goo blog サービス終了のお知らせ 

戸田智弘のブログ

ライター&個人投資家&主夫

「昨日、大阪駅でキムタク見たで」

2015年01月26日 | 書くこと
苦しいときこそ笑わなアカン! 大阪人の格言
 
徳間書店

の中に

どこに
食いついとんねん?

という格言(?)が紹介してある。標準語に直すと「どこに興味を示しているんだ?」ということになる。本の中に、大阪でありがちなギャグのパターンとして、次のような説明が書いてある。

「昨日、大阪駅でキムタク見たで」
「え-っ、大阪駅?」
「違うて」
「それで、大阪駅はどうやった?」
「そうやな、テレビで見るより、ち、ちがうやろ、大阪駅は!」

本来であれば、キムタクに突っ込みを入れなければならないのに、大阪駅にツッコミを入れたところに、この会話の面白さがある。

普通の会話は次のように進むであろう。

「昨日、大阪駅でキムタク見たで」
「え-っ、キムタク?」
「そう、そう」
「で、キムタクどうやった?」
「そやな、実物もめっちゃかっこいいわ。でも、ちっさいわ・・・」

人は文章を読むとき、書き手の会話をしながら、文字を追っていく。したがって、文章の書き手は、読み手がスムーズに書き手と会話が出来るように意識して、文章をつないでいく必要がある。

「昨日、大阪駅でキムタクを見た」と文章を起こしたら、次に書くべき事ーー最初の文章の情報の不足を埋めるために書くべきことは、昨日でもなく、大阪駅でもなく、キムタクである。

コメント

日本人は泣かなくなった

2012年01月23日 | 書くこと
柳田國男 [ちくま日本文学015]柳田國男 [ちくま日本文学015]
価格:¥ 924(税込)
発売日:2008-05-08


の中に次の文章を発見した。

「人が泣くということは、近年著しく少なくなっているのである(中略)大人の泣かなくなったのはもちろん、子供も泣く回数がだんだん少なくなって行くようである」。

このエッセイが書かれたのは1940年、柳田国男が65歳頃のことである。

 柳田の言わんとするところは、近代化の過程において教育が社会の隅々まで浸透していくことで、人々の言語能力は向上し、それにつれて大人も子供もあまり泣かなくなったということだ。

 人間は自分の置かれた状況に不快さや不自由さを覚えるとき、その状況から脱却しようと試み、自分の感情や思いを何らかの形で表現しようとする。その一つの形が言葉である。しかし、言葉がまったく話せない、あるいは話せてもその能力が著しく低ければ、別の形で表現するしかない。もっともありふれた形が泣くことである。言葉が話せない赤子は泣くことで自分の不快さや不自由さを表現する。涙はある種の身体言語である。身体言語の最たるものが暴力である。

コメント

速読と遅読

2010年11月17日 | 書くこと

S県で炭焼き職人をめざして修行中のBさんからメールをもらった。事業は一進一退のようではあるが、海の幸と山の幸を楽しみながら、家族共々まあまあ元気にやっているようだ。読書についての質問が来た。

●質問

 戸田さんの読書量の多さと内容の濃さに日ごろから感服しています。また相当なスピードで読まれているのだろうなあと想像しています。
 戸田さんはフォトリーディングなど速読技術に関心をもったり特別に学習された経験はありますか? あるいは長年の読書経験の中で独自に編み出されたのでしょうか?
  私自身、仕事関係で読まねばならない本が増え、なかなか趣味の読書(小説、ノンフィクション)が出来ない状況です。先日本好きの友人と食事した際、経営書なんて読むなよ。小説などもっと読むべき本はあるだろといわれてしまいました。
 確かに今のままでは人生味気ない。できれば仕事関連の本は速読でこなせればなあ・・・と夢想しております。
 どこかで立花隆氏は、多読速読のコツを尋ねられ、「とにかく速く読むこと・・・」
と、一言答えたとか。まあ、そりゃそうなんですが・・・。
 何かお知恵があればご教示いただけ幸甚です。

●答

 速読についての本は読んだことありません。自分の知力以上の本(難解で内容の濃い本)を脳みその中に効率的に注入するための画期的な方法があるとは思えません。あるのかなあ? ないよなーー、たぶん。

方法として考えられるのは、書き込みをしたり、ノートに書きうつすことじゃないかな。これは遅読ですね。

難解な本を読む技術 (光文社新書) 難解な本を読む技術 (光文社新書)
価格:¥ 861(税込)
発売日:2009-05-15

先日、この本を買って難解な本の読み方について勉強しました。少しだけノウハウを吸収できました。

 基本的に小説以外の本を読む場合、シャープペン(B)で書き込みをしながら読みます。キーワードや対概念、「第1に、第2に、第3に・・・」を○で囲み、同意できないところは?を入れ、気になったところは文章の横に線を引きます。また、最重要なところ(「なるほど、そういうことか! ここは是非とも自分のものにしたい箇所)はページの上にチェックマークを入れて、後でノートに筆写します。時間のあるときにこのノートを読み直します。原稿を書くときなんかにも参考にすることが多いです。読み直して気がつくのは、忘れていることです。筆写しても忘れてしまうのですから、筆写しないことはもっと忘れてしまうでしょう。

 速読が役にたつのは、自分のレベルと同等、あるいは自分のレベル以下の本を上手に読む技術--どうでもいいところは読み飛ばし、ポイントだけを掬い取る技術--じゃないでしょうか。

 一冊の本をいかに早く読むかということではなく、あるテーマについて一通りの事を知ろうとした場合、いかに必要な情報を効率的に得るかは方法論があると思います。

 たとえば、グリーンツーリズムについての基礎知識を学ぶ必要があるとしましょう。まずは、図書館や本屋で30冊ぐらいの本をリストアップする。そのあと、片っ端から本を読んで、メモを取っても効率的ではありません。次にやるのは、目次を眺めつつ、中身をぱらぱらの見る。良さそうな本を何冊か(3冊~5冊)選ぶ。読む順番を決める。一回目はただ読む。2回目はメモを取るために読む。巻末に載っている参考文献や引用文献を参考にしながら、情報源を広げていく。そんな作業が必要でしょう。

友人の言葉--「経営書なんて読むなよ」は同感です。経営書やビジネス書はピンキリですね。こういう本のパターンは同じですよね。水戸黄門のように同じパターンの話をさくさくと読んで、「うんうんその通りだよな」と頷きつつ、安心感を憶えるのはどうなんでしょうか。お経のようなものとして読めば、精神は落ち着くかもしれませんが。若いうちはともかくある年代になるとあまり読まなくてもいいかなと思う。

「ベストセラーは読まない」は同じです。(『もしドラ』は買いましたが・・・)。あとテレビへの露出が多い人の本は読みません(一部の例外はありだが・・・)。異常なペースで本を出し続けている人(一年に3冊以上が目安かな)の本もだんだん読まなくなります。対談本は99%外れですね(読みやすいのでついつい手に取ってしまうのですが・・・。養老孟司の対談本は例外的に面白い。)。

ビジネス書についていえば、翻訳本も要注意です。洋画よりも邦画の方に厳しくなる傾向があるのと同じで、同じレベルの本でも日本の著者が書いていると見向きもしないくせに、外国人の著者が書いているとひれ伏してしまうという事がありますよね。どうしてもアメリカやヨーロッパのCEOが書いているだけで、なんかものすごくレベルが高くてオリジナリティのあることが書いてあるように錯覚してしまいます。もうそんな時代ではないですね。

読書家の経営者(例えば資生堂名誉会長の福原義春さん)がお薦めする本は読む価値があるでしょう。

以前、ひふみ投信の藤野英人さんが推薦していたので

『ストーリーとしての競争戦略』

ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件 (Hitotsubashi Business Review Books) ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件 (Hitotsubashi Business Review Books)
価格:¥ 2,940(税込)
発売日:2010-04-23

を購入しました。内容の濃い本でした。3000円の価値はありましたね。

外山滋比古さんは

読書の必要を訴える声はしばしば耳にするけれども、多くそれは量的読書である。質的に見れば、ただ知るだけのAの読み、既知の延長線上の未知を解釈するBの読み、さらにまったくの未知に挑むCの読みという三つは、はっきり別のものである。

と言ってます。

速く読める本ではなくて、速く読めない本を手に取るべきじゃないかな。速読ではなくて遅読です。何を言っているか分からない本、著者が何にこだわってこんな本を書いているのかが分からない本を読むと良い。自分の知力の外側にある本です。

あと、テクニック的なところでいうと、

1)読書のナビゲーターを何人か抱えておくこと。友人や知人のほか、有名人でもかまいません。

2)常に読むべき本を絶えず5冊から10冊ぐらいはキープしておくこと

3)家以外の本を読む場所はいくつか持っておくこと。図書館とか、お気に入りの喫茶店とか、電車とか。私も家ではなかなか本が読めません。

 小説を速読する技術はあるのでしょうか? ないですよね、たぶん。これは無意味でよね。
 
 面白い本であれば、速読したいとは思いません。逆にゆっくりと味わって読みたい。まだ別れたくない。もう少し一緒にいたい。「もうこれだけしか残っていないのかあ。もっともっと読みたいのに」というように名残惜しさを感じるのが普通です。司馬遼太郎の長編作品『龍馬がゆく』がちょうどそんな感じでした。

コメント

読むと書く

2010年11月16日 | 書くこと

 書くことは読むことである。というのは、人は文章を書きながら、その書いている文章を同時に読んでいるからである。また、書くことは書き直すことも含んでおり、世の中で筆者が一番その文章をたくさん読む人だとも言える。2番目が編集者、3番目が校正者かなあ。
 
 逆に読むことは書くことである--と言えるかどうか。これは、どうも言えそうもない。
 
 が、よく読むことは書くことである--とは言えそうである。少しだけ文章をいじってみると、よく読むには書きうつしてみることだ。これは、十分に言えそうである。「筆写は精読の方便である」という名言がある。

民俗学者の南方熊楠はこんな言葉を残している。

本を五度読み返すならば代わりに二度写筆せよ、そして毎日必ず日記を怠るな

南方熊楠『父南方熊楠を語る』

コメント

自分の頭で考えてはいけない

2010年11月11日 | 書くこと

はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学的道案内 (PHP文庫) はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学的道案内 (PHP文庫)
価格:¥ 650(税込)
発売日:2004-08

野矢茂樹さんの本をアマゾンで買う。<「考える」ことを考える哲学読本>というコピーに惹かれた。

本の後半部分に

自分の頭で考えてはいけない

と書いてある。

自分の頭で考えることは良いことである。これは誰もが同意しそうな意見である。しかし、著者の野矢さんは「自分の頭で考える」というのは「ふたつの点で正しくない」とおっしゃってます。

一つ目は「頭で」というところ。考えるというのは「頭とか脳でやることじゃない」。

どういう意味か? 「頭で考える」のは良い方法とは言えない。「手で考える」ことのほうが良い方法である。こっちの方が、よく考えることができる。例を挙げよう。478956+988756を暗算で解くのはたいへんだ。しかし、紙に書いて計算すればそれほど難しいことではない。これと同じである。KJ方も同じかな。

もう一つは「自分で」というところ。「自分ひとりで考えるのでもない」のである。

他者の力を借りながら考えなければならない。というか、よく考えるためには、他者の力を借りざるを得ない。

野矢さんは「たとえ自分ひとりでなんとかやっているときでも、そこには多くのひとたちの声や、声にならないことばや、ことばにならない力が働いているし、じっさい、考えることにとってものすごくだいじなことが、ひととの出会いにある」と書いている。

「頭で書くな、足で書け」という名言を思い出した。これは、新聞記者が記事を書くときの心得である。事件は会議室で起きているんじゃない。現場で事件は起きている。だから、現場へ足を運んで、五感を働かせてそこから言葉を立ち上げていく。それが何よりも大事だという事である。

気に入ったところを引用しておきましょう。

 考えるために、ぼくらがもっている唯一の翼が、ことばだ。
 ひとまとまりの状況をさまざまなパーツに切り分けて、そのパーツを関係づける。そして新たな組み合わせを模索する。それをぼくらはことばで作業する。
 だから、いろんなことばをもっているひとはいろんな可能性を試せる。新しいことばを手に入れたなら、それで新しい可能性が開ける。
 問いへの緊張に貫かれた、新たな可能性を手探りすることばは、しなやかで、つやつやしている。
 ことばを鍛えなくちゃ。

ついでにもう一つ。

思いついたことをなんでも書き出してみることだ。・・・自分がもっているものを吐き出す。吐き出したら、なるべくそれを「読む」んじゃなくて「見る」ことができるようにした方がいい。

コメント

「1ヶ月に10冊以上の本を読む人は2%たらず」

2010年10月24日 | 書くこと
読売新聞の全国世論調査(調査日:2010年9月25,26日、全国の有権者:3000人、有効回収数:1815人・・・)によれば、「一ヶ月に一冊も本を読まなかった人は、半数を超えた」という。

「一ヶ月にどれぐらいの本(週刊誌や雑誌を除く)を読みましたか?」と聞いたところ

1冊         17%
2冊         14%
3冊          8%
4冊          3%
5-9冊         4%
10冊以上       2%
読まなかった    52%

という結果になった。

一ヶ月に10冊以上の本を読む人は2%しかいないのか? 以前に読んだ本、『22歳からの国語力』(川辺秀美著、講談社現代新書)には、5%ぐらいはいると書かれていたのになあ。

21日と22日、就活中の大学生に次のような話をした。

++++++++++++++++++++++
大学生のうちに、20代のうちに「考える力」を身につけよう。

理由は二つある。一つ目の理由は、経営者は「考える力」を持っている社員が欲しいからである。経営者が求める人材は高度化している。定められた範囲の課題をまじめにコツコツとこなしていく人材だけでは不十分で、自ら課題を発見し、その課題を自ら解決していく人材、つまり「考える力」を持っている人材が求められている。
 
 二つ目の理由は、「考える力」がないと仕事は面白くない、面白くないと仕事を続けるのは苦痛以外の何者でもない。面白い仕事と面白くない仕事の違いはは、主体性をどれぐらい発揮できるかであり、それは考える力に比例する。
 
考える力をつけるための一番いい方法は文章を書いてみること。書くことは考えることであるといわれている。

書くためには、読まなければいけない。読書の習慣をつけることが大事である。目安は月に10冊。1年で120冊。10年で1200冊。上位5%に入ることができる。

>読書の方法を知っている人はすべて、自分自身を拡大し、存在できる道を増やし、
人生を有意義で、面白く、最大限に活かす力を持っている。  オルダス・ハクスレー
+++++++++++++++++++++++++

読売新聞の調査は、

月に10冊以上の本を読めば、上位2%に入ることができる。月に5冊以上の本を読めば、上位6%に入ることができる。月に4冊以上の本を読めば上位9%に入ることができる。

ということを言っている。

まあ、読む人は読む、読まない人は読まない、ってことだろうけどねえ。

「考える力」を必要とする仕事につく人と、「考える力」を必要としない人の割合がどれぐらいかということを考えてみる必要がある。大学進学率が50%なのだから、50対50という数字は妥当なところだろう。そして、「考える力」を継続的に身につけていくためには、月にどれぐらいの本を読まないといけないのか、についても考えてみる必要がある。最低でも週に1冊ぐらいは必要な気がする。


コメント

「自然」と「肩こり」

2009年02月04日 | 書くこと

A 明治時代以前の日本には「自然」という単語はなかった。

 西洋と日本では自然のとらえ方が異なることはよく知られている。西洋では、 自然は人間と対峙するもので、人間によって管理される客観的対象として理解される。一方、日本では、自然と自分とは分離されておらず、まったく一つのこととして理解される。

 自然と自分という漢字を見て欲しい。両方とも「自」という漢字が入っている。これは偶然ではない。『自分ということ』(木村敏、ちくま学芸文庫)によれば、自然という漢字ができたのは明治時代であり、それまで「自然」を表現する名詞を日本人は持っていなかったという。
「・・・書字文化発生以前から日本人の心の中を連綿と流れ続けている精神史の構造の中では、『自然』と『自己』とは元来同一の自体の両側面として理解されている」ということであり、日本人にとっての自然とは「私自身の自己のいわば分身」であるのだという。

 日本人にとっては、自分と自然とのつながりが薄れていくということは、人間にとって何か大事なものを失っていくだけでなく、日本人特有の精神性を失っていく事態なのかもしれない。

B 英語には「肩こり」という単語がなかった。

『脳と魂』(養老孟司、玄侑 宗久)にこんなことが書いてあった。

 英語にはもともと「肩こり」という単語がなかった。最近になって「stiff shoulder」っていう言葉を使うようになった。言葉がなかったときは肩はこらなかった。言葉ができたとたんに肩が凝るようになった。
 
さてここで問いたい。AとBからどういうことが言えるか?

コメント

『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法②』(福田和也)

2007年08月26日 | 書くこと

ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法 2 ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法 2
価格:¥ 1,313(税込)
発売日:2004-03-19

 『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』(福田和也)が予想以上に良い本だったので、続編も購入した。
 
●文章が巧くなるための王道

 自分の書こうとしているもの、書けるもの(書いたもの)の格差を意識し、苦しみ続けること。
 
 大きなテーマを持つこと。とても難しく、ちょっとやそっとでは書けそうもない、だけど自分にとってはこれを書かなければ死にきれないというようなテーマを書くということ。
 
●未来のために教養の仕込みを続ける

 107歳で死去した、文化勲章受章者の彫刻家平櫛田中は、百歳を超えてなお材料となる木を購入し続けたという。常に自分は未来に向けて、数年先に向けて準備をしているという感覚が、そのときの仕事を充実させる。
 
●テンションを上げるための音楽

 八十%ぐらいのテンションを意識的につくらなければいけない。
 
 『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』(福田和也)ほど内容は濃くないが、電子辞書の使い方、音楽を使ってテンションを上げる方法など、参考になった。

コメント

『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』(福田和也)

2007年08月25日 | 書くこと

ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法 (PHP文庫) ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法 (PHP文庫)
価格:¥ 540(税込)
発売日:2004-07

『すぐに稼げる文章術』(日垣隆)の推薦図書に載っていたので、ついついアマゾンで買ってしまった。

期待以上に良い本だったので、要点をまとめた。

●抜き書きのメリット

 手書きで、抜書きした方がいい。やはり、手を動かすというのは、生理的にキーボドードとは違う部分がある。手で書き写していると、いろいろなことに気がつく。脳が違った動きをするのでしょうか。
 
●「書くコツ」の身につけ方
 
 「自分」を知る、つまり、「自分」の能力と欲求を知っておく。

能力=消化能力(情報や資料の消化する能力)+表現力(=筆力:現在の自分はどのような事が書けるのか)

●取材のコツ

 取材では、相手がしゃべったことよりも、それを聞いて「自分が考えたこと」を書いていく。
 
●なぜ現地取材が必要なのか

「・・・溢れかえる情報を、ただ整理するだけでなく、自分なりに読み、消化し、それを表現するためには取材というプロセスが必要だ、ということです。そうすることによって、ただの情報が生き生きとしたものとして自分に迫ってくる」。
 
 「写生」のために現場へ行く。正岡子規は、「理想」が月並平凡であり、「写生」は多様多彩だという。「写生」することによって、現実そのものの複雑さ、多彩さとふれることができる。

●必要なのは技術よりも認識

 自分が上手いなと思う文章を分解して、分析してみるのが一番効果がある。そうすることで、自分がその文章にどういう魅力を感じているのか、何が自分にとって良い文章なのかが分かる。
 
●分解と分析

 たとえば、「前提」→「問題提起」→「問題条件の検討」→「問題の展開」→「一応の答え」というように分解してみる。

 大事なのは、全体の進行と、段落の中の進行の関係を見ること。両方がスッキリしすぎていると、文章が平板な印象を受ける。
 
●小林秀雄の論理の飛躍

 小林秀雄は、段落の中で論理の飛躍をする。だから、読みにくい。理解するためには、読者は、自分の頭で、その飛躍している部分を補わざるをえない。読者に考えさせることを導く、強いることを意識的にしている。

●スランプの脱出方法。

基本的なフォーム(阿佐田哲哉)をつくっておくことが重要性。たとえば、書けなくても机に座っていること・・・。

●真似できないものの身につけ方

 プロの書き手としてやるには、「空き地」ではなく「混んでいる場所」への出ていかなければならない。それには、取り替えのきかない個性が必要。個性とは、筆力、構成力、取材力、発想力、営業力・・・などの総合力。
 
 書き続けるために、自分に何が欠けているのかを冷静かつ正確に認識すること。欠点が明らかになったら、それを補う方法を考える。

コメント

執筆業と探偵業

2007年06月02日 | 書くこと

 数年前、日垣隆のこんな言葉をメモした。

 文章を書くという営みは(アカデミズムでもジャーナリズムでもフィクションでも企画書でも)探偵に似ている。執筆には、探偵が報告書をしたためる程度の苦痛は伴うとしても、そこに至る「別世界体験」と「謎が氷解してゆく快感」は何物にも代えがたい愉しみとなる。
 そして、事件解決(報告書)のない探偵は食えないのと同様に、たとえ苦しくとも書くという作業を伴わない「知の探偵」は成り立ちえない。(日垣隆「技法の研究」『?』)
 
 なぜ文章を書くのか? 文章を書くのはめんどくさい。にも関わらずなぜ文章を書くのか? 分からないから書くのである。分かるために書くのである。分かっているから書くのではない。分かっていることを書くのではそれは単なる作業になってしまう。分かっていないことを考えながら書くからこそ、クリエイティブな仕事になる。
 
 こういうあたり前のことに気づいたのはそんなに前のことではない。確か「わからないという方法」(橋本治著)を読んで、気づいた事実だった。

コメント

意識的に学ばない限り、文章は書けない

2006年08月30日 | 書くこと

 井上ひさしは『文章読本』の中で次のようにいっている。

 ・・・文章を書くことは、話す、聞く、読むことのように半ば自然発生的なものではなく、強制されてようやく身につく能力であり、それも使っていないとすぐに錆つくという厄介な能力なのである。(井上ひさし「文章読本」)
 

文章を書く力を修得するのは簡単ではない。なぜか? 一番の理由は、学校で文章の書き方を教えてくれないからだ。読書感想文や作文を書かせられるが、どういうふうに書いたらいいのかについて体系立てて教えてくれるカリキュラムは存在しない。文章の書き方を勉強したい人は、それを独学で修得するしかないのである。
 
 簡単ではない理由がもう一つある。文章力を付けるには、実践あるのみだからだ。文章を書く→読む→直すという作業を繰り返すことで少しずつ文章を書く力はついていく。
 
 しかし、油断は禁物である。井上ひさしも書いているが、文章を書くということは、実践から遠ざかるとすぐに錆びついてしまう能力なのである。これがやっかいだ。3年間英語圏で生活してかなりのヒアリング能力がついた人でも、3カ月間、英語圏を離れて日本語圏で生活しただけでヒアリング能力が急激に落ちるのと似ている。

コメント

机の前に座ることが大切なのだ

2006年08月21日 | 書くこと

 書くことが思い浮かばない。適切な言葉が浮かばない。出来上がった文章に納得がいかない。論理が飛躍している。こんな感じだから、書くことは苦痛である。書くことが快感だと思える瞬間はあるにせよ、書いている間中、楽しくて楽しくてしょうがないということはない。

 毎日書くのだ。(中略)書けるときに書き、書けないときに休むというのではいけない。書けないと思ふ時にも、机の前に座るのだ。すると、ついさっきまで、今日は一字も書けないと思った筈なのに、ほんの少し、行く手が見えるような気がするから不思議である。書くことが大切なのではない。机の前に座ることが大切なのだ。机の前に座ってペンを握り、さァ書く、という姿勢をとることが大切なのである。自分をだますことだ。自分は書ける、と思ふことだ。(宇野千代『阿吽の呼吸』)

 
 現代風に直せば
 
 ・・・書けないと思うときでもパソコンの前に座るのだ。すると、ついさっきまで、今日は一字も書けないと思ったはずなのに、ほんの少しだけ光が差してくる、そんな気がするから不思議である。まずは、パソコンの前に座ることが大切なのだ。嫌々ながらも、パソコンを立ち上げてキーボードの上に手を置いてみる。その姿勢が大事なのである。自分をだますことだ。自分は書けると、思うことだ。
 
 というふうになろうか。

コメント

本を一冊書くためには

2006年07月25日 | 書くこと

 高校卒業後、一年間予備校(河合塾)に通った。そこで会ったのが牧野剛さんという現代国語の先生だ。知る人ぞ知る有名人である、名古屋では。著書も多数ある。
 
 はてなダイアリーには「ビールを飲みながら講義する、生徒を野球観戦に連れていって審判を応援するなど、受け狙いの奇を衒った行動で有名。小学生の頃から『マルクス=エンゲルス全集』を愛読し、政治活動に身を投じていたらしい」とある。

 とにかく話が面白かった。空いた時間は息抜きに牧野さんの授業を聞きに行った。「タモリより面白い」という友人がいたが、まんざらウソでもなかった。学生時代の話、特に学生運動の話をおもしろおかしく語ってくれたのを覚えている。
 
 その牧野さんが最後の講義で「1000冊の本のリスト」を配った。そして「大学に入ったら本を読め。目がつぶれるまで本を読め」と生徒をあじった。そのアジテーションが効いたのか、私は500冊ぐらいの本を大学時代に読んだ。

 昔だったら、本を一冊書くためには、千冊の本を読まなければならない、といわれたんです。初めて本を書く時はそうなんですよ。あなた方が何かの本を書くときに、参考書を五、六冊読んで書いても、それは本じゃないんです。それは、ただの切り貼りというもの。
 ところが、二冊目を書くときは六百冊ぐらい、三冊目は四百冊ぐらいになって、二十冊目ぐらい書くと、ほとんど読まなくても欠けるようになってきて、資料を追加しさえすれば書けるんです。これが人間です。どんどん書けるようになるんですね。書き散らしてるんですね。じゃ、質が落ちるかというと、そうともいえないのね。(鷲田小彌太『10年後の「幸福」を考える技術』)

 私の場合も、始めて本を出した38歳までに1000冊ぐらいは読んでいると思う。大学時代に500冊、その後、コンスタントに年間50-100冊ぐらいは読んでいるから。
 
 鷲田さんは「二十冊目ぐらい書くと、ほとんど読まなくても欠けるようになってきて、資料を追加しさえすれば書けるんです」と書いている。私はまだその境地まで達していない。今のところ8冊。20冊まであと12冊。

コメント

書くことは気持ち悪い

2006年06月26日 | 書くこと

『創造的論文の書き方』という本を読んだ。目に留まったのは次の文章だ。

「言葉」が適切に選ばれていないときに、敏感に気持ちが悪いと感じる。「つながり」の悪い文章を見たときに、なんとかつなぎの工夫をしなければと気持ちの悪さを感じる。「整理」ができていない内容を書き散らしていると、その散乱と無秩序に気持ちが悪くなる。「しみ込み」が起きていないと、腰がどっしりとすわっていないようで気持ちが悪い。そうした気持ちの悪さの感受性が欲しい。(伊丹敬之『創造的論文の書き方』有斐閣)

 
 自分なりにまとめてみた。
 
 書くという作業は、頭の中にある<もやもやとした物体>を頭の外に出すことである。その時、どういう言葉を選ぶか、どうやって言葉と言葉をつないでいくか、どうやって文と文をつないでいくかを考えながら文章を連ねていく。
 
 出来上がった文章を見たとき、言葉の選び方がずれていたり、文と文が論理的につながっていなかったり、何を言いたいかが分からなかったりするとすると、何かしらの「気持ち悪さ」を覚えるはずだ。この「気持ち悪い」という感受性を大切にしたい。

 感受性が鈍い人は自分の書いた文章に甘くなる。感受性の強い人は自分の文章に厳しくなる。自分の文章に甘い人よりも自分の文章に厳しい人の方が文章の完成度は高い。これは当たり前のことである。

コメント

書くことは考えることである

2006年06月25日 | 書くこと

 書くことは考えることである。どういうことかというと、書くためには考えなくてはならないということだ。実は、文章を書くという作業は、考えることがその大部分を占める。

 人は考えたこと以上のことを書くことはできない。「文章を書くことが得意な人は、考えなくてもスラスラ書けてしまう」と考えている人もいるようだが、これは明らかに間違いだ。いい文章を書く人は、様々なことを多くの時間を割いて考えている。

 しかも、良い文章を書く人は、ぼんやりとではなく論理的に考える能力を持っている。ぼんやりとしか考えられなければ、ぼんやりした文章しかできあがらない。論理的で説得力がある文章は、論理的な思考力があってのものなのだ。
 
 文章を書く力をつけるということは、イコール、物事を論理的に考える力をつけるということになる。
 
「悩むな、考えろ」とはよくいわれる言葉である。悩むとはぼんやりと考えることだ。「悩むな、考えろ」とは「ぼんやりと考えるな、論理的に考えろ」と言い換えられる。論理的に考えようとするなら文章を書いてみればいい。良い文章が書けないのであれば、それは論理的に考えていないことになる。

コメント