真実の扉

「何もしないことをする時」「何も考えないことをする時」・・本当の自分の扉が開く

思いのままに5-2

2012年07月03日 22時05分24秒 | 無思考の時代へ

・・・「思いのままに5-1」より続く

自由についてのメッセージ

(2002年発行の「真実の扉」P188より転載)

 もうだいぶ昔のことですが、窓から外を眺めながらもの思いに耽っていました。そのとき自由について考えていたら、急にあるビジョンがやってきました。
 「自分のしたいことをしていて調和が保てる自由社会などあり得るのだろうか?」
  「自由には義務や責任があるとよく言われるが、どうして自由に義務や責任という不自由(制限)が伴わなければならないのだろう?」
 「そんな矛盾があるわけないではないか」
 「自由はどこまで行っても自由なはずだ……」
などと物思いに耽っていたときでした。

 ああでもない、こうでもないと考えていてしばらくして、一瞬時間と思考が止まりボーッしたと思われたとき、それはやってきました。 浮かんできたビジョンは、テニスを二人で楽しそうにしている情景でした。そこには戦いの波動はありませんでした。



 「ラインの内にボールを打ち返さなければイケナイ・・」 ではなく、 「入れてあげたい」 との想いが伝わってきました。
 「相手の打ちやすいボールを打たなければイケナイ・・」 ではなく、 「打ってあげたい」 との思いやりがありました。
 相手を打ち負かそうとか勝とうとかいう類の邪念のないものでした。
 ふたりは一体であり、あらゆるルール(制限)はふたりにとって何の意味もないものでした。この自由な調和をズッとずっと続けていたいとの想いがありました。そんな喜びと笑いの波動に溢れていました。それは理屈ではありませんでした。



 そのとき、「あっ、そうか!」と思いました。
  「自由とは何か」のヴェールがは剥がれたのです。
 今までは自由の意味を知らないで自由という言葉を使っていたナ、という感じでした。

 真理というのはこのように、自分が理解できるような個人的な情報として、時期がくれば真理の側からいとも簡単にやってきます。いとも簡単というのは、それは既に自分の中にある情報だからです。

 私たちが昔、一体であったとき、そんな自由を体験していました。だから「あっ、そうか、なーんだ、そんな簡単なことだったのか」と思ってしまうのです。否、思い出すのです。 そしてそれは、自分がそれを受け容れられる状態になった時期が来たときにやってくるものです。
 受け容れられるというのは、理解できるということだけではなくて、その情報を正しく利用できる―すなわち自分と自分の周りのあらゆる生命が成長するために有益に利用することができる、ということも含むのです。

 この自由についてのメッセージは私の魂からの、あるいはガイドからの、あるいはスピリットからのとても興味深いメッセージでした。(2012年現在、それは私の本質からやってきたと思っている)

 というのは、私はテニスなど全く興味がないからです。テニスのラケットなどほとんど握ったことがなかった私に、どうしてテニスの情景のメッセージが届いたのでしょうか? どうして野球のキャッチボールであったり、ピッチャーとバッターではいけなかったのでしょうか?
 実は私は中学時代に野球部に籍を置き、プロ野球選手になるのが夢だった少年だったのです。



 そんな私の場合には、野球は闘争心が先立つので選ばれなかったでは、と思うのです。私がほとんど経験したことのないテニスの方が客観視できるのです。
 ですから逆に、テニスを競技として楽しんでいた人へのメッセージでは、他のスポーツが選ばれることも考えられるでしょう。

 真理の現れというのはこのように人によって異なります。
 それはその人の中から最善として現れてきます。
 また、真理の来る方法も人によっては夢やビジョンや一種の直観であったりするのですが、役割も進歩状態も、エネルギーも体質も人によって異なるので、真理の内容も伝達手法も人それぞれ異なると思われるのです。

 真理の訪れ・・・ それはテレパシーとも言えるでしょう。一瞬に多くの情報を取得するという意味では、ちょうどEメールを受信したときのような感じです。ディスプレイに光が走り、次の瞬間にメールを開いたらメッセージが一杯詰まっていたというように……。

 肉体のない次元での通信は、言葉という聴覚や文字という視覚などの肉体レベルの手段が使えません。
 そこで言葉を超えた「念」を通信の手段とすると思いますが、人間だって霊的な進化に伴い、メッセージを高次元から瞬時に取得することが可能になってくるのです。
 私の場合には、ここに書いた類の一瞬のビジョンを伴う直観としてやって来ることが多いのですが、一瞬とはいえ、一瞬を超えた言葉に変換し難い―文章にすると何ページにもなるような多くの情報が入っているのです。

 例えば、見返りを期待する愛は愛とは呼べないのですが、「結果的に自分に還って来ない愛、一方通行の愛は愛とは呼べないな」 とも、このテニスのメッセージの中で感じ取っています。
 これは私の宇宙から来た、私のためのメッセージですから、私には一瞬のメッセージでも通じるのですが、それを言葉で人に伝えようとしても誤解を招いてしまうことが多いのです。
 実際、私の受けた情景を人に文章で伝えてみてもピンと来ないかも知れません。

 どうでしたか? ・・・ ということで、それぞれが自由にしたいことをしても調和の保てる真の自由とは何かということを、それぞれが自分自身にたずね、自分自身の中から感じ取って、実際にやってきた自分の真理に基づいて、何の束縛も境界も限界もない真の自由を自分の中に体現して、自由に生きる必要があります。
 一人ひとりが真の自由を取り戻さないと、真の自由をもつ社会を作りだすことはできないのです。
 社会は私たち一人ひとりの心の反映として築かれているからです。

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