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意思による楽観のための読書日記

日本史を変えた8人の将軍 本郷和人、門井慶喜 ****

『家康、江戸を建てる』の著者、門井慶喜が中世史を専門とする本郷和人と対談するのが本書。日本史で、頼朝から慶喜までの700年にわたり、朝廷に代わって政権の座にあったのが鎌倉、室町、戦国、江戸各時代の将軍たち。

将軍といっても、本来は鎮東将軍、征西将軍などさまざまな将軍があるなかで、なぜ征夷大将軍だけが武家の棟梁とされたのか。将軍に与えられた権力には軍事と政治があり、それらはどのように変化していったのか。東大史料編纂所教授と直木賞作家が、様々な視点から解き明かそうとする。

坂上田村麻呂は791年から蝦夷征伐に参加、797年に桓武天皇に征夷大将軍と任命され、蝦夷の頭領、アテルイを都に連れ帰った。対談の二人が考える兵力は4000人、ロジスティクスを考えればそれが限界だったろうと推察する。田村麻呂は朝廷の信頼が厚い。その田村麻呂が蝦夷の頭領を連れてきたことで、征夷大将軍の権威が一気に上がった。その後、田村麻呂は810年の薬子の変を鎮圧した。武家政権の頭領がすべて征夷大将軍に任じられるのは田村麻呂の成果を後世が評価したからだと。だいたい、朝廷の貴族たちにとって、関東や越、毛野国より東北の場所というのは想像もできない、関心も薄い場所。平泉にある毛越寺とは変わった名前だが、越、毛を見渡せるようなすごい場所にあるお寺。平泉は金が取れたために、東大寺大仏建立で金が必要になった朝廷では、東北の有力な拠点となったが、本来は遥か彼方の興味のない場所であった。奥州藤原氏はこの金で経済力を蓄え勢力を拡大した。源氏が前九年の役、後三年の役で東北の支配権を確立したときにも、田村麻呂の偉業を称えることで自分たちの勢力拡大に利用した。

清和源氏の系統図を見ると、義朝、頼朝のラインが源氏本流ではあるが、同じ八幡太郎の子孫に足利氏、新田氏がいる。八幡太郎の兄弟筋が、佐竹氏、武田氏、平賀氏となり、頼朝が関東武者の頭領として立ち上がった時の位置づけが分かる。それぞれが東国の頭領としてはほぼ、横一線。検非違使として都にいた為義の息子義朝が関東に下り、その後関東武者たちと主従関係を組み直した。これが頼朝が一歩前に出た切っ掛け。2004年に見つかった文書で、木曽義仲が任じられたのは征東大将軍、頼朝は近衛将軍より上の大将軍を望んだということが分かった。田村麻呂で縁起のいい征夷大将軍のほうが良いのでは、という勧めがあり頼朝も征夷大将軍となった。鎌倉幕府成立は最近の教科書では全国地頭任命の1185年とされるが、1180年挙兵、1190年右近衛将軍任命、1192年征夷大将軍任命でもおかしくはない。現に、足利尊氏は教科書では1336年建武式目を定めた年が幕府成立だが、1338年征夷大将軍に任じられた時でもおかしくはない。家康は今でも征夷大将軍に任じられた1603年を江戸幕府成立としていてるが、関ヶ原の戦いのあとに所領安堵をした1600年でも良いはず。統一的基準が確立しているわけでもない。土地争いが武家の力を上げ、土地の安堵や恩賞、地頭任命権など、武家が土地の所有権を確立したのが鎌倉武家政権のメルクマール。その後、北条氏が実権を握るが将軍とは名乗らなかった。同時に、有力御家人の比企能員、梶原景時、和田義盛などを失脚させる。北条政子の存在、京より大江広元、三善康信など能吏を招聘、御成敗式目制定による合議制、清和源氏の有力者、御家人同士の利害調整能力などを行っていったこと、北条氏としての全体政策の勝利だった。

建武政権を敵に回して足利尊氏が立ち上がった時、東国武士たちも挙兵したのは、足利家が将軍になれる家柄だったから。武田氏、平賀氏、佐竹氏、新田氏なども同列にいたはずだが、後醍醐天皇政権樹立とその後の動きは、尊氏にとって時の運、地の利、天の声だった。中先代の乱で、尊氏が望んだ征夷大将軍に後醍醐天皇は任命しなかった、これが裏切りの切っ掛けとなる。新田氏としても「今こそ自分が」と思ったはずで、後醍醐天皇からの尊氏討伐の院宣をもらい、勢いづいた。その時、征夷大将軍に任じられたのが護良親王で、それでは武士たちは付いてこない。それが後醍醐天皇には分かっていなかった。後醍醐天皇に付いたのは子飼いの名和長年、楠木正成。天皇に反感を抱いた東国武士たち、尊氏が逃げた九州、中国の武士たちをも団結させた。京に再び攻め上がった尊氏は、都を制圧、建武式目を制定し、後醍醐天皇勢力を一掃、北朝天皇を擁立。これが1336年なので、教科書的には幕府成立。征夷大将軍には1338年に任じられる。弟の直義は「鎌倉に帰ろう」と言ったのに尊氏は京都に留まった。真意は謎だが、鎌倉政権の末期の混乱を、京における流通と経済のグリップ力不足と考えたからではないかという。鎌倉から室町時代までの武士が何に価値観を求めたのか。中世はそれが土地とその安堵と具体的なのに対し、江戸時代には武士がサラリーマン化。具体的安堵恩賞の代わりに幕府が重視したのが朱子学による忠義と孝行の考え方だった。

生まれながらにして将軍であり、第一人者だったのが足利義満。有力大名を粛清し幕府権力を強化、南北朝を統一、日明貿易樹立、商工業の発達促進を行ったことなどが業績。最後は引退して、武家として初めて大御所政治を行った。つまり尊氏が欲しがっていた征夷大将軍のポジションなど大した価値はない、と自ら示した。しかし、その後の足利家将軍たちはパワーを失っていく。

織田信長と豊臣秀吉、この二人は将軍権威を必要としなかった覇者であり、二人共差し出された機会を断っている。源氏、平氏という将軍に必要な家柄などの建前はまったく不要だと考えてもいた。義昭が亡くなったのは1597年なので、それまでは元将軍に遠慮があったのかもしれない。「天下布武」という言葉の天下概念は畿内に留まる、というのが今の主流の考えらしいが、対談の二人はもっと広く信長は捉えてはずだとする。信長は、一向宗や延暦寺の焼き討ちで大量の一般人を巻き沿いにしている。朝廷を滅ぼしかねない、と光秀が懸念したのかもしれないし、それが本能寺の原因になった可能性だってある。本能寺があるのは京の真ん中で、それ以外の場所、例えば安土城で殺されていたとしたら秀吉の中国大返しができたかどうかも疑問。いや安土城なら光秀は暗殺決断はできないかもしれない。

徳川家康は江戸の土木工事を代官頭の伊奈忠次に命じた。彼には1.2万石の武蔵小室藩しか与えていないが、忠次には野心はなかった。佐渡や石見銀山を管轄した大久保長安が私的に資金乱用をした、それを家康は警戒したのかもしれない。家康は秀吉の孫に当たる秀頼の息子で8歳だった國松を六条河原で処刑しているが、生き延びた幼い頼朝がその後清盛を征伐したことに学んだのではないか。その後、尾張に義直、駿河に頼宣、近江に譜代の井伊、北伊勢に信望厚い藤堂景虎を並べている。岡山に次女の婿池田氏、広島には三女の婿浅野氏を配置、西への備えを万全にした。三代目の選定では、春日局が活躍、江姫が寵愛する次男の国千代は甲府藩主とし、長男の竹千代を家光として継がせる決定をしたのは春日局の手回しもあった。長子相続を徳川宗家のシステムとすることでその後のお家騒動を避けたかった。

徳川吉宗は紀伊第二代藩主の四男、越前丹生郡に3万石をもらい部屋住みで終わる予定だったのが、家督を継いだはずの長兄、三兄が相次いで死んで22歳で第5代紀伊藩主となる。その10年後には、宗家の7代将軍家継が八歳で早世、吉宗に将軍のお鉢が回る。江戸時代の三大改革は吉宗の亨保、松平定信の寛政、水野忠邦の天保の改革。いずれも大成功には程遠いが、享保の改革は一番マシ。庶民向けの視線が感じられ、目安箱設置、米価格の調整、判例集である公事方御定書の編纂、相続ではなく役職により石高を決める足し高制の導入もあった。三卿(吉宗の次男の田安家、四男の一橋家、孫の清水家)を設立し、後継者がいない時の保険としたことも重要。後継者をだれにするか、その仕組を長続きさせることは組織リーダーが最も重要視すること。吉宗の改革で、江戸時代はさらに150年ほど生き延びた。

 徳川慶喜は英明なリーダーだったのか、それとも臆病な敗残者か、という議論がある。慶喜は大政奉還で、政治の大権は朝廷に渡すが、徳川家と各藩の主従関係は続くと読んだのではないか。それは王政復古の大号令により否定され、新政府樹立で将軍職が廃された。鳥羽・伏見の戦いで、錦の御旗を見たときに、慶喜は、これ以上の国内混乱は英仏など諸外国の思うつぼだと考え、一切の権力を手放す覚悟を決めた。海軍力では新政府軍を圧倒する力を持っていたはずなのに、大阪城から逃亡するのは、諦めと覚悟がなければできなかった。敵前逃亡は武士としては最低の恥、しかし国家のリーダーとしてはありうる選択だった。本書内容は以上。

二人の対談による歴史談義は、様々なエピソードが絡んできて、歴史好きにはたまらない一冊。

 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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