとおり、彼ら暴力団は法律違反ギリギリのところで商売をするため、弁護士の存在が欠かせないからである。インベストメントバンクが多くの弁護士を抱えている理由も、要はこれと同じといってもよい。

 あらゆる論理構成には、必ずアサンプション(前提、仮定)がある。・・・・肝心なのは、この前提が崩れてしまえば、その論理構成もまた意味を失うということである。たとえば、いま問題になっているサブプライムローンは、アメリカの不動産が値上がり続けることを前提としていた。

 CDSはなんと六千兆もの巨大市場であり、極論だが、もしCDSで保証している企業のすべてが倒産したら、保証を引き受けている人に対し、トータルで六千兆円の支払い義務が発生することになるこんなインチキな話はない。・・・そもそも、世界中の国々GDP(国内総生産)をぜんぶ合わせても約五千兆円にすぎない。

*「CDS」とは「Credit default swap(クレジット・デフォルト・スワップ)」の略称。企業が倒産して借金が棒引きになるかもしれないことに対する保証・保険を金融商品化したもの。

 金融資本主義では、世界中の誰も幸せなどになれないのだ。・・・・私たちは、われわれ日本人が得意としてきた産業資本主義に回帰すべきなのである。

CDOは鳥インフルエンザの肉が混ざったミンチ肉

 CDOのマジック 異なったリスクをパッケージにする → 「大数の法則」が効いてボラリティ(上下の変動幅)が減る → リスクが低減する → 格付けが上がる → 格付けがよい割に利回りがよい → 地銀などが買っている

*「CDO」とは「Collateralized Debt Obligation」の略称。社債や貸出債権(ローン)などから構成される資産を担保として発行される資産担保証券の一種。

・・・よくよく考えるべきは「虚」と「実」なのだ。
インベストメントバンクは、もともとは実の部分が多かったが、やがて虚の部分にどんどん手を染めていき・・・・。されに、これがヘッジファンドになると、もうハナから虚なのである。

 私は、ヘッジファンドなどは百害あって一利なしだから、みんな解散させてしまうべきだと思っている。

 株下落後の1年後に不動産の大暴落がやってくる

 不況のときこそ、金持ちと貧乏人の格差がますます広がる

 いまこそアメリカの国策ともいえる金融資本主義とは決別し、日本人は産業資本主義の考え方で進んでいかなければならない。

 アメリカの金融資本主義の世界では、お金も増えそうなところにお金を入れる。・・・大事なのは「どこに入れれば、お金がいちばん増えるか」である。
 この考えは徹底的に間違っている。本来大切なのは、「どこに入れれば、いちばん人の役に立つか」を考えることである。そして実際に人の役に立たせる。人の役に立てば価値が向上する。価値が向上すれば、結果として、入れたお金はリターンを伴って返ってくる。このような考え方に変わらなければならない。
 
 ブルーチップを買え=トヨタ、パナソニック、ホンダなど優良銘柄を買う。ただし、買ったらもう株価をみないこと。ないものとして、5年、10年としまい込んでおくのがいい。

■感想

「私は、ヘッジファンドなどは百害あって一利なしだから、みんな解散させてしまうべきだと思っている」。識者の中でこう言い切っている人は少数だと思う。もちろん証券業界の人はこれに同意しないだろう。きっと「程度問題・・・・」というような言葉で逃げるだろう。

 ヘッジファンドは世の中に必要なのか? 必要ないのか? 大きな世界観が問われるなあ。どうなんだろうねえ? 
 
 パナソニックの株でも買っておくか。いつが買い時か。「もうはまだなり、まだはもうなり」という格言もあるし。

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「「自給」は原理主義でありたい」(宇根豊)『自給再考』(農文協)

2009年01月26日 | レビュー

 宇根豊さんに会ったのはいつだったけ? たぶん7年ぐらい前のことになると思う。場所は東京。ある勉強会に宇根さんがパネリストとして出席していて、それに私も参加した。その場で何冊かの本を買った。
 宇根さんのすごいところは、農業という実践の場にしっかりと土台を置きながら「近代を超える」思想を紡ごうとしていること。

『働く理由』では、

 農業は食料だけでなく、トンボもメダカも涼しい風も安らぐ風景も、水も祭りも人間の生きがいも「生産」しているという新しい発想を「広く深い生産」と呼びたい。従来の「狭い生産」の土台に、こうした「広く、深い生産」が横たわっているのだ。

    宇根豊『「百姓仕事」が自然をつくる』(築地書館)

を引用し、

 田んぼで生産されるのは米だけという考え方は「狭くて浅い」発想であり、田んぼは、米だけでなく、トンボ、ドジョウ、メダカ、タニシ、スズメ、イナゴ、ゲンゴロウ、ミズスマシ、ツクシ、春の七草、野の花、涼しい風、風景、祭り、美意識などを生み出しているという考え方は「広くて深い」発想だ--宇根はこう説明する。
 一般の職場においても、働く場で生み出されるのは、物やサービスだけではないはずだ。「広くて深い」発想でもう一度、働く場所や仕事について見直してみたい。

とまとめた。

「「自給」は原理主義でありたい」(宇根豊)の方に入っていこう。

■引用

「自給」の価値は、近代化によって、「自給」が破壊されてきて(廃れてきて、というような生やさしいものではなかった)、それを守ろうとしたときに、はじめて意識された。「自給」という価値は、明らかに「近代化」への反発と対抗概念として誕生した。これはみごとな原理主義である。

(原理主義とは)「西洋=近代に抵抗しつつ、それを超える文明的な原理を掲げる、思想的なベクトルである」(注:『狙撃される現代史』松本健一著)

 生きものたちの生は、効率を求めることができない。自然は効率とは別の尺度で、時を刻み、循環している。一方人間の方は、時代と共に時間の速度が速くなっている。いや時間の速度は変わらないのだが、効率よく生産しなければならないので、効率よく移動しなければならないので、効率よく消費しなければならないので、だから自然の生きものとつきあう時間が少なくなるのだ。そして繰り返しになるが、生きものへのまなざしが希薄になる。

■おもしろかったところ

1)自然の風とクーラーの風では、どちらが気持ちよく感じるか。また、それはなぜか。ということについての考察。

 この問いに対して8割ぐらいの子供が自然の風の方が気持ちがいいと答えたという。その理由について宇根は次のように分析する。
 
 クーラーの風は、人間がコントロールできる風である。クーラーの風を感じるとき、人は、それを自分という主体と切り離された客体として認識している。つまり、主観と客観が分離された、近代的な、科学的な認識方法でクーラーの風ととらえている。
 一方、自然の風は自分の力ではどうすることもできない。だから、風に身を任せてしまうのである。風に身を委ねてしまうのである。風の中に包まれてしまうのである。そのとき、人は自分を忘れる。無になる。無になって風を迎えることができたとき、人は風と一体になれる。その状態が気持ちいいのだ。
 
 これはなかなか深い洞察だ。
 
2)仕事の自給

宇根さんは、『荘子』外編の「天地」編のなかから、次のような説話を紹介している。

 孔子の弟子の子貢が、一人の百姓が畑で働いているのを見た。その百姓はおけで水をくみ上げては、畑に灌水している。子貢は効率よく水をまくために、はねつるべという機械を使うことを勧める。
 百姓は一瞬むっとした表情をしたが、やがて笑って言った。「私は先生からこう教えられた。『機械があればそれを利用したくなる。機械を利用すれば、機械に頼る心(機心)が生まれる。機械に頼る心が生まれれば、生まれながらの心を失う。生まれながらの心を失えば、雑念があとを絶たなくなる』と。私だってはねつるべを知らないわけではないが、堕落したくないから使わないまでのことだ」。
 子貢は、百姓の言葉に恥じ入って、返す言葉もなかった。
 
 今から2400年前のことである。当時、効率を重んじる価値観はもちろん存在していたが、それに対抗する思想もあったのだということに、私は驚く。
 宇根さんはこの逸話を次のように説明する。
 

なぜあの百姓は「ハネツルベ」を拒絶して、ひたむきに手で水を汲む仕事に打ち込んでいたのだろうか。その仕事自体を楽しんでいたのである。それは単純作業のように見えるかもしれないが、畑の作物のための仕事である。作物が喜んでくれるのである。それならば、ハネツルベを使っても、同じように作物は喜ぶのではないか、と反論する人がいるかもしれない。ところが、ハネツルベを使うと機械に頼る心(機心)が生じ、つい効率を求める心(機心)が、作物が喜んでいると感じる情感を衰えさせるのである。
 
 

キーワードは機心という言葉である。機心とは効率を求める欲望である。これが強くなると、対象との接し方が狭くなる、間接的になる。「豊かなまなざしを失う」、「手足や体で感じる世界が狭くなる」と宇根は表現する。

コメント

「『改革』が日本を不幸にした」(中谷厳、「週刊朝日 2009年1月23日号」)

2009年01月22日 | レビュー

 中谷厳氏はテレビでもおなじみの経済学者である。東京12チャンネルの「ワールドビジネスサテライト」にけっこう出ていた記憶がある。長年、米国流の「規制のない自由な経済活動」を重視する「改革派」として活躍した。とくに小渕内閣の「経済戦略会議」議長代理として竹中平蔵氏と共にさまざまな提言をまとめ、後にその一部が構造改革の一つとして実行された。
 
 その中谷氏が『資本主義はなぜ自滅したのか』(集英社インターナショナル)において、市場経済一辺倒では社会は分断されてしまい、日本人は幸せになれないと断言した。そのエッセンスをまとめたのがこの記事である。
 
 中谷氏も書いているとおり、これは「懺悔」であり「転向宣言」である。

■引用

経済学で記述できることは社会全体の2-3割に過ぎないことが分かってきたのです。

「アメリカ流の構造改革は日本人を幸せにしない」という、確信に近いものを持っています。

私は「改革」のすべてを否定しているわけではありません。政官財の癒着や既得権益の構造にメスを入れることは必要だったし、郵政改革で、郵便貯金などの資金が自動的に不要不急の公共事業に使われるシステムを変えたことは評価します。しかし、・・・・・。かつての私は「改革」の片面しか見ていなかったのです。

この危機的な状況は、グローバル資本主義の「本質」によるものだから・・・。その本質とは何か。・・・一言で言えば、グローバル資本主義は、世界経済を著しく不安定化するとともに、エリート層に都合のいい、大衆支配や搾取のツールになっています。

楽観的に見積もっても米国経済の回復には4~5年はかかるでしょう。

最良の策は「世界中央銀行」を設立して通貨価値をコントロールすることです。さらに言えば「世界政府」ができて、公正な再分配を担うことです・・・

コメント (1)

『自由と民主主義をもうやめる』(佐伯啓思)

2009年01月21日 | レビュー

自由と民主主義をもうやめる (幻冬舎新書) 自由と民主主義をもうやめる (幻冬舎新書)
価格:¥ 798(税込)
発売日:2008-11

『「欲望」と資本主義--終わりなく拡張の論理』や『成長経済の終焉--資本主義の限界と「豊かさ」の再定義』、『市民とは誰か』など、この人の書く本はけっこう買っている。

本の帯がいい。「まだアメリカについていくのか? 金融・経済・精神を蝕む世界のガン 国を崖っぷちから救うのは、和・義・無常の精神しかない」と書いてある。

■コメント

1)右と左

 その昔、私は左翼だった。しかし、35歳ぐらいを過ぎると、自分は右翼なのか左翼なのかがよく分からなくなった。というか、右的なところもあるし、左的なところもあると言った方がいい。この本の前半部分を読んで、自分は反米的な保守--反米という点では左に見えるが、実は左ではなくて、ヨーロッパ的な価値観にシンパシーを感じる保守--であることが分かった。
 
2)ニヒリズム

 文明が高度化することによって、不可避的に生きがいや使命感の喪失という事態は起きてくる。それは、1920年代から1930年代には起きていて、「生き甲斐や使命感を失い、最初から人生を諦めて、ただその日暮らしで快楽を求める世代が登場」していたという。
 
3)着地点

アメリカに追従しても仕合わせにはならない。日本的なものを大事にするような社会の仕組みをと作っていく必要がある。では、日本的なるものとは何なのか。ということで、著者は、、和・義・無常の精神、京都学派、西田哲学、滅びの美学・・・なんかを出してくる。佐伯啓思がそこまで行くか--とちょっと驚いた。でも、結局はそこだよなって気がする。

■引用 ++++++++++++++++++

 かつては、左翼=社会主義への同調者、保守=自由主義・資本主義の擁護者、という簡単な構図が成り立っていた。
 
 なんとも、妙な構図ができてしまったものです。もともとは「革新」や「進歩」を唱えていた「左翼」が、徹底して新しい動きに抵抗し、憲法にせよ、教育にせよ、基本的に現状維持を訴える。むしろ、「保守」の側が変革を唱える、というねじれ図式です。
 
 「左翼」は、人間の理性の万能を信じている。人間の理性能力によって、この社会を合理的に、人々が自由になるように作り直してゆくことができる、しかも、歴史はその方向に進歩している、と考える。
 一方、「保守」とは、人間の理性能力には限界があると考える。人間か過度に合理的であろうとすると、むしろ予期できない誤りをおかすものである。したがって、過去の経験や非合理的なもの中にある知恵を大切にし、急激な社会変化を避けよう、と考える。
 
 現状で、日米関係は必要不可欠なものです。アメリカとの関係を断絶せよ、などというのはただの暴論にすぎません。だから「戦略的親米」はやむをえない選択です。今の日本に他の方法はありません。
 しかし、そのことと、感情的にも心情的にも思想的にも「親米」であることとはまったく違います。
 
「ニヒリズム」との戦い、それこそが、「保守主義」に与えられた課題です。これは、進歩主義では解決できません。

 今日の先進国、特に日本の問題は、自由の抑圧というより「自由の過剰」から、貧困というより「過度の物的幸福の追求」から、価値による束縛というより「価値の崩壊」から生じているのてはないでしょうか。
 ここに、「ニヒリズム」との戦いという、現代の「保守主義」の大きな意義が見出されるのです。そして、個人の自由や物的幸福の追求を極限まで推し進めようとする「アメリカ文明」こそが、ニヒリズムの先端を走っていると言うべきでしょう。
 
 世の中には「非合理的なものの効用」ということがあります。「あいまいなものの効用」もあるのです。大声では言えないが、大事だと思うことがある。私には、非合理的なものを改めれば世の中が豊かになるという、近代主義的・進歩主義的な考え方ですべてがうまくいくとは、とても思えませんでした。
 
 勘違いの原因は、端的に言えば、ヨーロッパにおける「保守」と、アメリカにおける「保守」の違いをまったくわかっていなかったからです。この両者では、考え方が大きく違うのです。
 
「保守的であるとは、見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むことであり、試みられたことのないものより試みられたものを、神秘よりも事実を、可能なものよりも現実のものを、無制限のものよりも限度あるものを、遠いものよりも近くにあるものを、あり余るものよりも足るだけのものを、完璧なものよりも重宝なものを、理想郷における至福よりも現在の笑いを、好むことである。」(イギリスの思想家・オークショット)

 はたしてこのアメリカ型の保守が日本に合うのでしょうか。答えは明らかです。
 私は保守思想の本質はイギリス型に求めるべきだと思います。バークが強く主張したように、その国の歴史に即して社会を変えていくこと、その国の歴史的・文化的なコンテキストに即して問題を解決していくことが、保守の基本です。
 
 シュオエングラーは、西洋文明は没落しつつある、と一種、予言的なことを言うのですが、彼は「文化」と「文明」を区別します。
「文化」は、ある特定の国や地域という風土・土壌の中で育ってきた歴史的な価値をたっぷりと含んだ国民的な産物です。これに対して、「文明」は、風土や土壌や歴史に根を持たない抽象的・普遍的なものです。
 近代ヨーロッパは文化を放棄して文明を追求してきた。大都市という抽象的で根なし草の生を生み出し、抽象的な科学という合理性の形式かをもたらした。中でも重要なのは技術だとシュペングラーは指摘します。技術は普遍的で伝達可能であり、しかも文明を生み出した張本人です。技術への無条件の信仰という技術主義こそが、西欧の繁栄の証であると同時に没落の象徴なのです。
 
 現代文明の重要な問題は、自由も民主主義も結構、富を追求することも結構、基本的人権も結構、合理的科学も結構、しかしそれらがある程度実現し、切実な課題ではなくなったときにどうするか、というところにあります。
 
 ・・・すでに見えない戦争の時代に入っているのかもしれません。
 しかし日本が同じようにむき出しの力の争奪戦に入っても、勝てるわけがない。だとすれば、やはり日本的な価値観を掲げる以外にないのではないでしょうか。
 その価値観のベースになるのは、同義であり、京都学派的な言い方をすれば、「無」や「空」といった日本的精神だろうと思います。
 
 日本は、政治力もなければ軍事力もない。経済力もだいぶ落ちてきている。そうだとしたら、日本が世界に対して発信できるのは、文化の力、あるいは価値の力しかありません。
 
 いったい日本人の労働感の根本にあるものは何だったのでしょうか。
 そこにはやはり、仏教や儒教、されには神道的なものを核にする、日本的な宗教観が深く関わっているように思われます。
 もともと日本人の心の中には、悉有仏性という考え方があります。すべてのものは仏性、すなわち仏の心を持っているという考え方です。
 
 吉田満(注:『戦艦大和の最期』の著者)が見た戦後日本というのはいったいどのようなものだったのか。彼はそれに満足していたのか。(中略)
 自分は時々奇妙な幻覚に囚われる。戦没学生の亡霊が繁栄の頂点にある日本の街をさまよっている幻影を見る。
 散華していった者たちが身を賭して守ろうとした日本はいったいどうなったのか。彼らは今の日本を見て、うれしいと思うのか、哀しいと思うのか。
 彼らは日本の清らかさ、高さ、尊さ、美しさを実現するために死んでいくと覚悟を決めた。それがが今の日本で実現されているのかどうなのか。
 
 福澤諭吉が唱えた路線は、明治政府の路線でもありました。さらに言えば、近代日本が、どうしても取らざるをえなかった道でした。あのとき、日本が近代化を目指さず、文明開化も殖産産業も何もしなかったら、福澤が危惧したように、日本は植民地になっていたでしょう。
 しかし、日本が西洋型の近代国家になることは、日本が西洋列強と同様に、アジアを植民地化する権利を持つことを意味します。その権益を巡っては、当然、西洋列強との衝突が生じます。
 したがって、福澤は、日本が近代化路線を取り続けるなら、最後は戦争になると書いています。
 
 近代国家として日本が西洋化すればするほど、日本的なものが失われていくということです。

■ 目次++++++++++++++++++

第1章 保守に託された最後の希望(簡単だった対立の構図
現状維持の「左翼」、変革を唱える「保守」 ほか)
第2章 自由は普遍の価値ではない(ある古い旅館の光景
全共闘の平和主義と暴力主義 ほか)
第3章 成熟の果てのニヒリズム(ニーチェととの出会い
道徳・正義の裏に潜む権力欲 ほか)
第4章 漂流する日本的価値(世界金融危機の根本原因は過剰資本
アメリカの北部型経済と南部型経済 ほか)
第5章 日本を愛して生きるということ(なぜ今「愛国心」なのか
「愛国心」をめぐる諸概念 ほか)

++++++++++++++++++++++

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『世界一の障害者ライフサポーター』(木村志義著、講談社)

2009年01月08日 | レビュー

世界一の障害者ライフサポーター (講談社BIZ) 世界一の障害者ライフサポーター (講談社BIZ)
価格:¥ 1,470(税込)
発売日:2008-11-08

 拙著『働く理由 99の名言に学ぶシゴト論。』(ディスカヴァー)の中で、この本の著者・木村志義さんの言葉を引用させていただいた。そのあとに何度かメールでのやりとりをした。今回、本を出されたというので早速購入して読んでみた。
 
 いくつか共通点を発見した。身長が180センチあるということ、大学では体育会(木村さんはラグビー、私はバスケット)に属していたことだ。まあそんなことはどうでもいい。
 
●引用1
 

 彼らに快適に暮らしてもらうためには、早急に設備を整えることが必要だ、いわゆる「バリアフリー」である。
 でも--と私は思う
 本当はバリアフリー設備など、なくてもいいのだ。(中略)周りの人たちが障害者に自然に配慮できる世の中になれば、わざわざお金をかけて障害者用の設備を作る必要もなくなるはずだ。

 まったく同感である。障害者の人が自立できるように機械や設備を整えるのは悪いことではないが、それが障害者と健常者の人のコミュニケーションの場、支援する場を奪ってはいけないと思う。産業やITが発達すると何でもかんでもやれることはやってしまいたくなる(特に理科系の人は)のは分かるが、やる必要のないこと、やることが広い目で見るとかえって逆効果になることも多い。

●引用2
 

 ・・・・働く障害者を「アダプティブ・ワーカー」と呼ぶ。
 要するに、決して「能力がない」わけではなく、「きちんとした環境さえ与えれば、それに適応して十分に能力を発揮できる労働者」という意味で、働く障害者を「アダプティブ・ワーカー」としているのだ。

●引用3

 残念ながら、仕事を紹介しようとどんなに努力しても、紹介できない一部の障害者がいる。
 大人になってからでは、いくら頑張っても取り戻せないものがある。仕事を紹介できない人たちは、その大切なものを持っていないのだ。そういう人たちを見ると、必要なときに必要な教育を受けることがいかに大切か痛感する。
 能力や学力のことを言っているのではない。大切なものとは、人間としての常識や、仕事をする上での意識や考え方のことだ。これらは、私が見るところ、幼少期の家庭環境、つまり親の影響で決まる部分が大きい。
 そう痛感したのは、以前、発達障害の生徒を専門に受け入れているある高校で、生徒の就職に向けた三者面談を引き受けた時のことだ。障害を持った生徒たち、そしてその親たちと話し合ううちに、私は「子は親の鏡である」というのは本当だなあとしみじみ思った。親が、常識的な考え方のできる人だと、多くの場合、子供もきちんとその面を教育されていて、やはり常識的なのだ、そして、逆もまたしかり、であった。

 いま自分が置かれている状況を見てみた時、すべては環境や親のせいであるとも言えるし、逆にすべては自分のせいであるとも言える。前者は自分に甘い考え方であり、後者は自分に厳しい考え方である。まあ、これはその人のとらえ方だからどっちでもいい。問題は、未来へのベクトルがあるかどうか、つまり前に進もうとしているかどうかである。こればかりは100%自分の責任である。この責任ばかりは他人に転嫁することはできない。
 
●引用4
 

 ダイバシティ・マネジメント
 
・人を組織に合わせるのではなく、組織を人に合わせる考え方
・単に「多様性に富んだ人材を雇えばいい」とするのではなく、「雇った後、いかにその人材を活用し、組織のパフォーマンスを上げていくか」を重要視する考え方

『ダイバシティ・マネジメント―多様性をいかす組織 』(谷口真美著、白桃書房)を読んでみようと思った。

●考えたこと

こんなことがp74に書いてある。

「当社への志望動機はなんですか」
と質問すると、
「世の中の役に立ちたいからです」
と言う人が多かった。
 その答えを聞くたびに、ちょっと待ってくれよ、と私は言いたくなった。世の中の役に立つ仕事はたくさんある。そもそも、自分の仕事が誰かの役に立つからお金を払う人がいるわけで、誰の役にも立たない仕事なんて、仕事して成立しない。何も障害者のために働くことだけが、「世の中の役に立つ仕事」ではないだろう。
 
 

その通りだと思う。が、「世の中の役に立ちたいからです」という言葉に隠されている意味もよく分かる。つまり、貧しい社会ならともかく豊かな社会においては、自分のやっている仕事が誰かの幸福にストレートにつながるような実感を持ちにくいということだ。昭和の高度成長期においては、自分の開発するテレビや電気洗濯機が人々の生活を豊かにできる(本当に豊かになったのかは怪しいが・・・)--こんな確かな実感を持てた。今はこんなに単純な話ではなくなっている。本来は必要でないものを消費者に買わせたり、物をどんどん陳腐化させて次々と新しい物を買わせたり、金融博打に消費者を巻き込んだりなどなど、そういったビジネスモデルが蔓延しているのが現在である。

●最後に

 著者の木村さんは、今後手がけていきたい事業として「特に就職が難しい障害者」の就職支援を挙げている。頑張って欲しい。

コメント (2)

『同時代も歴史である1979年問題』(坪内祐三著、文春新書)

2009年01月07日 | レビュー

同時代も歴史である 一九七九年問題 (文春新書) 同時代も歴史である 一九七九年問題 (文春新書)
価格:¥ 798(税込)
発売日:2006-05

『同時代も歴史である1979年問題』(坪内祐三著、文春新書)に収められている「イラク派遣「人間不在に防衛論議」ふたたび」のなかに「時間と個人の死との間に関係を見るひとつの見方」(ジョージ・シュタイナー『青髭の城にて』)という言葉が出てくる。深い言葉である。坪内はこの言葉の中に自分の考える超越的なもの(=「カミ」)がいるという。

 神は宗教的な表現である。神ではなくてカミ--カミを「時間と個人の死の間に関係を見るひとつの見方」と表現してみるのはどうだろうか?

 ざっと次のようなことが書いてある。

 ヨーロッパは、伝統(生活実感)としての宗教が強いのに対して、アメリカは理念としての宗教が強い。つまり、ヨーロッパのキリスト教は無意識なものであるのに対して、アメリカのキリスト教は強く意識的なものである。
 こういう違いはあるにせよ、ヨーロッパもアメリカも超越的なものへの信仰がある点では共通している。言うまでもなくイスラムの人は超越的なものへの信仰を持っている。
 ところが日本人の多くは、今や誰も超越的なものへの信仰を持っていない。だから、日本人は九.11以降の世界問題に口をはさむことができない。
 
 そして、坪内は 

・・・特定の宗教集団には加わりたくなかった。しかし、超越的なもの(「カミ」)への信仰は持ちたかった。それを持っていなければ、ただの相対主義者になってしまったなら、抑圧的な信仰者たちの、その抑圧に退治することができない(たとえば9.11問題に口をはさむことができない)。

と述べている。また、べつのところで、

 
 私が彼(ジョージ・スタイナーのこと)に強くひかれたのは、彼が、超越的なものへの狂信を恐れながら、超越的なものそのものには否定的でないことだ。相対主義者ではないことだ。

という。また、福田恆存の「防衛論の進め方のついての疑問」を引用した後、

「人間」、そして「自己欺瞞」というのが福田恆存のキーワードである。
 この場合の「人間」というのは、先の福田訳ロレンス『アポカリプス論』の中の「個人」という言葉と重なる。超越的なものとつながっている「個」である。その超越的なものとの結びつきがないと、「自己欺瞞」に、すなわち「人間不在」におちいる。
 
 

と述べる。

 最後に、「時間と個人の死の間に関係を見るひとつの見方」という言葉を説明するのに、小津安二郎の映画を持ってくる。
 

 小津安二郎の映画には、いつも「時間と個人の死の間に関係を見るひとつの見方」が見事に描かれている。・・・・・・・・・小津安二郎が生きた時代の後に生まれた若い人(といってももう四十歳だったりする)も小津の映画に心ひかれるのは、ある人たちが指摘するように単なるノスタルジアではなく、そこに込められた、「時間と個人の死との間に関係を見るひとつの見方」を確かに受け止めているからではないだろうか、つまり超越的なもの(「カミ」)の存在を感じ取っているからではないだろうか。しかもそれは単なる日本的なものではない。

どうでしょうか?

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『強欲資本主義 ウォール街の自爆』(神谷秀樹、文春新書)

2008年12月29日 | レビュー

強欲資本主義 ウォール街の自爆 (文春新書) 強欲資本主義 ウォール街の自爆 (文春新書)
価格:¥ 746(税込)
発売日:2008-10-17

 この本、かなり売れているようです。

 
 ウォール街にいると、まことに人間の強欲さが手に負えないところまで来ていると痛感する。
 

 と振り出し、
 
 著者の住友銀行時代の元上司・森川俊雄氏の言葉
 

 金融機関は、基本(脇役であること)をうしなってはいけない

と言う言葉を引き
 

 主役である実業を営む方たちの事業構築を助けるのが金融本来の仕事のあり方であり、それこそが見分相応なのである
 

と続ける。
 
 いくつか気になったところを引用する。
 

「成長」とはいった何を目標とするものなどだろうか。
「何のための『成長』なのか」、「何をもって『成長』と考えるのか」
といった基本的な議論が十分になされないままに、数値目標を追いかけた結果は、より強欲な者に富を集中させ、お金以外の価値あるものがないがしろにされ、社会全体としては格差が拡大し、決して幸福とは言えない状況を生み出しているのではないだろうか。

 ある文明史の研究家によれば、上位1%の人に富の30%が集中するとき、だいたい大きな崩壊が起こる臨界点となるようである。
 
  お金よりも大きな問題は「心の問題」ではないかと思う。私がもっとも心痛めているのは、バブルの崩壊からその後の経済の立ち直りにおいて、社会の中で人と人、人と会社との間の「信用の輪」が切れてしまったことである。
  
 日本に課された課題は、現実を直視し、アメリカの子分であることも止め(子分であるということは、従属するとともに面倒を見てもらうことでもある)、身の丈にあった新しい生き方を見つけることではないだろうか。「ゼロ成長時代の生き方」、「ゼロ成長時代に目標とする新たな指標」、「何を以て成功とするのか、その成功の定義」を自ら考え見出さなければいけない時代にいま我々はいるのである。
 
 

また、著者の友人たちの言葉
 

「もう、要らないものを消費者に買わせたり、買わせたものはできるだけ端役陳腐化させ、新製品に買い換えさせるというビジネスモデルは崩壊したのではないかと思う。消費者は明らかに、もっと精神的な満足を求め始めている」(大手エレクトロニクス・メーカー社長)

「金融資本が産業資本を牛耳り、これを振り回すこと自体がそもそもおかしなことだ。金融とは産業を支援する役回りだというもとの姿に戻さなければならない」(不動産会社B社社長)

を引用する。

そして最後に「資本主義そのものが、これまでとは異なる価値観で再建される必要がある」。そのとき「日本から『万民のためになる資本主義』というものが提案されてくる可能性は十分にあるのではないか」。しかし、現状(とくに政治状況)を見る限り「アメリカ以上に将来のビジョンが見えてこない。未だ『過去のアメリカ』を追いかけているようにさえ見える」というように結んでいる。

コメント

東谷暁「グローバリズムの呪縛から目を覚ませ」(中央公論 2009年1月号)

2008年12月28日 | レビュー

 著者の東谷は、素朴な金融至上主義を批判する。最初のページで
 

 小泉政権で経済閣僚を歴任した人物は、ほんの半年ほど前まで「日本の金融立国」を大々的に唱えていた。また、ある著名な経済学者は、モノづくりは捨てて金融工学による利益率の高い金融業にシフトすることを主張してきた。いずれの論者も、世界金融に破綻をもたらした、投資銀行を中心とするアメリカ型金融を賞賛し、日本もあのばくちのような金融による利益追求を至上のものとせよ、と論じていたのである。

 と竹中平蔵氏(?)と野口悠紀雄氏(?)をちくりと刺す。そして『経済はナショナリズムで動く』(中野剛志著、PHP研究所)から
 

グローバリゼーションは、世界経済の自然発生的な流れなどではなく、アメリカという強大な〝国家の政治意志の産物〟なのだ
 
 

と引用する。
 
日本はどうすればいいのか。
 

「金融かモノづくりか」ではなくて、多様な産業構造を。「海外進出か国内維持か」ではなくて、多様な産業展開を。「ハイテクかローテクか」ではなくて、多様なイノベーションを。

・・・外科医が多様性を増加させていったとき、その多様性の一部になるのではなく、内部に多様性を生み出して対応するというのが、これまでの歴史で、日本が成功した危機脱出法だったことは重要だろう。

 というように、日本は多様性に回帰するべきという処方箋を示している。
 
 この記事を読んで、『経済はナショナリズムで動く』(中野剛志著、PHP研究所)と、東谷さんの書いた新書を二冊購入しました。

世界と日本経済30のデタラメ (幻冬舎新書) 世界と日本経済30のデタラメ (幻冬舎新書)
価格:¥ 798(税込)
発売日:2008-11
世界金融経済の「支配者」―その七つの謎 (祥伝社新書) 世界金融経済の「支配者」―その七つの謎 (祥伝社新書)
価格:¥ 788(税込)
発売日:2007-04
経済はナショナリズムで動く 経済はナショナリズムで動く
価格:¥ 1,365(税込)
発売日:2008-10-25

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『角川類語新辞典』

2008年11月20日 | レビュー

角川類語新辞典 角川類語新辞典
価格:¥ 5,355(税込)
発売日:1981-01

 イシス編集学校の「守コース」ではいろんな辞書にお世話になった。なかでも類語辞典はよく引いた。というか、今の今まで手元に類語辞典は置いていたもののろくに引いてやしなかったといった方がいいのかもしれない。こんなすばらしい辞書を遺してくれた人に申し訳なかった。
 
 私の手元には三つの類語辞典がある。『使い方の分かる 類語新辞典』(小学館)、『三省堂類語新辞典』(三省堂)、『角川類語新辞典』(角川)の三つである。

 文章を書くときは辞書を引いて書きなさいと言われる。二つの意味がある。一つは言葉の意味を正確につかんで文章を書くため、もう一つは最も適切な言葉を選ぶためだ。
 
 松岡正剛さんは次のようにいう(千夜一夜「角川類語新辞典」)(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0775.html)。

 
 言葉を生み出す仕事においては、「意味を調べる作業」と「意味を生み出す作業」が交互に平行して進められていく。「意味を調べる作業」には国語辞典や漢和字典が助けになり、「意味を生み出す作業」には類語辞典が助けになる。

 松岡正剛さんは、類語辞典の使い方についても詳しく説明してくれている。例として取り上げている人物についての描写が面白い。一部を引用しておく。是非とも全文を読んで欲しい。

それでは、ぼくがこれをどう使っているかという例を、簡単にお目にかけておく。
 たとえば「しゃあしゃあとした態度」という言葉が浮かんだとしよう。何かの文章を書いていて、「その学者の態度はしゃあしゃあとしていた」と書いてみて、どうもこれではもうひとつぴったりこないと思ったわけである。
 そこで、本辞典の巻末索引で「しゃあしゃあ」を引く。528ページにあった。開いてみると、そこは小項目「平静」の箇所で、中項目は「身振り」になっている。

(中略)

こうしてあらかたの類語連想ゲームがおわる。結局、ぼくは次の類語が気にいって、それを使うことにした。それは「利いた風」という言葉だった。
 そしてこんな文章がうまれていったのである。「その経済学者は横柄というより利いたふうなことばかりを言う奴で、やけに冷静なくせして、他人にいつもちょこざいな印象を与える男だった」というふうに。
 この男、その名を竹中平蔵という実在の人物である。どうですか、『角川類語新辞典』、田原総一郎の番組よりはおもしろい!

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『武者小路実篤 人生詩集』

2008年11月14日 | レビュー

武者小路実篤人生詩集 (1966年) (銀河選書)
価格:¥ 336(税込)
発売日:1966

図書館で『武者小路実篤 人生詩集』(中川孝編、銀河選書)を借りた。その本の一番最初に「この本」という詩が載っている。途中まで引用する。

「この本」

私はこの本をかいた
文章も画も私が生きていたあかし
私からでないと
生まれなかったもの達
見る人が何と思おうとも
其処に私が生きている事は事実
私が死ぬ時があろうとも
この本を見た人は
私が生きていた事を知り
私がどんな人間だったかを知るであろう。
この本は私を愛する事の出来る人の
書斎にあって
時々その人の手によって
あけられ見られるであろう。
その時わたしはその人に私の真心をおくる。

「その時わたしはその人に私の真心をおくる」という文章がいいねえ。年末に私は『続・働く理由 99の名言に学ぶ幸福論。』を出す。私は読者に私の真心をおくる。

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『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由 フェルミのパラドックス』(スティーヴン・ウェッブ)

2008年11月11日 | レビュー

広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由―フェルミのパラドックス 広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由―フェルミのパラドックス
価格:¥ 2,940(税込)
発売日:2004-06

松岡正剛主催のイシス編集学校を受講している。この書評は「破コース」第7回課題として書いたものに少々手を入れたものである。

+++++++++++++++++++++++++++

「宇宙はなぜあるのか」。こんな疑問を覚えたのは20歳の頃である。それ以来この問いは、私の脳の片隅でひっそりとひっそりと佇んでいた。

 著者のウェッヴはイギリスの物理学者である。彼は17歳の時、宇宙には知的生命体がいくつも存在すると予想できるのに、現実にはその兆しがまったく見あたらないという逆説(フェルミのパラドックス)に出会う。それ以来「この逆説に魅了され、今もそれに取りつかれている」。

 本書で著者は50の回答を並べてみせる。「ふむふむなるほど」という答もあれば、ハンガリー人こそが宇宙人である、彼らは引きこもりなので自分の星から出ない、通信する気がない、いつも曇り空だから自分以外の星の存在に気がつかない、というような思わず吹き出してしまうような答もある。

 50番目の解釈が著者の回答である。こんな木星はめったにない、こんな月はめったにない、岩石質の惑星はめったになり、継続的に居住可能な領域は狭い、地球では格好の「進化の活」が入る、地球の地殻構造は特異である、生命の誕生がめったにない、原核生物から真核生物への移行がめったになり、道具を作る種族がめったになり、技術の進歩は必然ではない、人間並みの知能はめったにない、言語は人間のみのもの、科学は必然ではない--などの論拠を示し、その上で「私が思い描いている銀河では、単純な生命は決して珍しくない。複合的な多細胞生物はずっと少なくなるが、それでもないに等しいほどではない。例外的に興味深い生命系は、銀河の中には何万とあるだろう。ただ、知的生命体を備えた惑星は一つだけ--地球だけ--ということだ」と結論づける。

「ああ、やっぱりそうだったんだ」--なんだかすっきりした気分に私はなった。

 著者は本書をこう締めくくる。われわれが宇宙の〝孤児〟だということは寂しい事実に違いないが、もっと悲しいのは人類が「自己意識を持った唯一の動物、愛とユーモアと思いやりの行為で宇宙を明るくできる唯一の種が、ばかげたふるまいで自ら消えようとしているのかもしれない」と。

 冒頭の問いは「われわれはなぜここにいるのか」という問いに重なる。これに対する論理的な答はない。要するにあり得ないことが起こったと言うしかない。「この世界がある、その在るという事実が、神秘的なのだ」(ヴィトゲンシュタイン)。存在には何の根拠もない、存在は奇跡である。そんな言葉を頭の中で巡らせながら、今日は秋晴れのなか友人とテニスをめいっぱい楽しんでこよう。

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『日本の「食」は安すぎる』(山本謙治、講談社+α新書)

2008年10月07日 | レビュー

日本の「食」は安すぎる―「無添加」で「日持ちする弁当」はあり得ない (講談社+α新書 390-1C) 日本の「食」は安すぎる―「無添加」で「日持ちする弁当」はあり得ない (講談社+α新書 390-1C)
価格:¥ 840(税込)
発売日:2008-03

<購入動機>

あおば書店@名古屋市栄で発見。

「日本の「食」は安すぎる--「無添加」で「日持ちする弁当」はあり得ない」というタイトルと、「安さだけの追求が、食品偽装を引き起こす  タブーを犯さなければ生産者は生きていけない  本物には、「適性価格」がある。買い支えよう! 日本の素晴らしい食を!!」という帯の言葉を見て、「その通りだ!」と思って購入した。

<本書のポイント>

 日本の食を巡る状況はどんどん悪くなっている。その根本的な原因は何か? 一般的には、儲け主義に走る生産者にあるというのが常識になっている。しかし、実は、身勝手で無知な消費者の方がより罪が重い。
 
<つかみ>

 ミートホープの社長(当時)・田中稔氏は次のように言った。
 
 販売店も悪いし、半額セールで喜んで買う消費者にも問題がある
 
 名言である。その通りである。しかし、「こいつははとんでもない奴だ」って事で、マスコミはいきりたった。もちろん、彼は犯罪行為をして、罰を受けなければならないが、彼の共犯者は「安いものを求め過ぎる」という点で消費者である。生産者が独断で不正をしてのではなく、製造業者が不正をせざるを得ない状況に追い込まれたというのが現実を照らし出した見方である。

<構造の変化>

 食べ物は、製造→中間流通→小売り→消費者というように流れる。以前は上流の売り手(製造→中間流通)が力を持っていた。しかし、バブル崩壊後、その力は買い手(消費者)の方に移った。

<著者の主張+私の戯れ言÷2>

●消費者は決して弱者ではない。お客様は神様でも何でもない。消費者、生産者、流通業者、三方よしの仕組みを作らねばならない。

●日本の食べ物は安すぎる。一次産業を復活させるには、価格を少なくとも1.5倍、出来れば2倍にしなければならない。

●値段だけでなくフードマイレージを意識する。たとえば、エビアンのような外国産のミネラルウオーターは飲まない。エビアンを飲むのがかっこいいと思っているんだろうが、決してかっこいいことじゃないぞ。水道の水でいいじゃないか。水の味は温度にも左右される。水道の水を冷蔵庫で冷やすだけでぐっと美味しくなる。水道水がどうしても不味いという人は、せめて日本のメーカーでつくってるのを買おうよ。

<ポイント>

人は生産者と消費者という二つの顔を持つ。「安ければいい」という消費者としての考え方は回り回って生産者としての自分の首を絞めることになる。

買い支えるという意識を持つ。

<雑感>

p167の

いちばん好きなカレー屋「インデアンカレー」では、付け合わせに出てくる甘酸っぱいキャベツのピクルスを、2皿大森でオーダーすることにしているくらいだ

に注目した。はじめて聞く店、梅田店がうまいらしい。今度、行こっと!

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『他界からのまなざし 臨生の思想』(古東哲明)

2008年10月04日 | レビュー

他界からのまなざし―臨生の思想 (講談社選書メチエ) 他界からのまなざし―臨生の思想 (講談社選書メチエ)
価格:¥ 1,575(税込)
発売日:2005-04

<購入動機>

 数ヶ月前、『ハイデガー=存在神秘の哲学』(古東哲明、講談社現代新書)を読んだ。難しいことが分かりやすく書いてあって、たいへん面白く読めた。この著者がどういう本を書いているかを調べ、『他界からのまなざし 臨生の思想』(古東哲明、講談社選書メチエ)を発見した。前者は2002年の本、後者は2005年の本である。

<メモ>

 「何のためにいきているのだろう」「人性の目的は何なのか」という問いは少し変である。というのも、生きること、あるいは人間の存在が、それとは別の何かを実現するための道具のように考えられているからだ。もしも、これを認めてしまえば、生きることや人間の存在よりも別の何かの方が重要になってしまう。

 鉛筆ならいい。文字を書くための道具である。消しゴムならいい。文字を消すための道具である。これらはいずれも何かのための使われる。その何かが鉛筆や消しゴムの存在理由である。
 しかし、人生は道具ではない、人間の存在は道具ではない、だから、何かを実現するためのものでも、何かに役立つものでも本来はないはずである。
 
<著者の言葉>

 存在や生はそれ自体で自律的な意味がある、輝かしい。(p159)
 
 地球は遊園地。遊ぶために人間は生まれた。(p159)
 
 ぼくたちは、人生やこの世界にコレッといいきれる究極の目的や意味や根拠がないといって、なげく。だが考えてみると、事情は遊びとおなじことだ。遊びにも、しかるべき目的や理由や意味などない。遊びたいから、遊ぶ。それだけのことである。(p159)
 
 いまという再びかえることのない時間は、明日のためにあるのではない、今日という日は、明日やあさってや来年への途中ではない。<中略>いまが豊かでないのに、明日が豊かなはずがない。(p210)
 
 なぜかしらぬが、たまたまぼくたちはこの世にうまれた。そして、しばしの間とはいえ生きて死ぬ。死んでどうなるか、それもわからない。が、そんあ人生を与えられたということは、気づいてみれば、じつはとほうもない至高のご馳走を与えられたに等しい。だが、ふつうそんな風に考えない。(p41)
 
<本書の中に紹介されている名言>

死になさい そして成りなさい
このひとことを会得しないかぎり
あなたは暗い地上の悲しい客人にすぎません

                  ゲーテ『西東詩集』

この世界がある、その在るという事実が、神秘的なのだ。

        ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』

生きることの目的は生きることそれ自体である。

                          ゲーテ

<コメント>

 存在には何の根拠もない。つまり、存在しなくても(生まれてこなくても、明日この世からいなくなってても)何ら驚くべきことではない。逆に言えば、存在はとてもとても奇異なことである。存在は奇跡である。
 
 というようなことを感得したとき、自分の存在の神秘さに今更ながら気づき、生きていることや今という時間を味わうという表現が自然に出てくる。
 
 生きていることはそれ自体で自律的な意味がある。と言うことは、つまり生きることは遊びと言うことになる。遊びは何か別の目的のためにやるものではない。遊びたいから遊ぶ。未来の何かに向けて今を犠牲にして遊ぶわけではない。今は今のためにある。
 
 こういう視点まで登り詰めた上で「働くこと」や仕事を考えてみたい。
 
 どうやってつなげたらいいだろうか?

<思い出した名言>

・・・「遊び」と「お遊び」とは全然違う。「遊び」は真剣な、全人間的な、つまり命のすべてをぶつけての無償の行為だ、「お遊び」は余技である。無責任であり得る。安定した本業を別に持って、いわば片手間に、自分を危険にさらさないで楽しむ。

おおらかに遊ぼう。真剣に、命がけで。
まさに人生、即、無条件な遊びだ、つまり芸術なのだ。

岡本太郎『眼 美しく怒れ』(チクマ秀版社) 

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『欲望としての他者救済』(金泰明)

2008年10月01日 | レビュー

欲望としての他者救済 (NHKブックス 1121) 欲望としての他者救済 (NHKブックス 1121)
価格:¥ 1,019(税込)
発売日:2008-09-24

『欲望としての他者救済』(金泰明、NHKブックス)を読んだ。

<本の購入動機>

 金沢駅から徒歩5分のところにあるリブロで購入。落ち着いた雰囲気の書店である。
 
 入り口付近に第三世界ショップの商品がいくつか並び、カタログが置いてあった。カタログを見ると、SKくん(沖縄)のつくった木工製品が紹介されていました。シャピー@フィリピンの紙製品も載ってました。

 ボランティアは利他主義からするものか、利己主義からするものか、これは『50歳からのボランティア』を書いたときに考えたテーマです。

 この本の取材過程において、「自分はボランティアをしているつもりはない・・・」というようなことを8割ぐらいの人が口にした。
 ある人は「自分が好きでやっているだけなんで・・・」という。こう言う人は、ボランティアを「自分を犠牲にして他人のために尽くす献身的な行為」「自分のためではなく、世のため人のためにする行為」だと捉え、「自分はそんなりっぱな人間ではない」と考える。
 ある人は、次のように説明してくれた。「嫌なら辞めればいいのであって、辞めずに続けているってことは、結局のところ自分が好きだからやっているということだよ」。 

 以下、『50歳からの海外ボランティア』長い引用。

好みでやるボランティア
 
 1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災は、5年半経過した今でも記憶に新しい。この災害が起きたとき、日本全国から多くのボランティアが駆けつけたが、そのことについて評論家の加藤典洋氏は次のように(1995年3月22日の朝日新聞)述べている。

 ボランティアとは、英語の辞書を見ればわかるように、無償の行為であり、また、自由意志にたつ行為である。ところでこの「無償」は、この「自由意志」の確保とタイアップしている。しかるに自由意志とは何かといえば、自分のしたいようにしたいことをすることである。そのため、もちろん、一定の社会ルールにのっとりかつヒモ付きにならない。この自由意志の産地直送が、ボランティアの要点である。
 ・・・・・・今回のボランティア活動に希望があるとすれば、それが、社会の善意、同情、公共性にではなく、個の自由意志という「私利私欲」に立脚する可能性を秘めてはじめて現れていることだというのが、わたしなどの感想である。
 私の理解するボランティアは、したがって善意というコトバとはなじまない。社会や国の風潮、善意とぶつかるボランティアだってある(たとえば学生運動はそんなボランティア活動の一つである)。ボランティアはむろん公共的だが、社会や国家の追い風をシッシッと追い払わないボランティア、いや、善意でやっているんじゃありません、自由意志、好みなんです、と言わないボランティアは、つまり非公共的な気分をもたないボランティアは、わたしに言わせれば、不健全なのである。
 私利私欲だけが、このボランティアというあやしげなものを苦境にある被災者と5分5分の存在におく。・・・・・・・・
 ・・・・・・・私利私欲に立ち、その上にモラルを積み上げるということが、私たちのこれまで練習してこなかったことなのである。

「奇特な人」から「普通に人」へ

 世の中には二つの考え方がある。一つは、人間というのはまず自分が大事で、次に自分の家族、その次に自分の知り合いや友人、そして余裕があったらその外側の人間に手を差し伸べようという考え方だ。これは利己主義的な立場である。
 もう一つは、自分のことはさておき、まずは社会的な弱者や他人のことを慮って行動するべきだという考えだ。これは、利他主義的な立場であり、人間の持つ利己心というのは克服すべき悪という捉え方がなされる。
 ボランティアの話題は、後者の文脈に沿って美しい物語として取り上げられることが多い。そこでスポットライトが当たるのは、「普通の人」ではなくて「奇特な人」である。たとえ「普通の人」でも「奇特な人」として描かれてしまう。ここには、利己主義を克服して利他主義を勧めるという道徳的な教訓が隠されている。
 しかし、世のため人のため、国家のため世界人類のために自分を棄てて尽くすというようなことが万人にできるのか? この立場の極地にあるのは、他人のために自分の命を投げ出すことだ。特殊な状況を除けば、こういうことは普通の人にできることではないだろう。そもそもできもしない「よいこと」を人間の外側につくるのはどこか歪んでいないか。また、考え方の順序は、自分→家族→知り合いや地域や会社→国→地球というのが自然であって、これが転倒して、自分のことは省みず天下国家や地球を論ずるのは不自然なのである。
 そろそろボランティアの話題を「奇特な人」の物語から「普通の人」の物語に転換する時代に来ているのではないか? 究極の利他主義と自分の本性とのギャップを感じながら、「私はそんなにりっぱな事をしているわけじゃないんです」と下を向くのも妙な感じがする。
 それよりも、ありのままの自分から出発するボランティア、自分の好みから出発するボランティアという捉え方をした方が実態の合うのではないだろうか。ただし、そこには「私利私欲に立ち、その上に健全なモラルを足していく」という但し書きが付く。公共性と私利私欲を対立するものとして捉えるのではなくて、公共性とは健全な私利私欲の上に立脚するものとして捉えるべきだろう。「ボランティアとは自分も楽しくて、なおかつ相手にも喜んでもらえるささやかな援助です」と上を向けばいい。

<本の概要>

●どんな本?

 これは、他者救済を勧める本ではない。なぜ人は困っている人を見たら思わず手をさしのべてしまうのか。考えてみると、たいへん不思議なことである。その不思議さについて考えてみようという本である。 

●他者救済とはなにか?

 他者救済とは、見知らぬ他者を救命したり、支援したり、あるいは救出したりする行為である。

 聖書の隣人愛、孟子の惻隠の心、ルソーの哀れみの情、ヒュームの共感の原理、アレンとの連帯の主張、カントの義務論、アマルティア・センの社会的コミットメント、ロールズのいう生来の義務、フランクルの態度価値、義務以上の徳行、利他主義、宮沢賢治の無私の思想などがある。

 他者救済には二つの論調がある。筆者はそれを「欲望としての他者救済」と「義務としての他者救済」と分ける。
 
● 二つの相違点は?
 
 両者の相違点は、「したい」vs「するべき」、自発性vs義務感、自愛vs利他、「私と他者の欲望の相互承認」vs「最高の善」と整理できる。
 
●それぞれの支持者は?

 <義務としての他者救済>という立場を取る人として、ダライ・ラマ法王、V・E・フランクル、アマルティア・セン、カント・・・などを挙げる。
 
 著者は<欲望としての他者救済>という立場をとる。同じ立場を取る人としてヘーゲルやヒューム、魯迅をあげる。
 
●筆者の言いたいことは? 

<義務としての他者救済>という立場はやはり不自然で無理がある。「どれほどの人間が自分の利益や勘定を一切考慮せずに、つまり義務として困っている見知らぬ他者に手をさしのべることができるだろうか」と述べている。

●著者は?

 困っている見知らぬ「他者への配慮」からはじめるのではなく、「自分への配慮」、すなわち自分自身の欲望を大切にすることからはじめて、困窮している他者の欲望にも生きる道筋を考える。そのためには、他者救済の問題を、自分の内側にある感性や理性を拠りどころにして考え行動することが肝要である。言いかえれば、自己犠牲的精神の発揮ではなく、自己中心性から出発する。自己中心性は、自分の「内なる」感性や欲望、つまり「自分らしさ」や「自分性」に関わることである。そうしてこそ、他者の生きたいと思う欲望を気づかい、大切にすることができる、そう思うのである。(同著 P175から) 

●ヘーゲルは?

 「自分のために配慮をめぐらせればめぐらすほど、他人に役立つ可能性が大きくなるだけでなく、そもそも、個人の現実とは、他人とともにあり、他人とともに生きることでしかない。個人の満足は、本質的に、他人のために自分のものを犠牲にし、他人が満足するよう手助けする、という意味を持つ」(ヘーゲル『精神現象学』長谷川宏訳)

●ヒューイは?

いかなる行為も、その行為を生むある動機が行為の道徳性についての感覚とは別個に人間性のうちにあるのでなければ、有徳つまり道徳的に善とはなり得ない。(ヒューイ『人性論』)

●補足

 義務としての他者救済論は、欲望としての他者救済論の欠陥を補完する。個人によって救済されない他者を救済するのは、国家やNGOのような機関である。個人は市民の義務としてそれを支えなければならない。財政支援、物的支援、人的支援など。

 ここでは漠然と他者という言い方をした。しかし、著者は親密な他者と見知らぬ他者という分け方をして考察を深めている。

<メモ>

 そもそも個人の現実は、他人とともにある。
 生きるとはともに生きることである。
 人間は関係的存在である。
 他者と関係を持つ活動とは、その大部分が他者と助け合う関係である。

 人間の条件
 生きるとは人間として生きることである。動物として生きることではない。
 ヒュームは、困難や苦境に立たされた他者の境遇を、あたかも自分の身に起こったことのように感じることを共感と呼び、共感こそが人間性のうちなるきわめて強力な原理だとした。

 私は決して他者から切りはなされた孤独な存在ではない。他者によって支えられ助けられ、逆に私が他者を助け支える、そのようにして「ともに生きよう」とする存在である。
 人間は相互承認の関係によって生かし生かされる存在である。生きがいややりがいは相互承認の関係から生まれる。

 自分発の思想。
 自分を大切に出来ない人間が、他人を大切に出来るはずはない。
 
 21世紀は支援の時代である。ケアの時代である。

 関係を通しての自立性

<疑問>

●V・E・フランクルの思想は利他主義だとは思わない。また、フランクルの言う「態度価値」は利他主義とは関係ないように思う。

●文明史的な視点が欠けているのではないか。ボランティア一つとっても、貧しい社会と豊かな社会ではその意味合いは違ってくる。

 モダン社会(物質が欠乏している社会)の関心は所有であり、ポストモダン社会(物質があふれている社会)の関心は存在である。所有水準では、利己と利他は対立するが、存在水準では利己と利他は対立せずに両立する。よって、ポストモダン社会では自発支援が可能になる。

●他者救済という言葉は重い。ケア、支援、エンパワーメントなどの類義語もある。

<コメント>

 利他主義を信奉する人を社会の中に増やしていこうとする流れには無理がある、また利他主義を生き方のルールにするのは難しい。少なくても私には絶対に出来ない。
 
 そうではなくて、人間とは何かというようなことを押さえた上で、利己主義(この言葉が誤解を生むようなら自愛主義)を深めていく方法の延長線上に、利己主義と利他主義が融合するようなところに着地する考え方を多くの人が持つようになることの方が無理がないし有効であると思う。
 
 この点では著者の同じ意見である。

 「義務を深めていくと使命になる」という名言がある。どうだろうか? 私は義務を深めても使命にはならないと思う。「いやいや、なるんだよ」という人もいる。そういう人は使命を神の使命としてとらえている。
 
 これとは別に欲望を深めていった先に使命が出てくるようなルートもあるのではないか。この場合の使命は人間の使命である。義務+神の使命は欲望を抑え込んでおり、人間の使命は欲望を解放している。

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『上機嫌の作法』(齋藤孝)

2007年09月03日 | レビュー

上機嫌の作法 (角川oneテーマ21) 上機嫌の作法 (角川oneテーマ21)
価格:¥ 740(税込)
発売日:2005-03

名言集を読んでいるとき、仕事をするときは上機嫌でやれ(アードルフ・ワーグナー)という金言をメモした。

上機嫌か? この上機嫌という言葉が頭の隅の残っていたとき、本屋で『上機嫌の作法』を発見した。

上機嫌だけで一冊の本を書いてしまうとは、さすが齋藤孝である。どうやって一つの切り口を広げていくのかも知りたいと思った。

 上機嫌はバカ、不機嫌は知的というのは嘘。上機嫌と頭がいいとは両立する。気分をコントロールできるということは社会性があるということ。不機嫌が癖になると、心の運動能力が下がる。

 上機嫌の技は天然のご機嫌さではなくて「・・・・にもかかわらず上機嫌」「・・・・・敢えて上機嫌」というようなもの。<にもかかわらず>や<敢えて>に知性の成熟がある。
 
 「背負うものを減らすことで上機嫌が高まる」(P55)で、谷川俊太郎さんの言葉が紹介されていた。 

 言葉というものを使って仕事をして、50年以上になります。疲れ切ったこともあります。自分がね、レモンの絞りかすみたいだと思ったことがある。子どもが小さくて、とにかく次々と仕事を引き受け、自分の中に書くモノがないのに、無理して絞り出してるみたいな感覚があったのね。
 でもそれは「自分の中から出てくる」と思い込んでいたから。僕はその後、自分なんてそんな豊かなものじゃないんだから、むしろ日本語という豊かなものに自分が分け入って、そこから面白い日本語、楽しい日本語、美しい日本語を自分が組み合わせればいいんだ、というふうにイメージが変わったんです。それからは楽になりました。むしろ今は、自分をからっぽにしないと詩が書けない。

 
 自分を空っぽにする。そうすると、豊かなものが自分の中に入ってくる。それを自分のやり方で組み合わせる。そうして「こんなの出ました」といいながら、おずおずと差し出す。こういう感じかなあ。
 
 気分は心の週間である。だから、気分はコントロールできる。
 
 一般論に落ち込むと、悲観論に傾いていく。具体論にいくと前が見てくる。

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