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戸田智弘のブログ

ライター&個人投資家&主夫

ジョーン・ロビンソンの名言

2011年02月03日 | 名言あれこれ

 浜矩子さん(はまのりこ:同志社大学 大学院教授)が、1月24日(月)のビジネス展望でこんな言葉を紹介していた。

「我々は今どこにいるのか?」「ここから何処に行きたいのか?」「どうやってそこに行きたいのか?」「我々は地図を持っているのか?」「我々は振り出しに戻ってやり直すべきなのか?」

 ジャージ・ロビンソン氏とはイギリスのエコノミスト。彼が、イギリスの喜劇俳優・ロワール・アトキンソン氏に演じさせた政治家が語った言葉だいう。
 
 適切な道を選ぶには、適切な問いを立てる必要がある。
 
 ネットで調べたら、これらの問いの他にこんな問いも紹介されていた。

「行きたいところにたどり着いた時、どうすれば、我々はそこが自分の来たかったところだと分かるのか?」

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福本豊の名言

2011年01月31日 | 名言あれこれ

ウイキペディアによれば、

福本 豊(ふくもと ゆたか、1947年11月7日 - )は、大阪府大阪市生野区出身の元プロ野球選手(外野手)。通算盗塁数の日本記録保持者(達成当時は世界記録)で、「世界の盗塁王」の異名を持つ。引退後はコーチを経て主に野球解説者、野球評論家として活動している。

という人です。

この福本選手が、国民栄誉賞を断った理由がすごい。

あんなもんもろたら、立ちションでけへんようになる。

出所:『言葉の魔球-野球名言集-』

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佐藤紅禄の名言

2011年01月26日 | 名言あれこれ

佐藤紅禄(さとうこうろく)とは、詩人サトウハチローや作家佐藤愛子さんの父である。この人、おならにうるさかったらしい。(←注:おならがうるさかったわけではない)

屁は人生を象徴する。 屁に勢いのない奴はダメだ。

出所:2011/1/25付けの朝日新聞「天声人語」

これのネタ元は、

『これが佐藤愛子だ 5 自讃ユーモアエッセイ集 』(集英社文庫) [文庫]

だろう。

「何だ! その屁は! もっと勇壮にやれ!」

とお父さんはか言ってたらしい。ヤフー辞書によれば、勇壮とは、いさましく元気なこと、また、そのさまである。「―な行進曲」「両軍が―に戦う」というように使う。

「勇壮なおなら」は、「勇壮なラッパ」から生まれた比喩ではないか。

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ジョン・F・ケネディの名言

2011年01月18日 | 名言あれこれ
朝、金山駅で「ビッグイシュー 日本版」(158号)を購入する。こんな名言を発見した。

●変化は人生の法則である。過去と現在だけを見ている人はきっと未来をなくす。

Change is the law of life. And those who look only to the past or present are certain to miss the future.

                       J・F・ケネディー

ケネディは数々の名言を残している。有名なのはこれ。

●国があなたのために何ができるかではなく、あなたが国のために何ができるか、問いかけてください。

Ask not what your country can do for you, but what you can do for your country.

調べてみるといろいろある。

●人々は、存在する物を見て、それがなぜ存在するのかを語る。
私は、存在しないものを夢見て、それがなぜ存在しないのかを語ろう。

Some men see things as they are and say why.
I dream of things that never were and say why not.

●私たちが抱える問題は、人間が作り出したものだ。したがって、人間が解決できる。
人間の理知と精神は、解決不能と思われることもしばしば解決してきた。またそうできると私は信じている。

Our problems are man-made; therefore, they can be solved by man.Man's reason and spirit have often solved the seemingly unsolvable.I believe they can do it again.


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ちまたの名言

2011年01月04日 | 名言あれこれ

自分は無力じゃない
自分は微力である

出所:「月刊ボランティア情報誌 ボラみみ」(2011年1月号)

自分は無力じゃない。自分は微力である。だから・・・・・・。・・・・にどういう文章を書くかは人によって違うよね。

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ちまたの名言

2011年01月03日 | 名言あれこれ

才能の差は小さい
行動の差は大きい
継続の差はもっと大きい

出所:「月刊ボランティア情報誌 ボラみみ」(2011年1月号)

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共同体主義者の名言<自分編>

2010年12月04日 | 名言あれこれ
##自分は梅干しかドーナツか

「本当の自分」なんてものはどこにも存在しない。だから、自分の内側を注意深くのぞき込んでも「本当の自分」は見つからない。「梅干しの種」のような「本当の自分」なんてものは存在しないのだ。言ってみれば、自分とはドーナツの穴のようなものだと考えればいい。穴には何も存在していないけれど、確かに穴という存在はそこにある。その存在を根拠づけているのは、穴の周りにあるドーナツの生地である。この生地とは、他者との関係性を基礎づける自分の行動である。以上が、自分は<探す>ものではなく、<創っていく>ものであるといわれる所以である。

##自分を選び取ること

自分は<探す>ものではなく、<創っていく>ものである。忘れてならないのは、創っていく過程において<選び取る>という決断が含まれることである。何かを<選び取る>とは、何かを<断念する>ことでもある。

##ひとりでとみんなで

自分は<探す>ものではなく、<創っていく>ものである。忘れてならないのは、自分ひとりで<創っていく>のではなく、みんなで<創っていく>ことということ。共同体の中で自分を創っていくのである。なぜならば、個性とは集団の中ではじめて発見できることだからである。

##存在と関係

Aという人間が存在している、Bという人間が存在している、そして、Aという人間とBという人間が関係を結ぶというのは正しくない。Aという人間とBという人間が関係を結ぶ、その行為の中にAという人間の存在、Bという人間の存在が立ち現れてくるのである。これが正しい。つまり、関係の前に存在があるのではなく、存在の前に関係があるのだ。



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ちまたの名言

2010年12月01日 | 名言あれこれ

人として生まれた悲しみを知らない者は、
人として生まれた喜びを知らない。

出所:「週刊新潮 11月25日号」

巻頭コラムで藤原正彦氏が紹介していた言葉である。仕事場に行く途中にある、浄土真宗のお寺の門脇に書いてあった格言らしい。ささっと歩きながらこの言葉を読んで、10メートルほど先へ行ってから戻って再び読み返した、理解するのに時間がかかった、と書いてある。

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内田樹の名言

2010年11月30日 | 名言あれこれ
一昨日、

邪悪なものの鎮め方 (木星叢書)邪悪なものの鎮め方 (木星叢書)
価格:¥ 1,680(税込)
発売日:2010-01-23


を読みなおした。その中から気になったフレーズを抜き出してみた。

#自分自身の消滅を求める呪い

「自分のような人間」がこの世に存在しないことから利益を得ている人は、いずれ「自分のような人間」がこの世からひとりもいなくなることを願うようになるからである。その願いはやがて「彼自身の消滅を求める呪い」となって彼自身に返ってくる。
 道徳律というのはわかりやすいものである。
 それは世の中が「自分のような人間」ばかりであっても、愉快に暮らしていけるような人間になるということに尽くされる。それが人間に祝福を贈るということである。
 世の中が「自分のような人間」ばかりであったらたいへん住みにくくなるというタイプの人間は自分自身に呪いをかけているのである。
 この世にはさまざまな種類の呪いがあるけれど、自分で自分にかけた呪いは誰にも解除することができない。
 
内田樹 『邪悪なものの鎮め方』

#知的パフォーマンスを向上させるとは

 知的パフォーマンスの向上というのは、「容器の中に詰め込むコンテンツを増やすこと」ではないからである。
 ぜんぜん違う。
 容器の形態を変えることである。
 変えるといっても「大きくする」わけではない(それだとまた一次方程式的思考である。)。そうではなくて、容器の機能を高度化するのである。
 問題なのは「情報」の増量ではなく、「情報化」プロセスの高度化なのである。
 
内田樹 『邪悪なものの鎮め方』

#共感能力とは自分を他者として見る能力である

共感能力とかシンパシーということはわかりやすいけれど、その能力が自分を他者として見る、自分を含んだ風景を俯瞰的に見る、他者との関連のうちに位置づける能力(マッピングあるいはスキャニング)と同質のものであるということはあまり理解されていない。

内田樹 『邪悪なものの鎮め方』

#他人にいちばん伝えたいとき

たしかにコミュニケーション能力は「他人に何かを伝える力」のことです。けれども、他人にいちばん伝えたいと思うのは、「自分が知っていること」ではないんじゃないかと僕は思います。自分が知り始めていて、まだ知り終わっていないこと。そういうことがコミュニケーションの場に優先的なトビックとして差し出されるのではないでしょうか。
 
内田樹 『邪悪なものの鎮め方』

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鈴木信一の名言

2010年11月25日 | 名言あれこれ

生きることは殺すこと

「いのち」は無数の「いのち」の犠牲の上に成り立つものであり、それは翻せば、一つの「いのち」には無数の「いのち」が充満しているということである。だから「いのち」は尊いのだ。

出所:鈴木信一『こどもの国語力は「暗読み」でぐんぐん伸びる』(ソフトバンク新書)

著者の鈴木さんは高校生の時、

子どもの国語力は「暗読み」でぐんぐん伸びる (ソフトバンク新書)子どもの国語力は「暗読み」でぐんぐん伸びる (ソフトバンク新書)
価格:¥ 767(税込)
発売日:2010-09-18

文と文は隣り合ったもの同士、必ず何らかの関係によって結ばれている

という事実を知って衝撃を受ける。「そうだったのか!」という実感である。当たり前と言えば当たり前なんだが、学校では接続詞について勉強させられるが、もっと本質的なところまで降りていって「文と文は隣り合ったもの同士、必ず何らかの関係によって結ばれている」というように教えてはくれない。

私がこの事実に気がついたのは33歳頃かなあ。『事業はメッセージ』(アドア出版、共著)を書いているとき、一つの文と一つの文をつなげていくのに悪戦苦闘していた記憶がある。文と文がぶつぶつと切れてしまい、自然な繋がりが見えないのだ。取りあえず書き上げた自分の文章を見ながら、これは文章ではないと思った。何度も何度も手を入れて、何とか読める文章にはなったが、どうやって文と文をつなげていったらいいのかという法則のようなものはつかめなかった。

その法則らしきものがつかめたのは

論理トレーニング101題 論理トレーニング101題
価格:¥ 2,100(税込)
発売日:2001-05-15

この本を読んだときだった。

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マルクスの名言

2010年11月22日 | 名言あれこれ

私は人間として活動しているのであるから社会的である。・・・したがって、私が自分からなにかつくるとしても、それを私は社会のためにつくるのであり、しかも、私がひとりの社会的な存在であることを意識しながらつくるのである。

マルクス『経済学・哲学草稿』

内田樹さんは、

若者よ、マルクスを読もう (20歳代の模索と情熱) 若者よ、マルクスを読もう (20歳代の模索と情熱)
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発売日:2010-06-18

のなかで、「人間は社会的であるときに人間的であり、人間的であるときに社会的である。」とまとめています。

未熟な人間と成熟した人間の違いは、どれだけ「私」だけという視点から自由になって「公」としての自分という視点を持っているか、言い換えれば、自然や他者との共生といった理を持っているかである。これは、個人に限らず、国も同じだと思う。未熟な国家と成熟した国家の違いです。

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岡田武史の名言

2010年11月18日 | 名言あれこれ

苦しいことは重力みたいなもの。なければ筋肉や骨が駄目になる。

出所:サンスポ(2010.11.18)

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河瀬直美の名言

2010年11月15日 | 名言あれこれ
命とはただひとつで存在するものではなく、連綿と続いてきたもの、そしてつづいていくもの。

出所:映画『玄牝』(げんぴん)のパンフレット

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内田樹の名言

2010年10月26日 | 名言あれこれ
#何のためにものを書くのか

私たちがものを書くのは、「もうわかっている」ことを出力するためではなく、「まだ知らないこと」を知るためです。自分が次にどんなことばを書くのか、それがここまで書いたセンテンスとどうつながるかが「わからない」ときのあのめまいに似た感覚を求めて、私たちはことばを手探りしているのです。

内田樹『態度が悪くてすいません』(角川oneテーマ21)

#マルクスとヘーゲル

 人間の個別性をかたちづくるのは、その人が「何ものであるか」ではなく、「何ごとをなすか」によって決定される、マルクスはそう考えました。「何ものであるか」というのは、「存在する」ことに軸足を置いた人間の見方であり、「何ごとをなすか」というのは「行動すること」に軸足を置いた人間の見方である、というふうに言い換えることができるかも知れません。
 「存在すること」とは、与えられた状況の中でじっと制止しており、自然的、事物的な存在者という立場に甘んじることです。静止していることは「堕落すること、禽獣となることである」という考え方、これをマルクスはヘーゲルから受け継ぎました。たいせつなのは「自分のありのままにある」に満足することではなく、「命がけの跳躍」を試みて、「自分がそうありたいと願うものになること」である。煎じ詰めれば、ヘーゲルの人間学とはそういうものでした。
 
内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文藝春秋)

#労働

 人間は生産=労働を通じて、何かを作り出します。そうして制作された物を媒介にして、いわば、事後的に、人間は自分が何ものであるかを知ることになります。ちょうど透明人間の輪郭は彼が通過して割れたガラス窓の破れ具合からしか知られないように。
 この「作り出す」活動は一般に「労働」と呼ばれます。マルクスはこの労働を通じての自己規定という定式をヘーゲルから受け継ぎました。
 ヘーゲルによれば、「人間が人間として客観的に実現されるのは、労働によって、ただ労働によってだけ」です。人間が「自然的存在者以上のもの」であるのは、ただ「人為的対象を作り出した後」だけです。
 
内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文藝春秋)

#本当の自分

 私たちは自分が「本当のところ、何ものであるのか」は、生産=労働のネットワークのどの地点にいて、何を作り出し、どのような能力を発揮しており、どのような資源を使用しているのかによって決定されます。
 自己同一性を確定した主体がまずあって、それが次々と他の人々と関係しつつ「自己実現する」のではありません。ネットワークの中に投げ込まれたものが、そこで「作り出した」意味や価値によって、おのれが誰であるかを回顧的に知る。主体性の期限は、主体の「存在」にではなく、主体の「行動」のうちにある。これが構造主義のいちばん根本にあり、すべての構造主義者に共有されている考え方です。
 
内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文藝春秋)

#前未来形

 ラカンによれば、被分析者がそのトラウマについて語るときの時制は、「過去のほんとうにあった出来事」を語る単純過去形ではなく、未来のある時点を機転として、そのときにすでに完了している行為を示す前未来形です。(中略)
 私が自分の過去の出来事を「思い出す」のは、いま私の回想に耳を傾けている聞き手に、「私はこのような人間である」と思って欲しいからです。私は「これから起きて欲しいこと」、つまり他者による承認をめざして、過去を思い出すのです。私たちは未来に向けて過去を思い出すのです。
 
内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文藝春秋)

#労働の本質

 労働の本質は、個人の努力が集団の利益に「かたちを変える」ことのうちに存する。個人の努力が個人に専一的に還元されることを求めず、逆にできるだけ多くの他者に利益として分配されることを求めるような「得意なメンタリティ」によって労働は動機づけられている。それが納得できないという人は労働に向かない。
 
内田樹『昭和のエートス』(バジリコ)

#私が手に入れたい情報

 私にとって重要であり、私がそれをぜひとも手に入れたいと望んでいるのは、「私が知らない情報」であり、かつ「『私はそれを知らない』ということを私は知っている情報」です。

内田樹『いきなりはじめる浄土真宗』(内田樹&釈徹宗、本願寺出版社)

#自由と宿命

 自由と宿命は『矛盾するもの』ではなく、むしろ『位相の違うもの』である。ほんとうに自由な人間だけが、おのれの宿命を知ることができる。(中略)
 自由であるというのは、ひとことで言えば、人生のさまざまな分岐点において決断を下すとき、誰の命令にも従わず、自分ひとりで判断し、決定の全責任を一人で負う、ということに尽くされる。
 他人の言葉に右往左往する人間、他人に決断の基準を訊ねる人間、それは自由とは何かを知らない人間である。そのような人は、ついにおのれの宿命について知ることがないだろう。
 
内田樹『いきなりはじめる浄土真宗』(内田樹&釈徹宗、本願寺出版社)

#人間の仕事

 神さまには神さまの仕事があり、人間には人間の仕事がある。神さまは世界を創造した。創造された世界を「住むに値する場所」に造り変えてゆくのは人間の仕事である。だから、「人間が人間に対して犯した罪」は人間だけがそれを購うことができるのであって、神が人間に代わって購うことはできない。そういうふうに考えることのできる人間が「成人」である。レヴィナスはそう教えています。
 言い換えると、成人とは、この社会で悪がなされ、義人が付議で苦しんでいるときに、そのことを誰よりもまず「自分の責任」として引き受ける人間だ、ということです。

内田樹『いきなりはじめる浄土真宗』(内田樹&釈徹宗、本願寺出版社)

#宗教性

・・・「どういうルールで行われているのかわからないゲームに、気がついたらもうプレイヤーとして参加していた」というのが人間の立ち位置だと思います。
 このときに、「私には分からないけれどもこのゲームを始めたものがあり、そうである以上、このゲームにはルールがあるはずだ」というふうに推論する人間の思考の趨向性を私は「宗教性」と呼びたいと思います。
 
内田樹『いきなりはじめる浄土真宗』(内田樹&釈徹宗、本願寺出版社)



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中曽根元首相の名言

2010年06月05日 | 名言あれこれ

中曽根元首相は、新党さきがけの代表幹事だった頃の鳩山首相に辛口の注文をつけた。

政治は、美しいとか、キラリと光るとか、形容詞でやるのでなく、動詞でやるもんだ。

これに対して、鳩山首相は「行動の前に哲学的な形容詞を大事にするべきではないか」と反論したという。

出所:朝日新聞(2010.6.3)の天声人語

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