ある日、彼のコレクションしている時計のひとつを私が欲しがると、彼は気持ちよく「いいよ」と言った。
本当は、彼の心を試すような気持ちと、彼が身に付けていたものを持ち帰って身につけていたい、という、ふたつの気持ちがあった。
「ダメ」と言われるのが前提の、少し軽い気持ちのおねだりだった。
それから彼は、その時計の思い出を話した。
いい色でしょ。
これは自動巻きっていって、歩く度に巻かれるんだよ。
ほら、音がするでしょ。
電池が入っていないから、使わなと止まっちゃうんだ。
五万円くらいしたんだよ。
ほら、裏を見てごらん、中が見えるんだよ。かっこいいでしょ。
彼は目をキラキラさせて話した。
何かを語る時の彼の優しい声と、ゆるゆると流れる時間はとても心地よく、私はうっとりしてしまう。
私は、大学を出て、教師になり、バリッとしたスーツを着てこの時計を付け、颯爽と仕事をしている 若い彼の姿を思い浮かべた。
機械好きな彼の話に、私は目を細めて聞き入った。
「今までで一番長く使った時計かな」
彼は時計を愛しそうに眺めながらそう言った。
私が腕に付けると、
「少し長いね、時計屋さんで二つくらい外してもらうと丁度よくなるよ。」
「そんな事していいの」
私が驚いて訊くと、
「部品を取っておけばまた使えるし」
そんなに大切な物を私にくれるという、彼の気持ちがうれしくて胸が鳴った。
それとは裏腹に、そんなに高価な物とは知らなかった私は、無くさず、大切に使いこなせるのかな、と不安が過った。
私は外に出ない日が多い。
そんな私がこの時計を付けて東京に帰っても、歩かない私のせいで止まってしまうのではと、なんだかこの時計と彼に 申し訳ない気持ちが湧いた。
そして、止まってしまってがっかりしている自分の姿がありありと目に浮かんだ。
一ヶ月の滞在期間がとうとう過ぎた。
彼は早くから仕事に出掛けていたので、家主不在の家から、一人での出発となった。
私は出る直前まで、時計のことを考えていた。そして、もう一度時計を手に取った。
裏から見た内部の構造の美しさ、それに惹かれて買い求めた彼の思い。
詰まった思い出…。
私はそっと、時計を元の場所に戻した。
お仕事も、お散歩もできない私にはどうもふさわしくない。
時計と、それに詰まった彼の思い出に気後れをしつつ、少し後ろ髪を引かれながら、空色の時計盤とお別れをした。
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