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手と目とあたま

まずは手を動かすこと。そして、目でよく見る。頭を使って考えるのはそのあとだ。重要なのは、順序とバランス。

おひさしぶりです。

2011-10-05 | 日記


秋はどうしてこんなにも空が美しいのか。
いちいち見上げては、夏からの変化にただただ驚くばかり。



おひさしぶりです。
家にもとうとうインターネットがやってきて、ブログも再開です。

ご無沙汰しておりましたが、またおつきあい下さい。



秋も深まってきたけれど、畑にまだかろうじて咲く花の蜜を集めに、
クマバチが毎日やって来ます。
まるまるっとして、なんだかミツバチよりもかわいいかもしれない。




Round.

2010-09-19 | 日記














とてもとても、おひさしぶりです。


一級河川の中では日本で一番きれいとされている三重県「宮川」上流沿いの集落に引っ越してきて、
一ヶ月すこしたちました。

夏休み中は、川遊びやキャンプや自然学校へ行く車が結構通ったけれど、
9月に入ればそれもぱったり。
村はいつもの静けさに戻り、「秋」という次の客人を招き入れる準備をしているところ。


夜には闇と星と月明かりを、
朝には山にかかる霞と朝焼けと鳴き交わす鳥の声を、
夕暮れには散歩をする人たちと他愛ない立ち話を、
昼には惜しみない日差しともったり過ぎる穏やかな時間を。

そして冷たくて美味しい山水と、深い谷から反響して聞こえる川の音。


この土地の贅沢をめいっぱいに享受しながら、日々が過ぎていきます。


最初はインターネットをひくつもりだったけれど、
「ないほうがいい」という結論にどうしても達してしまい、
とりあえずしばらくは今のままでいようと思っています。

このブログも閉じちゃおうかなぁと思ったけれど、当分「おやすみ」ということにして、
置いておくつもりです。


携帯電話は通じるのでご安心を。


今後の目標は、田んぼを借りること、ニワトリを飼うこと。
描くべき絵、描きたい絵、形になるのを待っている手仕事たちときっちり向き合いながら、
畑の手入れもしていくつもりです。


季節はまわる。すべては、うつりゆく。


またいつか、お会いしましょう。


土井川まり

Life is beautiful.

2010-07-22 | 日記
ごぶさたしております。
現在、ネット環境がないため、Web関連すべてに手がつけられない状態です。
来月には開通予定。
もう少々お待ちを、そしてお付き合いをよろしく。



「人生は美しい。人生は素晴らしい。」

私は何度でも言う。
誰に聞かれても、自分がどんな状況にあっても私は言うだろう。
人生は美しい、と。
それは意思表明、「自分の人生」との付き合い方における宣言だ。
美しくないことも、くだらないことも、心の置き所のない辛く悲しい出来事も、
すべてひっくるめてそれでも「Life」を肯定するという宣言。


重要なのは、「必要な余計なもの」。
見落としてはいけないのは「無意味の意味」。


遊びこそ人間の本質だと言い、人間を「ホモ・ルーデンス」(遊び人)と呼んだ
ヨハン・ホイシンガーの言葉を思い出す。


今わかっているのは。

全ての手仕事は私を救うということ。
そして「絵」は、手仕事という土台からさらに解放へと向かうことのできる唯一の表現で、
人とつながる手段でもあること。
読書は、作者という他者の頭の中へ身をゆだねる、つまり、
「わたし」という自我からの一時の解放・休息を意味し、
パンやケーキを焼くことは小さなご褒美だ。
コーヒーを飲む時間は、思考の湖をゆっくり背泳ぎで浮かんでいるようで、
それが誰かと一緒なら、並んで泳いでいるみたい。


どこにいても、私がやることはほぼ同じ。

最近、少し違うのは、そこに「運動」という要素が加わったこと。
やりたいことを、やりたいときに、やりたいだけできるようにメンテナンスしておかなくちゃ、と思う。

侘寂(わびさび)

2010-06-19 | 日記
美濃のアーティストインレジデンスにいたとき、南アフリカのアンニャが
日本ぽい少しさびれた景色や物を目にすると、よく「Oh!WABI-SABI!」と言っていたっけ。

わびさび。

言葉としてだけ知っているけれど、本質的な感覚としてよくわからないなぁと思っていたもの。
そのことがようやく、この前茶人と話していた時わかった。

「わび」とは。
物がなんにもないことの侘しさ。

「さび」とは。
本来そこにいるべき人がいないことの寂しさ。

ということなんだよ本当は、
と、言っていた。

その言葉を、例えば雨の夜なんかに思い出すと染み入るようによくわかる。


端正な日本庭園は、あくまでわびさびという「美学」なのであって、
その本質は、実は孤独で惨めったらしいものなのかもしれなかった。

かっこよく見えるものの実情は、かっこよくない。
本当の美をはらんでいるのは、美しくないものだ。

その真理をここにも見る。

畑と茶会とわたし

2010-06-14 | 日記
毎月第二土曜日曜は、赤目自然塾の畑で勉強会なので、二月から毎月参加している。
参加者はいつも150人くらい、20代30代40代がほとんどで、
みんなそれぞれに人生に思うところあって畑や田んぼを始めた面白くて優しい人たちだ。

そして最近は友達や顔見知りも増えてきて嬉しい。
田舎暮らしや畑作業はある意味とても孤独なので、似た考えの人たちと毎月ここで会えるのはとても心強い。

今月は子カブと小松菜を収穫、大豆とゴマを植え、田んぼの苗床の草引きをしてきた。
自然農の田植えは一般的な田植えよりも大分遅い。

自然農においては「雑草」「害虫」という考え方をしない。
けれども春から夏にかけての草の伸び方、虫たちの元気さには目を見張るものがあり、
彼らの生命力のまっすぐさ、「生きたい」という理由のない意志がとてもうらやましく感じられた。
畑から学ぶことのなんという多さ。

そしてこんなに過酷(に思える)な環境で豊かに実ってくれた野菜たちのいとおしいこと。


今回、とても面白い人と出会う。
彼は茶人で、トラックの荷台に茶室(!)を積んでどこでも茶会ができる。

赤目の勉強会の翌日に偶然畑の駐車場で出会い、
「君たちに出会えて嬉しいから」とお茶をたててくれた。

即席とは思えない完璧な茶道具で、即席の「野だて」。
やわらかい日差し、ちょうどいい風、音という音は鳥の声のみというシチュエーションは完璧で、
まるでお茶をたててもらう約束をしてここに来たかのようだった。

話はあちこちへ飛び、あらゆる深さで語られる。
その中心にはいつも「茶」という一本の塔がある。

こういった空間、人との関係性を作り出せる「茶の湯」というものの可能性について知る。



あまりにも完璧な瞬間というのを、私は写真に撮ることができない。
カメラを向けることができない。いつもいつも。

この全体を、偶然ではない偶然を、語られては宙に浮かび消えてゆく言葉たちを、
意識に広がるお茶の香り、感じている日差し、テーブルを横切るアリでさえも
切り取ることができるなら、撮るかもしれない。
あるいは、それでも撮らないのかもしれない。

完璧な瞬間の経験というのは、感覚の印象としてのみ、記憶に残るべきじゃないかと思うから。