JR立花駅近くにある映画館「波の上キネマ」は経営難が続いていた。祖父が昭和24年に開設したという映画館は父があとを継ぎ、それを引き継いだ安室俊介は、近所に増えるシネコンや、デジタル化の波が個人経営の映画館の経営を圧迫していることを痛感、映画館を閉じることを考えていた。そんな「波の上キネマ」の閉館危機を報じる新聞記事を読んだ一人から、連絡があった。それは台湾人の劉彩虹、俊介の祖父について伝えたいことがあるという。俊介が5歳のときに亡くなった祖父。俊介は祖父の俊英が沖縄出身であることと、祖母は沖縄の施設でまだ存命であることしか知らない。劉から聞かされた祖父の話は驚愕の昭和史だった。劉の祖父は、終戦まで炭鉱があった西表島で、俊介の祖父と一緒に悲惨な炭鉱労働を強いられ、脱出を試みた仲間だった。
祖父の俊英は早くに両親に先立たれ、昭和のはじめに沖縄から尼崎に出てきたがまともな仕事にはつけず、捨て鉢になっていた。西表島で稼ぎの良いさとうきび畑の仕事があるという、床屋でたまたま話を聞いた男の誘いに乗った。3日後に神戸の港に来いという話で、支度金として5円を手渡されたが、それは映画を見て酒を飲み、一晩遊べるほどの金額、話を信じてしまう。船に乗せられ那覇に一時上陸した。そこで連れて行かれたのが、辻にある遊郭「月地楼」。好き放題飲み食いをさせてもらい、いい気分になったところでトイレに行くため席を立つ。そこで偶然見かけた少女は「ウニゲーサビラ、タシキークィミソーレ(お願いです、助けてください)」と言うではないか。チヌーと呼ばれていた少女の真剣な眼差しは俊英の頭に焼き付くように残るが、俊英にはどうしようもない。
翌日、那覇の港から、石垣、そして連れてこられたのは、海に囲まれ、密林ジャングルに囲まれた炭鉱だった。ここまでの船賃や支度金は借金として返済してもらうという。炭鉱での頭は「話が違う」と言っても通じる相手ではなかった。支払われるのは、炭鉱内でしか通用しない銭札で、一日の工賃は、食事代、宿泊費、前借り借金、疲れて飲む酒代を差し引くと手元には何も残らない。逃げようにも、周りは「緑の牢獄」、西表島の外側には広大な海原と強い海流がある「海の監獄」だった。実際、逃亡に成功した労働者は一人もいないとのことだった。
一緒につれてこられた労働者たちは、一日16時間以上にもなる炭鉱内での過酷な労働、マラリア、質素な食事、仲間内の喧嘩、逃亡して罰則を与えられ、その後の人足頭による暴力などで、次々と病気になって死んでいく。次々に新入りが来ては新陳代謝が進むように人は入れ替わる。日中戦争の激化で、炭鉱生産に拍車がかかり、労働者の数がもっと必要になる。炭鉱労働の過酷さは島外にも知れ渡ってきたので、世の中や、新たに連れてこられる労働者に向けた、炭鉱の良いイメージ、明るい雰囲気のアピールが必要な時期になっていた。
体が丈夫だった俊英は6年も経つうちに炭鉱労働者の最古参になる。労働者の一人が演奏するハーモニカの音楽に、深く癒やされた経験から、こんな過酷な環境でも娯楽は重要だと思うようになる。労働者の中でも一目置かれていた古賀という男に、この炭鉱の成り立ちや経営者の麻沼のことを知らされる。俊英は炭鉱労働者にも娯楽が必要だと、期待もせず麻沼に訴え出て、思わずそれが受け入れられた。俊英の提案は映画館の設置。炭鉱イメージを良くしたい麻沼のニーズと思わぬ一致を見た俊英の提案は実現することになる。俊英はそこで知り合った何人かの映画好きとの会話で、チャップリンの「街の灯り」「モダンタイムズ」などを知り、それを炭鉱でも見たいと思ったのだ。俊英は映画上映に来てくれる技術者と知り合いになり、月地楼の少女への手紙を託す。
台湾出身だという志明という男が新入りとして炭鉱にやってきた。志明は、信頼できる男だった。台湾の両親の話し、野球の話、映画の話をするうちに、炭鉱と西表島からの脱出方法を相談するようになる。俊英は、映画館の男に頼んだ手紙の返事を受け取り、チヌーという少女は今でも月地楼で働いていることを知る。しかし、チヌーはこともあろうか、麻沼に身請けされる予定だということが分かる。志明は慎重で念入りに脱出方法を考えていた。しかし、炭鉱の食堂に働く女性と良い仲になり子供もできたようなので、自分は一緒にはいけないと言う。脱出経路、途中での食料調達と食べられる動植物の知識、廃村にある小屋とその後の手はずなどを相談、ある夜俊英は単独脱出を試みるが、海辺の小屋で古賀に見つかり、連れ戻されてしまう。
しかし、俊英の脱出を実現してくれたのは、映画フィルムを持ってきて上映してくれた石垣島の男だった。男は炭鉱経営者の麻沼に恨みを抱いていた。彼は、映画上映道具に俊英を押し込んで、船で島から連れ出すことに成功した。俊英は、那覇の辻にある「月地楼」の女性、手紙を託した相手のチヌーに会いたいことを伝える。男の手引でチヌーと再会した俊英は、手配した漁船で、チヌーと一緒にマニラに逃亡する。劉が語ってくれた祖父の物語はここまでだった。俊介は、沖縄の施設にいる祖母を訪ね、畳もうと考えていた映画館のリニューアルを決心する。ストーリーは以上。
2021年2月に兵庫県立芸術文化センターで、ピッコロ劇団による公演もされたという、「波の上キネマ」の原作である。
ストーリーには多くのエピソードが語られ、作者の想いや主張が込められている。琉球政府が薩摩藩やペリー艦隊にも隠していた炭鉱の存在が、男女の睦言からバレてしまったエピソードや那覇の辻にあった遊郭では、貧しくて売られてきた少女には、琉球の悲しい歴史。炭鉱労働者の過酷な環境では、戦争への忌避感と琉球人、台湾人への差別。音楽と映画で過酷な労働の中に潤いを見出した俊英のしなやかな感性。近年のシネマコンプレックスの広がりと映画の風情が薄れてきたことへの郷愁。神戸と尼崎の町を語る中では、戦前戦後を通して沖縄出身者が本土で受けてきた被差別感。読者の置かれてきた環境によって、胸を打たれる部分が違うかもしれないが、悲惨で絶望的な環境においても希望を持ち続けることの重要性は、通底する低音のリズムのように読後の今でも響き続けているようだ。