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戸田智弘のブログ

ライター&個人投資家&主夫

小さくなる世界を受け入れる――ステルス値上げへの向き合い方

2025年04月29日 | コラム(小異大義)

 ChatGPTと会話しながら、相談しながら、校正してもらいながら、ステルス値上げについての文章を書いてみた。ステルス値上げとは、価格を据え置いたまま、商品の大きさや内容量を目立たない形で減らす行為のことです。

●タイトル

小さくなる世界を受け入れる――ステルス値上げへの向き合い方

●本文

最近、気づかぬうちに中身が減っている商品にでくわす機会が増えている。値段は変わらないのに、ポテトチップスの袋は小さくなり、軽くなっている。実際のところ、内容量が90g → 85g → 60gと段階的に減っているではないか。チョコレートの粒が少しだけ小さくなったり、その板が少し薄くなったりもしている。私が長年に渡って飲み続けていた野菜ジュースの容器がいつの間にか1000ccから900ccになっていた。最初は気がつかなかった。少し後に気がつき、「やられた~」と思った。しかし、こういう変化を、私たちはいつの間にか「まあしょうがないか」と受け入れ始めている。


価格を据え置いたまま、商品の大きさや内容量を目立たない形で減らす行為を<ステルス値上げ(Shrinkflation)>と呼ぶ。「目に見えるかたちでの値上げ」ではなく、「目に見えない形での値上げ」だ。日本に限らず、世界中で見られる現象で、海外でも話題になっている。

なぜステルス値上げが起こるのかは言うまでもないだろう。原材料費やエネルギー価格、物流コスト、人件費の高騰など、企業はさまざまな負担に直面している。消費者だってそんなことは分かっているが、「ふつうの値上げ」にはついつい反発してしまう。そうなると、企業としては「見えない値上げ」という選択を取らざるを得ない。ステルス値上げは「消費者に嫌われずに企業が生き残るための苦肉の策」であり、「消費者心理との静かな駆け引き」でもある。

もちろん「企業にだまされないぞ!」と<ステルス値上げ>に目を光らせ、怒りを露わにするのもひとつの選択である。しかし、怒ったところで何かが変わるわけでもないし、生活必需品を買わないわけにはいかない。

そこで思い出したいのは、私たちは消費者であると同時に生産者であるということだ。ならば、生産者の苦悩や努力に想像力を働かせてみるのもいい。「お客様の健康を考えて<適量>を見直しました」と苦しい言い訳を考える社員、見た目の容量を変えずに実質的な内容量を減らすようなデザインを必死になって考える担当者―――そういう社員の悪戦苦闘に思いをめぐらせてみよう。

デフレからインフレへと言う大きな変化をまずは受け入れよう。そして、目に見えないレベルでの小さな変化--気がつかないうちに内容量が少しずつ小さくなっているという変化--を面白がるしかない。大きな変化と小さな変化を「理性」と「寛容さ」で受け止める。決して、怒りや失望につなげてはいけない。そんな態度が、これからの時代を軽やかに生きるヒントになるかもしれない。

「万物は流転する」と言ったのは哲学者のヘラクレイトスである。すべてのものは変化していくという意味だ。この世界は少しずつ、静かにではあるが、確実に変わっている。ステルス値上げもそのひとつの現象にすぎない。その小さな変化をどう受け止め、どう生きていくかは私たち次第だ。

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ついでに、上の文章を「夏目漱石風にリライトした文章」と「コラムニストの中野翠風にリライトした文章」も添付しておきます。もちろん、これは私がリライトしたわけではなく、ChatGPTがリライトした文章です。

ChatGPTによれば

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夏目漱石の文章の特徴は、

*一文が長めで、リズムに「ゆらぎ」と「余韻」がある
*理知的だけれども、どこか人間臭い感情がにじむ
*対象を少し距離を置いて眺めるような、俯瞰した視点
*漢語・和語のバランスが上品
*説教臭くならず、しかし思索が深い

中野翠さんのコラムの特徴は

*肩肘張らない、日常に寄り添った語り口
*ちょっとひねくれていて、でもどこか優しい
*理屈っぽすぎず、「私はこう思うんだけどね」という軽やかさ
*時に皮肉をきかせるが、重くなりすぎない
*かっちり結論づけず、「まあ、世の中そんなもんだよね」と曖昧に終わる

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とのことです。「なるほど!」 。他人の文体に意識的になれるという意味で、たいへん勉強になる!

○夏目漱石風にリライト

 小さくなる世界を受け入れる――ステルス値上げへの向き合い方

近ごろ、何とはなしに手に取った商品の手応えが、いささか頼りないことに気づいた。  
ポテトチップスの袋は以前より軽く、チョコレートの板も幾分薄く、長年馴染んだ野菜ジュースの容器さえ、気づけば千ミリリットルを下回っていた。  
無論、初めはさほど深く考えもしなかったが、あるときふと、「あれ」と思い当たり、妙な寂しさに襲われたものである。  
「だまされた」と一瞬の憤りを覚えたが、しばらくして、「まあ、仕方あるまい」と呟く己の声を聞いた。

価格を改めることなく、内容量を密かに減ずる。  
世にいう<ステルス値上げ(Shrinkflation)>とは、かような手段を指すらしい。  
すなわち、露骨なる値上げを避けつつ、商品の実質を縮小することで、経済の荒波をしのごうとする知恵である。  
この現象、なにも日本に限ったことではなく、洋の東西を問わず広く見受けられるという。

されば、なぜ斯様(かよう)な手立てが講じられるに至ったか。  
それは多言を要すまい。  
原材料の高騰、運搬費の増加、人件費の上昇――すべてが企業の双肩に重くのしかかるなか、  
消費者たる我々も、事情を知らぬわけではないが、いざ目の前で値札が跳ね上がれば、やはり手を引っ込めずにはいられぬ。  
企業側にしてみれば、正攻法の値上げは死を意味し、目立たぬ形で負担を調整するほか術がないのである。  
ステルス値上げとは、要するに「生きるための方便」であり、また「消費者心理との水面下の攻防戦」である。

ここで「だまされてたまるか」と声を荒げる者もあろう。  
それはそれで、ひとつの正義である。  
しかし、私は思う。  
怒ったところで、はたして何が得られるであろうか。  
生活必需品を捨てるわけにもいかず、徒(いたずら)に胸中を荒らすのみではあるまいか。

思い起こしてほしい。  
我々は消費者であると同時に、生産者でもある。  
ならば、パッケージの向こうに見える苦悩に、想像力をめぐらせるべきではないか。  
「お客様の健康を考え、適量を見直しました」と、苦心惨憺の末に文句をひねり出す社員。  
見た目を損なわぬよう、容器の設計を幾度も修正する設計者。  
彼らのささやかな奮闘に、少しばかりの哀憐を注ぐくらいの、余裕があってもよい。

デフレの時代は終わり、インフレという新たな潮流が我々を飲み込もうとしている。  
この大きなうねりのなかで、細やかな変化にすら苛立つのではなく、  
むしろ「時代が動いている」と面白がるくらいの心持ちでありたい。  
大きな変化も、小さな変化も、「理性」と「寛容」をもって迎え入れる。  
それこそが、これからの時代を、しなやかに歩んでいくための知恵にほかならぬ。

万物流転――これは古代ギリシャの哲人ヘラクレイトスの言葉である。  
この世界にあっては、何一つとして、昨日のまま留まり得るものはない。  
ステルス値上げもまた、そのうちのひとつにすぎない。  
小さな変化をどう受け止め、どう生きていくか――その問いに答えるのは、誰でもない、我々自身である。

●中野翠風にリライト

 小さくなる世界を受け入れる――ステルス値上げへの向き合い方

最近、なんとなく感じてはいたんだけれど、ポテトチップスの袋って、前よりずいぶん軽くなってない?  
チョコレートも、板が薄くなったような気がするし、長年飲んできた野菜ジュースのパックも、気づけば1000ccから900ccになっていた。  
最初は「気のせいかな」と思った。  
でもある日ふと、「あれ、やっぱり減ってるじゃん!」と気づいて、ちょっとムカッとした。

まあ、これ、<ステルス値上げ(Shrinkflation)>っていうらしい。  
値段を上げると反発されるから、中身をこっそり減らすってわけ。  
日本だけじゃなくて、世界中でやってるんだって。  
どこも生き残るのに必死なのね。

で、なんでこんなことになってるかっていうと、要するに、材料費も運送費も人件費も、みんな高くなっちゃったから。  
こっちだってそれくらいわかってるつもりだけど、やっぱり目の前で値上げされると、「買うの、やめとこうかな……」ってなるじゃない?  
だから、企業もしょうがない。  
「見えないところで」調整するしかないってわけ。

もちろん、「だまされるもんか!」って怒るのもアリだと思う。  
でも、生活必需品を一切買わずに生きるなんて無理だし。  
怒ったところで、ポテトチップスが元の重さに戻るわけでもない。

だったら、もう少し違う角度で見てみるのもいいかもしれない。  
パッケージの裏側で、「ああでもない、こうでもない」と頭を抱えてる広報担当者とか、見た目を変えずに容量を減らすために涙ぐましい工夫をしているデザイナーとか。  
そんな人たちの苦労を、ちょっと想像してみたりする。

デフレからインフレへ、時代は確実に動いている。  
だから、内容量がちょっと減ったくらいでいちいち目くじらを立てるのも、なんだか野暮な気がするのだ。  
「そう来たか」とニヤッと笑うくらいの余裕があったほうが、かっこいい気がする。

万物は流転するんだって、ヘラクレイトスも言ってたらしいし。  
世界が変わるなら、ポテトチップスだって変わるでしょう。  
私たちも、ちょっとずつ、変わっていくしかないのかもしれない。  
まあ、しょうがないよね。

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ちなみに私は中野翠さんの単行本(85冊ぐらいかな。ほとんどの本が雑誌に連載されたエッセイを集めた本)を9割ぐらいは読んでいると思います。

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「大食い番組とSDGs——“食べることは殺すこと”を忘れた時代」

2025年04月27日 | コラム(小異大義)

ChatGtpの力を借りながら、以下のようなコラムを書いてみた。

1)自分の言いたいこと(大食い番組は見苦しいと感じること、大食い番組とSDGsの関係)や冒頭の名言(「食べることは殺すこと」というフレーズ)を示して、構成を考えてもらう。

2)それを元に文章を書く

3)それをChatGtpに投げて、改善点(実名をあげた大食いタレントへの個人攻撃にならないように表現を工夫すること、農業漁業などに従事する人への配慮を盛り込むともっと良くなるということ)を指摘してもらう。

4)もっともな改善点が二点ほど示されたので、それを採用して文章を書き直した。

5)完成した文章をChatGtpに投げて「OK」をいただく

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「大食い番組とSDGs——“食べることは殺すこと”を忘れた時代」(2025/4/26)

「食べることは殺すことである」。この言葉にドキッとする人も多いだろう。だが、私たちが日常的に口にする肉や魚、卵などは、動物の命を奪うことなしには手に入れられないものだ。動物だけではない。食べることは植物の命を奪うことでもある。

 テレビでは毎日のように大食いタレントが苦しそうに食べ物を飲み込み、胃の中に流し込んでいる。 代表的な大食いタレントとして、ギャル曽根やMAX鈴木のような名前が挙げられるだろう。彼ら彼女らの姿を見て、観客は笑い、スタジオは拍手する。

私自身、「どうしてあんなにたくさん食べられるのだろうか」と不思議に思ったり、食べる量とスピードに尊敬の思いを持ったりもする。しかし、その一方で、なんとも言えない、見苦しい感じを覚え、汚らしいショーを見せられている気がする。

私が感じる見苦しさや汚さはどこから来るのだろうか? それは、他の生物の命を「命」として扱う視点が忘れられているから、 食べ物が「命」ではなく「モノ」として扱われているからではないか。

マスコミ各社はどこも社是としてSDGsを掲げている。SDGsが掲げる「飢餓をなくす」「持続可能な消費」は、どれも命へのリスペクトが前提だろう。 大量の命を“見せ物”にして食べ尽くす行為は、そうした理念に反するのではないか。

 動物である人間は例外なく、生きるためには食べなければいけない。食べるためには殺さなければいけない。だから、私たちは毎日、他の生きものの命を奪って、食べて、生き続けている。

 これまで述べてきたことは、「生産者の努力」や「自然の恵み」といった広い意味での“命”にまで関係してくる問題だ。農家や漁師の人は大食い番組をどう見ているのだろうか? 自分たちの労働の成果物が粗末に扱われているとは思わないだろうか。こういう事実に、ほんの少しだけでも思いを馳せた時、大食い番組の見え方はきっと変わるはずだ。——私たちは、いま、何を“食べて”いるのだろう?

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ChatGtpにお礼を言ったら、「どういたしまして」と答えが返ってきて、さらに「詩的バージョン、硬派な評論バージョンに書き換えることもできますよ」と言われたので、お願いしたら、次のような文章が即座に返ってきた。一瞬で変換できるのがなんともはやすごい!

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●詩的バージョンに変換

「食べることは殺すこと」

この短い言葉に  
心が一瞬、凍る人もいるかもしれない。

けれど、  
私たちの食卓に並ぶ肉や魚、卵の影には  
誰かの、確かな死がある。

動物の命。  
植物の命。  
目を閉じて、噛みしめるたび、  
その命は静かに、私たちの中で終わっていく。

テレビの中、  
誰かが苦しそうに、  
それでも笑顔で、  
大量の食べ物を胃の奥へ流し込んでいる。

拍手が起こる。  
歓声が上がる。

その光景は、  
一種の儀式か、あるいは見世物か。

私も思う。  
どうしてあんなに食べられるのだろう。  
すごいな、と。  
尊敬のような感情すら湧くことがある。

けれど同時に、  
胸のどこかに染みつく、  
消えない違和感。  
まるで、何かとても大切なものが  
踏み荒らされているような感覚。

見苦しさの正体は、  
命が「モノ」として扱われる、その瞬間にあるのかもしれない。

マスコミ各社が掲げる「SDGs」。  
その中には、「飢餓をなくす」「持続可能な消費」がある。

ならば問いたい。  
大量の命を、競争の中で  
笑いの中で  
“見せ物”にして消費することは、  
果たしてその理念にかなっているのだろうか?

私たちは毎日、命を食べている。  
それは動物や植物だけでなく、  
それを育て、獲り、届ける人の時間、労力、祈りまでも。

農家の手。  
漁師の背中。  
風に揺れる畑。  
海に沈む太陽。

それらすべてが、  
皿の上にある。

ほんの少しだけでもいい。  
その“重さ”に思いを馳せたとき、  
大食い番組は、  
少し違う顔に見えてくるかもしれない。

—— 私たちは、いま、何を“食べて”いるのだろう?

●硬派の評論調に変換

「食べることは、殺すことである」という命題は、感傷的表現としてではなく、倫理学的かつ生物学的な前提として成立する。人間は他の生命体を捕食することによって栄養を得ており、その摂食行為は、対象の生命の喪失を前提としている。動物性食品に限らず、植物性食品も含め、すべての食物は生きた有機体として存在していた。従って、食行為とは他者の生存を停止させ、それを自己の生存の糧とする一連の行為であるという点において、「殺すこと」という表現は決して誇張ではない。

このような前提に立った場合、近年のテレビメディアにおける「大食い番組」は、倫理的・社会的に再検討の余地がある。これらの番組では、特定の出演者が通常の生理的限界を超える量の食物を摂取する様子が娯楽として提示されており、代表的な出演者としてギャル曽根、MAX鈴木などの名が挙げられる。視聴者はこの過剰摂取の光景に驚嘆と称賛をもって接し、制作者側は視聴率と話題性を目的としてそれを商品化している。

筆者自身も一時的にはその身体能力に感嘆した経験がある。しかしながら、そこには漠然とした不快感が伴っていた。その原因を分析するならば、根本的には「食物を命として扱う視点の欠如」が挙げられる。すなわち、命を保持していた存在が、番組構成上「消費対象」「視覚的インパクトの素材」としてのみ利用されているという事実が、倫理的違和感を生じさせていると考えられる。

加えて、この問題は倫理の枠を超え、持続可能性の観点からも看過できない。現在、国際社会においては「持続可能な開発目標(SDGs)」の達成が求められており、その中には「飢餓の撲滅(目標2)」「持続可能な生産と消費(目標12)」が明記されている。これらは単なる政策目標ではなく、人間の行動規範として求められている指針である。大食い番組の演出は、これらの価値と明白に矛盾する。大量の食物をエンターテインメントの一環として消費する行為は、食料資源を巡る不均衡、飢餓の存在、フードロスの深刻化など、現実世界が直面する諸課題を無視したものである。

さらに、生産者視点の欠如も問題である。農業・漁業従事者は、食物を単なる「モノ」としてではなく、時間・労力・知識を集積した成果物として生産している。こうした努力の結果が、メディアの演出上「大量消費される映像素材」として扱われる現状は、彼らの労働の尊厳を損なうものであり、職業倫理的にも疑義が生じる。
 
以上の点を踏まえるならば、大食い番組は単なる「好みの問題」「嗜好の範疇」に留まらない社会的現象であり、消費行動の倫理性、メディアの公共性、命の取扱いに関する哲学的姿勢を問い直す必要がある。

結論として、人間が食物を通じて日々他者の命を奪っているという不可避の現実を前提とするならば、それを娯楽の名の下で消費し、無自覚なまま視覚的快楽の対象とすることは、倫理的にも制度的にも再検討されるべき対象である。

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終わり

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匿名性は人の良心を眠らせる

2025年04月21日 | コラム(小異大義)

 以前は自分の書いた本に関するアマゾンのレビューをけっこう読んでいた。しかし、最近はまったく読んでない。具体的に言うと、2020年ぐらいまでは読んでいたが、ここ5年ぐらいはまったく読んでいない。「・・・読んでいない」というよりも、自分の本のレビュー(どれぐらいのレビューが上がっているか、どういうコメントが寄せられているか)には近づかないようにしている。理由はシンプルで、批判的なレビューを読むと気分が凹むからだ。
 
 先日『私を救った言葉たち』(山口路子著、ブルーモーメント)を読んでいたら、次のような言葉が引用されていた。

 ネットの匿名掲示板を作家は見ない方がいいとツィートしたら、批判も受けとめての創作ではないかと反論が来たのだが、僕はそう思わない。
 元来、表現者は感受性が豊かだし、その匿名性を利用し、それを発言することで何も失う物が無い者達の礼儀無視の罵詈雑言に心乱れない者など何処にもいない。中には有益な意見もあるが、それを見付ける為に、悪意の深淵を覗き込む事はない。
 作家は、批評を受け入れる事も重要だが、それは、批評する人間としてスジを通したものだけで充分である。「誰に向かって作品を書くのか」創作者はそこだけは絶対にブレてはいけない。

小池一夫 2012.9.12付X(旧Twitter)の記事より

 小池一夫(こいけ かずお)さんについてまとめておこう。

1936年5月8日生まれ、2019年4月17日にお亡くなりになりました。日本の漫画原作者、作詞家、脚本家として知られており、​彼の代表作『子連れ狼』は、映画やテレビドラマに多数の影響を与え、日本のみならず海外でも高く評価されています。

 さて、小池一夫さんの言葉についてです。

​たしかに、批判的なレビューの中にはごくごくたまに有益なコメントもある。しかし、それはたいへんまれであって、ほとんどはたった一言だけーー自分のストレスを解消するためなのか、他者の作品の悪口を書くことで自分の相対的な価値を上げるためのなのかーーマイナスの言葉をちょこちょこっとそこに残しているだけのことだ。

 人間は誰しも他人の悪口を言うのが好きである。ひとつの理由は 優越感を得られるってことだ。誰かを見下すことで相対的に「自分の方が優れている」というように自尊心を高めることができる。もちろん、面と向かって悪口を言うと、その場で反撃を受けて逆に悪口を浴びせられるからそういうことはしない。だから、悪口はその人のいないところで言うか(リアル空間)、匿名で言うか(ネット空間)ということになる。

 インターネット空間での匿名性は人の良心を眠らせるということがしばしば言われる。これを少し広げれば、匿名性は人の悪意を呼び覚まし、人の良心を眠らせるってことだろう。

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