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意思による楽観のための読書日記

大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯 藤井一二 ***

古代の10以上ある主なる豪族の中で平安時代に生き残り続けたのは断トツで藤原氏であり、その他の蘇我、物部、葛城など多くの主要豪族が先細りになる中、藤原氏の周辺豪族として生き残っていた豪族の一つが大伴氏。家持は718年-785年の人で、天平を代表する歌人、万葉集編纂に関わったとされるが、大伴氏は従来武辺の家系。祖父が従二位大納言だった安麻呂、父が従二位大納言にまで出世した旅人、妻は従姉妹にあたる坂上大嬢、その母が坂上郎女で、安麻呂の娘である。遠くは継体王朝を実現させた大伴金村の子孫として従三位中納言参議にまで上り詰めた。道鏡、恵美押勝、橘奈良麻呂の変など数多くの政争が渦巻いた時代に生きながらも470首の歌を残した。大伴氏を背負って立つ立場にまで出世しながら、政争にまきこまれ陸奥鎮守将軍として死亡したとされる。

当時の権力者として家持の特異なところは、多くの短歌などを残したため、国守の政務や同僚への感謝や思い出を記述する贈答歌、官舎の日常生活、宴会での歓送、歓迎などの感慨、京に残した妻への思いなど本人直接の言葉として現代に伝わるところ。妻、弟、若いころから付き合いのある安積親王、橘奈良麻呂、大伴池主らとの別れに直面したとき、政争に巻き込まれて左遷されたとき、宮廷政治の内情などが歌人として残した歌から伺い知ることができる。

伝統ある豪族の後継ぎとして育ち、父とともに太宰府に滞在した幼少期、内舎人として宮廷生活を始め従五位下宮内少輔として20代を過ごした。29歳には越中守として地方官として5年間を過ごし、そこで生涯の半分ほどの歌を詠んだ。少納言として京に戻り、兵部大輔、右大弁として活躍、橘奈良麻呂、大伴池主、大原今城らとの親交を深めた。橘諸兄が死んだ後の政界変転、橘奈良麻呂の変が契機となり一族が分裂、池主らとも別離。その後4年間の因幡守、信部大輔、薩摩守、太宰少弐、民部少輔、中務大輔、相模守、左京大夫、上総守、衛門督、伊勢守を歴任して40-50代を経験。京に戻っては参議、春宮大夫、中納言に昇進、鎮守将軍として陸奥の地に派遣され生涯を閉じた。

万葉集には家持以外の大伴一族として、旅人、池主、駿河麻呂、宿奈麻呂、坂上郎女、坂上大嬢ら230首があり、家持歌を合計すると一族で700首を越えることになる。百人一首に選ばれたのは古今集から「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにくる」天の川で織女が渡る橋とみたてた様子を詠んだこの歌は万葉集には入っていない。「海ゆかば みずくかばね」は家持によるもの。本書内容は以上。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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