くすりと釣りと白衣と海

薬家の道を選んでから、とうとう人生の半分を過ぎてしまった。
けれど、海で遊んでいられるうちは子供の時のまま。

我は海の子6

2009-07-03 | 生い立ち
初めての釣り友達と言うべき人、覚えていますか?

自分はまだ小学1年生。
若くして亡くなってしまったチーちゃん5年生と、
今もたまに見かけるターちゃん4年生。
とにかく上級生に連れられ、あちこち遊び歩いたわけで、
今の子にしたらとんでもない話だ。

小学校に入って間もない日曜日、チーちゃんとターちゃんに誘われ、
舟付という磯場に釣りに連れて行ってもらった。
家が近所で、もっと小さい頃から一緒に遊んでいたのだが、
釣りに連れて行ってもらうのははじめてのことだった。
誕生日前だから、持っていた竿はニジマス用に貰った4本継ぎの竹竿。
仕掛けもその時のまま。
行きに近所の「魚増」という魚屋でアジを3本購入し、1本5円のカミソリで
短冊に。狙いは勿論カサゴだが、そんな魚、知る由もなかった。
ターちゃんの見よう見真似でマス針にアジの切り身を刺し、岩の間に投げ入れる。
考えてみれば仕掛けは脈釣りで似たようなもの。
「底に着けないようにしろよ!」今でも頭から離れない言葉だ。
すると「ガツガツッ!」ニジマスの時の引きと違ったトルクのある引き。
竹竿は撓るばかりだが夢中で引き上げると、でっかい口をした赤黒い魚が
飛び出した。
「うわーーー!なんだなんだこいつは!」これがカサゴとの初めての出会い。

負けん気の強い俺だから、それなりにいじめられることもあったけれど、
彼らが中学に行くまでは、いつも釣りにはお伴させてもらった。
更に多くの釣り仲間が集まり、ワルガキ釣りクラブが結成されることになる。

我は海の子5

2009-07-03 | 生い立ち
父親は地元のフィッシングクラブに属していた。
海に行くと、山吹色のヤッケを着たおじさん達が場所を陣取っている。
行けば「坊主」だの「ボク」だの名前で呼ばれたりと忙しかったが、
おじさん達に声を掛けられるのがうれしかった。
そして何より、リールを巻く音がたまらなく好きで、誰かが巻き出すと
横でジィーっと見つめているものだから、外道が釣れると「ほれ!」
外道と言っても当時の外道は半端ではなかった。
キス釣りに30cmオーバーの青べラやネコザメ、黒鯛の外道に
40cmのニザダイやウマズラ。
着いて行ったというより父の家を出る口実にされていたようだが、この作戦は、
現在でもしっかり我が家の「秘伝術」として受け継がれている笑

とにかくリールが欲しくて欲しくてたまらなかった。
小学校1年生の誕生日、父親が釣具店に連れて行ってくれ、投げ釣りの道具を
買ってくれた。
子供では黒の六角竿が手頃だったこの頃に、3m3本繋ぎのグラスロッドと、
リールは一番小さい青色の「オリンピック トルコ50」
当時で竿3000円とリール500円だったのを覚えているが、竿とリールの大きさが
アンバランスで、大人が使っている「オリンピック 93」とはかけ離れた
巻音だが、ブルーの胴体にサイレンスの切り替えが赤と洒落たデザインが
お気に入りだった。

翌日、学校が終わると父親の配達が終わるのを待って、中学校の校庭に行き、
投げる練習をした。夕方暗くてどこへ飛んで行ったのかわかるすべもなかった…

かなり頑固に使いこなしたせいか、なかなか派手な成仏の仕方ををしたが、
特に竿は、体力が付き始めた小学5年のキス釣りで、投げてラインが出て行く
最中、突然穂先が振動し出して、第一の中ほどで破裂するように折れたのは
ビックリしたが、後の竿選びに欠かせないヒントを発見した瞬間でもあった。

さて、わが長男もそんな自分の頃を過ぎる年頃になった。
同様にして、3000円の3mの振り出しルアー竿と、
1000円の韓国製リールを買い与え、初めて投げ釣りをしたときの雄姿が
この画像である。
投げ釣りは、釣り道具を扱う上での基本である。精進したまえ!



我は海の子4

2009-06-22 | 生い立ち
初めて釣り竿を手にしたのは、小学校入学前の春休み。
4本つなぎの竹竿を父親から貰ったものだ。
その切っ掛けは、以降、毎年通うことになる「少年マス釣り大会」に
参加するために、父親が自分の竿の1本を譲ってくれたのだ。
その時の竿は、以降、ガイドやリールシートが着けられ、化粧糸で
華やかになりながら、「幻の魚」によってあえなくへし折られてしまったが、
今でも心の中に、いや、その感触が手に残っている。

「少年マス釣り大会」
最近は年に1日あるかどうか?町の少年指導員による催しで、当時は春休みの間、
毎日放流され、毎日山まで通ったものだ。
父親から貰ったその竿を初めて使ってマスを釣ったときのこと。
川を堰き止め、各堰に30人くらいの小学生が我よとばかりに竿を出すのだが、
まだ小学生でもない自分には、とてもその中に入っていくことができなかった。
もちろん父親同伴だが、人混みを嫌う父親なのだから、それ以上に嫌気だった。
なのでその脇を流れる、放流されていない筈の流れに仕掛けを流したところ、
「ガクン!」そんな引きが手に伝わったかと思うと、一気に下流へ向かった。
自分でも何が何だか分からなかったが、父親がそれを見て変わり、タモに
収まったのは、胴の太い居着き(鱒池から逃げ出し育ったもの)のマスだった。
腰を抜かしていた自分だが、その初めての感触と、初めて見るマスの輝きが…
とそのとき、上の方からマイクロホンのオヤジの声。
「大人が釣っちゃあ駄目だーーー!」
そう、最後に竿を持っていたのは父親なのだから、親が釣っていたと思われても
仕方のない状況。
今思えば、居着きだったわけで堂々と持ち帰っていればよかったのだが、父親は
「すみませーーーん!」と言いながら、両手で持ったマスを堰ではない元の川に
リリースした。
何とも悔しく、家では何十回とも同じ話をし、母親に「逃がした魚は大きい」とまで言われ、
(このときはじめて知った言葉かも?)とんだ初釣りだったのだが、このときの、
このマイクロホンの声の主が、自分の釣り歴にどれだけ影響する人物になるかなど
とはとても知る由もなかった。

我は海の子3

2009-06-18 | 生い立ち
先祖は廻船問屋だったという。
関東大震災までは海に面した小山の上に宅を構えていたとのことで、
今でもそこは石段などの跡が見られる。
ここで事業をはじめようと色々な人の手に渡ってきたが、一つとして
成功したものはなく、今はUSJ銀行の所有地になっているらしい。
その下に今は別荘にされている大きな家があるが、その横には当時からの
小さな稲荷が海を向いてある。立派な陶器の稲荷様。

そして、更に海に向かって見下ろすと、地元では「長根」と呼ぶ岩が出ている。
海岸道路が出来る前その手前は、それは立派な石畳の船着場だったとのこと。

この「長根」潮が引くと渡れるのだが、当時は今ほど砂はなく、周りには
もっと岩がゴロゴロしていた。その岩の下に手を突っ込んっで、モクズガニを
獲ったものだが、今はそんな光景はこれっぽっちもない。
最後に獲ったのは20歳の頃。大学の後輩がサーフィンに来たとき、波が
なくて暇つぶしに、何気に手を突っ込んだらいた!といったものだった。
その他にも潮吹き貝や波の子がいっぱい付いていたし、格好の遊び場だった。
今でも長男を連れて行くと、磯辺ガニ獲れたり、潮だまりにメジナの子が
いたりする。

我は海の子2

2009-06-16 | 生い立ち
サラリーマンの父親は釣りと麻雀が好き。
週末に限らず夜に出掛け、翌朝の風呂場を覗くと収獲が転がっている。
黒鯛、メジナ、スズキ、伊勢海老…うなぎなんてときもあった。
魚と名前が一致しているのだから、よほどの回数で見ていたと思う。
蔵のあった家の記憶だから、やっぱり2~3歳の頃の記憶。

夕方、カンの虫の居所が悪いと、カブという単車のハンドルにしがみつかされ、
近くの堤防に連れて行かれたものだ。
体裁よく子守と称して出掛けたのであろうが、半袖の季節だったから、
黒鯛、キス、スズキ、そして伊勢海老の見回りだったにちがいない。

30歳になって自動二輪の免許を取り、しばらく乗っていなかったものの、
昨年、ピアジオの3mp250ccという、三輪車スクーターを購入した。
そして先日、長男を乗せて、地磯へ釣りに行ったりしたが、このときの
父親の姿に憧れていたのかもしれない。