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自然との和解への道〈上〉 (エコロジーの思想) |
みすず書房 |
『自然との和解への道〈上〉 (エコロジーの思想)』と『自然との和解への道〈下〉 (エコロジーの思想)』(2005年6月 、クラウス・マイヤー=アービッヒ)を読んだ。
著者は、1936年ハンブルク生まれの哲学博士。1972年から2001年までエッセン大学で自然哲学を講じ、現在はエッセン大学名誉教授を務めている。その経歴はユニークである。一つは、マックス・ブランク研究所で量子力学を研究した物理学者でもあることで、哲学者でもあり、物理学者でもある点で文理融合型の学者である。もう一つは、ドイツ連邦議会のエネルギー政策審議会の一員として、またハンブルク市の大臣として、環境政策の政治決定にも携わってきたことで、思想家でもあり、実践家でもある点だ。
さて、上下巻をあわせると六百頁にも及ぶ労作である。この作品をアービッヒは「人間の外にある自然は、われわれの自然的共世界である」(日本語版の序文より)と要約する。
自然的共世界とは「植物と動物、大地と海、川と湖、風と雲、空気と光は、もともとわれわれのためにあるのではなく、とりわけ世界のなかにわれわれとともにあり、すなわち、それらはわれわれとともにあり、われわれはそれらとともにある」ということを意味している。こういう思想の中には、われわれは自然に対して使用価値ではなく、固有価値を認めるべきであり、人間と自然は対立するものではなく、人間と自然はともにあるものあるいは人間は自然のなかにあるものであるという考え方が含意されている。
アービッヒが「自然との和解」というタイトルを掲げるということは、現状において人間と自然は敵対関係に陥っているという認識がある。その敵対関係--具体的にいえば人間が自然を科学技術の力で支配している関係--から自然との和解へと進むべきだ。アービッヒはそう主張する。
私がいちばん興味深かったのは、アービッヒの思想の中に、「人間を自然史の中に位置づけようとする視点」が貫かれていることだ。アービッヒによれば、人間は自然史的には多くの生物のうちの一つであるが、同時に、それらのうちでも特殊な存在である。どういう点で特殊なのか? それは、人間が表現能力や言語能力を持っていることだ。「自然を言語化し、そして自己にいたらしめることが、私の考えによれば地上にある数百万の動物種や植物種のなかで人間に与えられた課題である」と述べている。
<自然を支配する>生き方と<自然と和解する>生き方を考えたとき、私たちはどっちの方が「よき生活」を送ることができるだろうか? ここで私たちの前に「『よき生活』とは何か」という問いが立ち上がってくる。アービッヒは、「われわれは自然との和解においていまよりも本質的によく生きることができると、私は考える。」と述べ、「世界が、人間がいないときよりも人間とともにあるときにこそ真により美しく、またよい善きものであるような仕方で、われわれは世界のうちに善きものをもたらすことができないであろうか」と続けている。
「自然の支配」から「自然との和解」へという整理の仕方は、「物の豊かさ」から「心の豊かさ」へ、成長から成熟へという流れを考える際、もう一段、広い&深い&長い視点から考えるためのツールとして有効である。広井良典が『定常型社会』(岩波新書)で提示した「自然や共同体からの離陸」から「自然や共同体への着陸」へという整理の仕方にも通底するものを感じた。