一昨日、
を読みなおした。その中から気になったフレーズを抜き出してみた。
#自分自身の消滅を求める呪い
「自分のような人間」がこの世に存在しないことから利益を得ている人は、いずれ「自分のような人間」がこの世からひとりもいなくなることを願うようになるからである。その願いはやがて「彼自身の消滅を求める呪い」となって彼自身に返ってくる。
道徳律というのはわかりやすいものである。
それは世の中が「自分のような人間」ばかりであっても、愉快に暮らしていけるような人間になるということに尽くされる。それが人間に祝福を贈るということである。
世の中が「自分のような人間」ばかりであったらたいへん住みにくくなるというタイプの人間は自分自身に呪いをかけているのである。
この世にはさまざまな種類の呪いがあるけれど、自分で自分にかけた呪いは誰にも解除することができない。
内田樹 『邪悪なものの鎮め方』
#知的パフォーマンスを向上させるとは
知的パフォーマンスの向上というのは、「容器の中に詰め込むコンテンツを増やすこと」ではないからである。
ぜんぜん違う。
容器の形態を変えることである。
変えるといっても「大きくする」わけではない(それだとまた一次方程式的思考である。)。そうではなくて、容器の機能を高度化するのである。
問題なのは「情報」の増量ではなく、「情報化」プロセスの高度化なのである。
内田樹 『邪悪なものの鎮め方』
#共感能力とは自分を他者として見る能力である
共感能力とかシンパシーということはわかりやすいけれど、その能力が自分を他者として見る、自分を含んだ風景を俯瞰的に見る、他者との関連のうちに位置づける能力(マッピングあるいはスキャニング)と同質のものであるということはあまり理解されていない。
内田樹 『邪悪なものの鎮め方』
#他人にいちばん伝えたいとき
たしかにコミュニケーション能力は「他人に何かを伝える力」のことです。けれども、他人にいちばん伝えたいと思うのは、「自分が知っていること」ではないんじゃないかと僕は思います。自分が知り始めていて、まだ知り終わっていないこと。そういうことがコミュニケーションの場に優先的なトビックとして差し出されるのではないでしょうか。
内田樹 『邪悪なものの鎮め方』